宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その3):③「不幸なる意識」(クリスト教的意識)における「普遍性」と「個別性」の「結合」と「分離」の問題!

2024-06-05 15:26:46 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その3)(148-151頁)
(28) (B)「自己意識」の③「不幸なる意識」における「普遍性」と「個別性」の「結合」と「分離」の問題!「不幸なる意識」(クリスト教的意識)は「普遍的」なものと「個別的」のものとの矛盾を「統一」づけようとする!
★②「スケプシス主義」は、一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿(テンメン)されるという「矛盾」を自覚する。この「矛盾」を「統一」づけようとするのが③「不幸なる意識」(クリスト教的意識)だ。(148頁)
☆ここでは『精神現象学』はまだ「歴史哲学」と直接の関係を持たないが③「不幸なる意識」はクリスト教的意識だ。(148頁)

Cf.「不幸なる意識」(クリスト教的意識)とは、「個別的可変者」(人間)と「普遍的不変者」(神)との「分裂」からおこる「不幸」を克服していない意識だ。(150頁)

《参考1》②「スケプシス主義」(「懐疑主義」)は、①「ストア主義」がないがしろにする「個別的特殊的のもの」に目をそそぎ、これを「否定」し、もっと「自由」を「現実的」に実現しようとする。(147頁)
☆「抽象的」である①「ストア主義」が「主人」に相応する立場であるのに対して、②「スケプシス主義」は「奴」の立場に応じ、より「現実的」だ。即ち②「スケプシス主義」は「労働」し「形成」して「否定」によって「自由」を実現する「奴」の立場に応ずる。(147頁)

《参考2》②「スケプシス主義」はいつもすべてを「否定」してゆく。しかし「否定」してゆくには、「否定せられるもの」がなくてはならないわけで、「否定せられるもの」がいつも「向こうから現れて」くれねばならない。(148頁)
☆そこで「絶対の自由」すなわち「アタラクシアの自由」に到達したようでありながら、②「スケプシス主義」も「個別」や「特殊」にやはり依存する。(148頁)
☆②「スケプシス主義」は「感覚を否定」し、「知覚を否定」するといいながらそれに依存し、「支配隷従のおきては相対的のものにすぎぬとして否定」するといいながらそれに依存する。かくてここに②「スケプシス主義」が「アタラクシア」(無関心)(「心の平静」)を完全に実現しえぬゆえんがある。(148頁)

《参考3》ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)!(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」
A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、
B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」
((C)「理性」)(BB)「精神」:Ⅵ「精神」
((C)「理性」)(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」
((C)「理性」)(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

★「自己意識」の③「不幸なる意識」(Cf. ①「ストア主義」・②「スケプシス主義」)において、最初、「個別性」と「普遍性」という2つの面が「結合」しながら「分離」し、「分離」しながら「結合」している。(149頁)
☆「普遍的なもの」(変わらぬ永遠なもの、絶対的なもの)と「個別的のもの」(時間的な可変的な相対的な世間的のもの)が「結合」しながら「分離」しているとは、(A)「結合」の面からいうと「自己意識が普遍的絶対的なものにのぼろうとすること」であり、(B)「分離」の面からいうと「自己意識が普遍的絶対的なものへとどんなにのぼりつめたと思っても、やはり可変的世俗的一時的のものに拘禁されたものとして、顚落すること」を意味する。(149頁)

(28)-2 (B)「自己意識」の③「不幸なる意識」における「普遍性」と「個別性」の「結合」と「分離」の問題(その1):(あ)「ユダヤ的」宗教意識、あるいは「父」の位!「離れている」という面(「分離」)が強調される!「相対」と「絶対」が結びつきつつ離れているが、この「離れている」という面が最初は強調される!
★「自己意識」が「普遍的絶対的なもの」へとのぼりつめて落ちると、「絶対的なもの」から離れたので、かえって「絶対的のもの」を深く憧憬し、帰依してのぼろうとするが、しかしまた落ちる。これは「分裂」した意識だ。(149頁)
☆「可変的一時的のもの」(自己意識、Cf. 人間)と「永遠なるもの絶対なるもの」(Cf. 神)が、即ち「相対」と「絶対」が結びつきつつ離れているが、この「離れている」という面が最初は強調される。これは歴史的には「ユダヤ的」宗教意識だ。あるいは「三位一体」からいえば「父」の位だ。(149頁)

