※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その5)(172-173頁)
(36)-3 「自然観察」は、「無機物の観察」がいつしか「有機物or有機体の観察」にうつり、後者に重点が置かれる!「有機体」において、「外」といってもじつは「内」と区別のないものだ!「外は内の表現である」!
★《 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」》あるいは《(三)「理性」1「観察」》における「自然観察」は、「無機物の観察」が、いつしか「有機物or有機体の観察」にうつり、後者に重点が置かれる。かくて前者(無機物)の「法則」が、後者(有機物or有機体)の「法則」になってしまう。(172頁)
★ところで「法則」とは、「相反するものの綜合」として「相反するものが相反しながら帰一し、しかもまた対立に分裂すること」だ。(172頁)
☆「法則」についてのそういう考え方に、(「自然観察」において)もっとも適当しているのは「有機体」だ。(172頁)
☆「有機体」はそれぞれ独立的なもので、「環境」から自由に食物その他のものを摂取して、「自分」を形成して生きている。たとい「外」へ関係しても、けっきょくは「自己保存」のために働いており、なんとしても「個体」としての自分自身を、また「種族」としての自分自身を「再生」することをめざしている。(172頁)
☆だから「有機体」は、「外」へ関係するにしても、けっきょくは「自分自身」へ帰ってくるのだから、「外」といってもじつは「内」と区別のないものだ。(172頁)
《感想1》「外」といってもじつは「内」と区別のないものだとヘーゲルor金子武蔵氏は言うが、常識的には「外」と「内」の境界は明確だ。例えば「拷問」は、痛みの神経が行きわたった範囲としての「内」を対象とする。あるいは「物理的な身体」は触覚的に自らの範囲(「内」)を確定している。
《感想2》《「有機体」は、「外」へ関係するにしても、けっきょくは「自分自身」へ帰ってくるのだから、「外」といってもじつは「内」と区別のないものだ》とヘーゲルor金子武蔵氏は言うが、『高校生物基礎』の教科書は常識に従って「外」と「内」を明確に区別し、例えば次のように述べる。「生物は《外界》から取り入れた物質を、《体内》でバラバラに分解しエネルギーを取り出したり(異化)、単純な物質から複雑な物質を合成したり(同化)する。」「《生体内》での物質の化学反応を代謝という。」
★「個体」が「個体」として「自分自身を保存し再生していく」というのは、それ(「個体」)が「独立」することに相違ない。(172頁)
☆「個体」が「独立」するのは、食物その他のものを「環境」から摂取して行われるから、「環境から独立になる」ことはじつは「環境と連続する」ことで、「環境から分離する」ことではない。(172頁)
★「有機体」において、「外」はやはりある。しかし「内と外」といっても相即しているから、「外は内の表現である」という関係が成立する。(172頁)
☆すなわち「生物」と「環境」との関係において、「外は内の表現である」という命題が成立する。この命題は「観察」(※《 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」》)の全体に対して基本的意義を持つ。(172-173頁)
★「観察的理性」の段階に関して、これからの課題はこの命題「外は内の表現である」を種々の場合について検討することだ。この検討は次の順序で行われる。(173頁)
(イ)「有機体」と「環境」との関係
(ロ)「感受性」と「反応性」と「再生」との関係
(ハ) 「感受性」と「反応性」と「再生」の三者(※「機能」)と、「組織」(「神経組織」と「筋組織」と「内臓組織」)との関係
(ニ)「比重」(※質量)と「凝集力」との関係
(ホ)「論理学的心理学的法則」(※「論理学的法則」と「心理学的法則」)
(ヘ)「人相術」
(ト)「骨相術」(173頁)
(注)なお(イ)から(ト)まで、順序はヘーゲル『精神現象学』のテキストのままだが、表現は必ずしもそのままでない。(161頁)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その5)(172-173頁)
(36)-3 「自然観察」は、「無機物の観察」がいつしか「有機物or有機体の観察」にうつり、後者に重点が置かれる!「有機体」において、「外」といってもじつは「内」と区別のないものだ!「外は内の表現である」!
★《 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」》あるいは《(三)「理性」1「観察」》における「自然観察」は、「無機物の観察」が、いつしか「有機物or有機体の観察」にうつり、後者に重点が置かれる。かくて前者(無機物)の「法則」が、後者(有機物or有機体)の「法則」になってしまう。(172頁)
★ところで「法則」とは、「相反するものの綜合」として「相反するものが相反しながら帰一し、しかもまた対立に分裂すること」だ。(172頁)
☆「法則」についてのそういう考え方に、(「自然観察」において)もっとも適当しているのは「有機体」だ。(172頁)
☆「有機体」はそれぞれ独立的なもので、「環境」から自由に食物その他のものを摂取して、「自分」を形成して生きている。たとい「外」へ関係しても、けっきょくは「自己保存」のために働いており、なんとしても「個体」としての自分自身を、また「種族」としての自分自身を「再生」することをめざしている。(172頁)
☆だから「有機体」は、「外」へ関係するにしても、けっきょくは「自分自身」へ帰ってくるのだから、「外」といってもじつは「内」と区別のないものだ。(172頁)
《感想1》「外」といってもじつは「内」と区別のないものだとヘーゲルor金子武蔵氏は言うが、常識的には「外」と「内」の境界は明確だ。例えば「拷問」は、痛みの神経が行きわたった範囲としての「内」を対象とする。あるいは「物理的な身体」は触覚的に自らの範囲(「内」)を確定している。
《感想2》《「有機体」は、「外」へ関係するにしても、けっきょくは「自分自身」へ帰ってくるのだから、「外」といってもじつは「内」と区別のないものだ》とヘーゲルor金子武蔵氏は言うが、『高校生物基礎』の教科書は常識に従って「外」と「内」を明確に区別し、例えば次のように述べる。「生物は《外界》から取り入れた物質を、《体内》でバラバラに分解しエネルギーを取り出したり(異化)、単純な物質から複雑な物質を合成したり(同化)する。」「《生体内》での物質の化学反応を代謝という。」
★「個体」が「個体」として「自分自身を保存し再生していく」というのは、それ(「個体」)が「独立」することに相違ない。(172頁)
☆「個体」が「独立」するのは、食物その他のものを「環境」から摂取して行われるから、「環境から独立になる」ことはじつは「環境と連続する」ことで、「環境から分離する」ことではない。(172頁)
★「有機体」において、「外」はやはりある。しかし「内と外」といっても相即しているから、「外は内の表現である」という関係が成立する。(172頁)
☆すなわち「生物」と「環境」との関係において、「外は内の表現である」という命題が成立する。この命題は「観察」(※《 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」》)の全体に対して基本的意義を持つ。(172-173頁)
★「観察的理性」の段階に関して、これからの課題はこの命題「外は内の表現である」を種々の場合について検討することだ。この検討は次の順序で行われる。(173頁)
(イ)「有機体」と「環境」との関係
(ロ)「感受性」と「反応性」と「再生」との関係
(ハ) 「感受性」と「反応性」と「再生」の三者(※「機能」)と、「組織」(「神経組織」と「筋組織」と「内臓組織」)との関係
(ニ)「比重」(※質量)と「凝集力」との関係
(ホ)「論理学的心理学的法則」(※「論理学的法則」と「心理学的法則」)
(ヘ)「人相術」
(ト)「骨相術」(173頁)
(注)なお(イ)から(ト)まで、順序はヘーゲル『精神現象学』のテキストのままだが、表現は必ずしもそのままでない。(161頁)