宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」:「東方の宗教」(A「自然宗教」)→ギリシャのB 「芸術宗教」→クリスト教(C「啓示宗教」)!

2024-07-19 20:06:33 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」(226 - 頁)
《参考》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)

(53)ヘーゲルは「古代」について「宗教」を核として考える!「宗教」は「絶対実在の自己意識」である、すなわち「神」は「人」として構想されている!「絶対実在の人格性」が明確になるのはクリスト教(C「啓示宗教」)においてだ!
★ヘーゲルにおいて「古代」は「宗教」を核として考えられている。(226頁)
Cf.  ヘーゲル『精神現象学』目次(抄): (CC)「宗教」(Ⅶ)A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」
★ここで「宗教」についてのヘーゲルの考えをまとめておく。(金子武蔵氏)(226頁)

★「宗教」は「絶対実在の自己意識」である。かくてクリスト教以外の宗教でも「『神』は『人』として構想されている」。(226頁)
Ex. ペルシャの宗教は、「光」を「絶対実在」と考えるものでA「自然宗教」だが、しかし「光」をオルムズドOrmuzud あるいはアフラ・マズダ Ahura Mazda として「人格的」なものとも考えている。(226頁)
☆しかし「絶対実在の人格性」が明確になるのはクリスト教(C「啓示宗教」)においてだから、クリスト教は最も本来的な宗教であり、価値の上で最上だ。(ヘーゲル)(227頁)

《参考》「啓示宗教」:人間をこえた存在者からの教えに基礎をおく宗教。通常の体験や理性的な認識に基づく、いわば「合理主義的な宗教」に対比される。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など。

(53)-2 ギリシアのB 「芸術宗教」:ここでは「神像即人像」だ!またヘーゲルには「東方に対して西方が優越する」という思想がある!
★「クリスト教」(C「啓示宗教」)に価値の上で次に位置するものは、ギリシャのB 「芸術宗教」だ。なぜなら、ここでは「神像即人像」だからだ。(227頁)
★ヘーゲルには「東方に対して西方が優越する」という思想がある。ヘーゲル『歴史哲学講義』は次のように言う。「《東方》では《外的な自然的な太陽》が昇り、それが西方に沈む。しかしその代わりに《西方》では、《より高次な輝きを発する自己意識という内なる太陽》が昇る。《感覚の目で見る太陽》は東方からから昇って西方へ沈むが、その西方は、じつをいうと、《自己意識という内なる太陽》が昇るところである。この《内なる太陽》の方が《外なる太陽》よりも、一層の輝きを発するものである」。(227頁)

(53)-3 「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階にあたり、「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたる!「技能・知識」を拡げ深め、「人間は自然の主人である」という「自己意識」のあけぼのが訪れる:「エジプトの宗教」の段階!「ギリシャ宗教」をヘーゲルはB「芸術宗教」と呼ぶ!
★ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があるが、『精神現象学』全体の構成の上で「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとヘーゲルは考えている。(227頁)

★ヘーゲルは「ギリシャ宗教」を、シュライエルマッヘル(1768-1834)の語を借りて、((CC)「宗教」の)B「芸術宗教」と呼ぶが、その理由は次のごとくだ。(B)「自己意識」の段階には「主奴の関係」(2「主と奴」)があったが、「奴」は「道具」を使い「技術」を用いて「労働」する。しかしせっせと「労働」することを通じて、「技能・知識」を拡げ深め、「人間は自然の主人である」という「自己意識」のあけぼのが訪れる。これがヘーゲルでは「エジプトの宗教」の段階だ。(227-228頁)
☆次いで「ギリシャ宗教」をヘーゲルはB「芸術宗教」と呼ぶ。「エジプトの宗教」を通じて「自由」の意識が一段と進むと、「技術」ももはや「生活上直接の必要」に基づかない「自由」なものとなる。「ギリシャ人」はかかる「芸術」の立場から例えば「彫刻」において「神像即人像」というように「絶対実在」を構想し表現し、「ギリシャ人」においては「芸術が同時に宗教」、「宗教が同時に芸術」であって、「宗教」と「芸術」の間にほとんど区別がない。かくてヘーゲルは「ギリシャ宗教」を((CC)「宗教」の)B「芸術宗教」と呼んだ。(228頁)
☆こういうわけで「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)をもって、(B)「自己意識」の段階にあたるとヘーゲルは考えた。(228頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」(その3):(DD)「絶対知」は《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》の「表象性」を剥奪して成立する!