(28)-3 (B)「自己意識」の③「不幸なる意識」における「普遍性」と「個別性」の「結合」と「分離」の問題(その2):(い)「クリスト教的」宗教意識あるいは「原始クリスト教」! クリスト教の「受肉」!ただし「イエス」だけが「神」と同じで、「神人たる権威」をもつものは「イエス」だけであり、「他の人間」は「神たる権威」をもたないとされる
★ところで「自己意識」は、のぼっていって「神」と結びついたと思えばわかれ、わかれたと思えば結びつくというのだから、「神」も人間と「分離して」いるにとどまらず、人間と「結びついて」もいる。(149頁)
☆かくて「神」は単に「超越的のもの」でなく、「人間と同じようなもの」とならねばならない。(149頁)
☆この場合、ヘーゲルは「普遍者」を最初、「不変者」 das Unwandelbareといっておきながら、やがて「不変人」 der Unwandelbareといいかえるが、これはクリスト教の「受肉」のことをさしている。(149頁)
☆「神」(普遍者)は単に「世界を創造し摂理や審判を行う『超越的な神』」にとどまるのでなく、「イエス=クリスト」として「大工の子」として、「『人間』と同じ形をもったもの」となる。(149-150頁)

★前のことに結びつけて、「ストア主義」は「主」であり、「スケプシス主義」は「奴」であるところの点からは、
「不幸なる意識」(クリスト教)は「主奴の関係」を「内面的宗教的」に示しているものであって、「不変者」は「主」であり、「可変者」は「奴」だが、最初、「主」・「奴」はきりはなされ、だんだん結びつけられて、「神」も「人間」的形態をとる。(150頁)

★これを「歴史的」にいうと(あ)「ユダヤ的」段階から、(い)「クリスト教的」段階(「原始キリスト教」)に移ることをさす。(150頁)
☆そこでは「神」は、すでに「形態をもつもの」、「人間と同じ姿をもつもの」であるから、「賤しい大工の子イエス」であり、我々と同じ「個別者」だ。(150頁)
☆だから「罪深い我々」も、「人の子」であると同時に「神の子」という意義をもつ。(150頁)

★ところがヘーゲルによると、こうしたことを「普遍的」にとらえるには「概念」の立場が必要であるのに、「原始クリスト教」では「精神」の立場、「概念」の立場が十分到達されていないので、「神観」も「感覚的なもの・個別的なもの」にとらわれがちだ。(150頁)
☆したがって「イエス」だけが「神」と同じで、「神人たる権威」をもつものは「イエス」だけであり、「他の人間」は「神たる権威」をもたないとされる。(150頁)

★「原始クリスト教」は、このように、がんらい「普遍的」に考えるべき「絶対者」を、「感覚的表象的個別的」に考えようとする。(150頁)
☆「普遍者」が「形態」(「人間と同じ姿」「個別性」「賤しい大工の子イエス」)をうることによって、「クリスト教」(「原始クリスト教」)では「ユダヤ教」とちがって、「神」は一層「人間」に近づいてる。(150頁)
☆しかし「神」を「個別的感覚的表象的」にとらえようとするから、「人間の自己」と「分離」したものになり、
「個別的可変者」(「可変者」or「人間」)と「普遍的不変者」(「不変者」or「神」)との分裂からおこる「不幸」を「原始クリスト教」は克服していない。(150頁)

Cf.「不幸なる意識」(クリスト教的意識)とは、「個別的可変者」(人間)と「普遍的不変者」(神)との「分裂」からおこる「不幸」を克服していない意識だ。(150頁)

(28)-4 (B)「自己意識」の③「不幸なる意識」における「普遍性」と「個別性」の「結合」と「分離」の問題(その3):(う)「中世カトリック教」の宗教意識あるいは「中世カトリック教会」!「変じないもの」(「普遍者」・「神」)と「変ずるもの」(「個別者」としての「人の子」であるイエス)が相近づく!
★けれども「イエス」はやがて死ぬ。すると「イエス」のみが「神の子」であると信じていた弟子たちは非常な悲哀におちいる。しかし「イエス」が死して追憶のうちに生きるようになったとき、「イエス」は次第に「精神化」される。「神の子」は「感覚」によって見ることができるのではなく、「普遍的に思惟され」ねばならないということになる。「神」は「外にある」のでなく、「心にある」ということになる。かくて「変じないもの」(「普遍者」)と「変ずるもの」(「個別者」としての「人の子」であるイエス)が相近づき、次第に(う)「中世のクリスト教会」・「中世カトリック教の意識」が生まれる。(150-151頁)

★ヘーゲルは(う)「中世カトリック教の意識」を「純粋意識」と「現実意識」と「現実意識の自己否定」という3つの段階に分けて展開する。(151頁)(後述!)

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