2024-07-18 10:05:43 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」(その3)(224 - 頁)
(52)-3 『ヘーゲルの精神現象学』後半、《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》の「史的叙述」!(DD)「絶対知」は《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》の「表象性」を剥奪して成立する!
★((C)「理性」)(BB)「精神」は最初A「人倫」(a「人倫的世界」b「人倫的行為」c「法的状態」)であるが、やがてその直接的統一が破れて、B「教養」の段階(Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」)において分裂に陥り、これが最後にC「道徳性」の段階(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心」)において、とくにc「良心」において克服される。(224頁)

★終点は(DD)「絶対知」であるが、これは《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》のまだまぬがれことのできない「表象性」を剥奪することによって成立する。(224頁)
☆しかしC「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が、(a)「自己」の側からのみするものであるときには(DD)「絶対知」も「主観的」たるをまぬがれないから、むしろ(b)「対象」の側からするものであるべきだが、実はこれはすでに成就されている。(224頁)

☆C「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が(b)「対象」の側からなされているとは、
「対象」は①「自体存在」の側面と②「対他存在」の側面と③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》という3つの側面(①②③)を具えているが、
最初の①「自体存在」を究極まで押し詰めたものは「観察」であり、
また②「対他存在」の側面は「啓蒙の有用性」の立場であり、
さらに③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》は「道徳性の良心」であるが、この「良心」においてすでに「対象」自身が「自己」となっているということだ。(224頁)
☆そこでヘーゲルは「啓示宗教」((CC)「宗教」C「啓示宗教」)と「良心道徳」((BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「良心」)とを比較して両者が実質的には同一であり、したがって「啓示宗教」の「表象性」が克服されるという観点から、(DD)「絶対知」の成立を説く。(224頁)

★一般にヘーゲルにとって「知識」は、「直接性あるいは表象性」→「媒介性」→「イデー(理性的知識)」という順序をとって成立する。(225頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』目次(抄)!
(BB)「精神」(Ⅵ)A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、
B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、
C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」(Ⅶ)A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」(Ⅷ)

Cf.  金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』目次(抄)!
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、
2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、
3「現代(あるいは絶対知)」

(52)-3-2 (C)「理性」において、(BB)「精神」から(CC)「宗教」をへて(DD)「絶対知」にまで至る運動(ヘーゲル):「道徳」((BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」)と(CC)「宗教」は独立に相互に並行して進み、最後に(DD)「絶対知」において両者が綜合される(金子武蔵)! 
★(C)「理性」において、(BB)「精神」から(CC)「宗教」をへて(DD)「絶対知」にまで至る運動には、普通のいい方をすると「道徳」と「宗教」という2つの方向があり、ヘーゲル『精神現象学』のテキストでは外形上、「道徳」((BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」)から「宗教」((CC)「宗教」)へ連続して進むとなっているが、むしろ「道徳」と「宗教」の2つの方向はそれぞれ独立のものとして相互に並行して進み、そうして最後に(DD)「絶対知」において両者(「道徳」と「宗教」)が綜合されるのだ。(金子武蔵)(225頁)

★(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
★「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
★そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)

★これを図示すると次のようになる。(225-226頁)
☆「客体性」・・・・(CC)「宗教」・・・・A「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」・・・・(四)1「古代」(226頁)
☆「主体性」・・・・「道徳」・・・・(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」・・・・(四)2「近代」(226頁)
☆《これら2つの系列》すなわち《(四)1「古代」的系列と(四)2「近代」的系列》を綜合する(DD)「絶対知」・・・・(四)3「現代」(226頁)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」(その2):《 (A)対象意識、(B)自己意識、(C)(AA)「理性」》の回顧!《(BB)精神、(CC)宗教、(DD)絶対知》の史的叙述!

2024-07-17 13:27:09 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」(その2)(221 -224頁)
(52)ヘーゲル『精神現象学』後半、《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》は、「歴史的順序」に従って解説する:金子武蔵!
★ヘーゲル『精神現象学』はがんらい、彼の哲学への「認識論的序説」であって「歴史哲学」ではない。しかしヘーゲルの「精神」の概念には「社会性」と「歴史性」がふくまれており、このことは『精神現象学』後半の《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》において顕著になってくる。かくて「精神」のこれらの諸段階については、次のような「歴史的順序」に従って解説する。(金子武蔵)(221-222頁)
★ヘーゲル『精神現象学』後半、《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》:「精神の史的叙述」!(222頁)
1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、
2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、
3「現代(あるいは絶対知)」(222頁)

★ヘーゲル『精神現象学』後半の始点は《 (C)「理性」(BB)「精神」(Ⅵ)》である。(223頁)

(52)-2 ヘーゲル『精神現象学』前半についての回顧:《 (A)「意識or対象意識」(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、(B)「自己意識」(Ⅳ「自己確信の真理性」)、(C)(AA)「理性」(Ⅴ「理性の確信と真理」)》!
★さて《 (C)「理性」(BB)「精神」(Ⅵ)》に到るまでのヘーゲル『精神現象学』の前半について回顧しよう。(223頁)
★(A)「意識or対象意識」は「感覚」から「知覚」をへて「悟性」にいたるが、「悟性」の把握する「内なるもの」は自体的にはすでに「自己」である。かくて「悟性」の「無限性」からみれば、「対象意識」は「自己意識」に転ずる。(223頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』目次(抄)(A)「意識or対象意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
Cf.  金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』目次(抄)(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」

★(B)「自己意識」は、最初は1「欲望」であるが、「欲望」の満足はただ「他の自己意識」との関係においてのみ得られるという理由によって、「対物関係」は「対人関係」に転じる。ここに「承認」を得るための生死を賭する戦いが展開されて2「主奴関係」が成立する。しかし「主は奴に、奴は主に転じる」ことによって「自己意識」は3「自由」を得る。この「自由」は「ストア主義→スケプシス主義→不幸なる意識」として展開されるが、最後の段階(「不幸なる意識」)において「自己意識」にも、徹底した「否定」の必要であることが自覚される。かくて「自己意識」は「対象化」され「普遍化」(※間主観化)され、ここに「対象意識」にもその意義が恢復される。かくして(C)(AA)「理性」が生じる。(223頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』目次(抄)(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
Cf.  金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』目次(抄)(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」

★(C)(AA)「理性」は、最初はおのれの内部における「対象意識」の側面を展開するものとしてA 「観察(観察的理性)」であるが、その最後の頭蓋論の「無限判断」において、「理性の主客統一」は「理論的」に見出さるべきものであるよりも、むしろ「自己意識」において「実践的行為的」に実現されるべきものであることが想到される。かくてA「観察的理性」はB 「行為的理性」(「理性的自己意識の自己自身による実現」=「行為」)に移る。(223頁)

★しかしB「行為的理性」の最後の段階(c「徳と世路」)において、「『理性』がすでに『世路』のうちにむしろすでに実現されている」ことが自覚されて、「個人」はC 「社会」のうちに安住しうるようになる。(C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」=「社会」!)(223頁)
☆だがC 「社会」のうちに安住しうるようになった「個人」にもまだ「主観的個別性」が残っているが、それはb「立法的理性」およびc「査法的理性」によって一応、払拭され、かくして(C)「理性」(BB)「精神」が成立する。(223-224頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』目次(抄)(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
Cf.  金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』目次(抄)(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」

《参考1》「観察的理性」:「理性が物であり、物が理性である」!ヘーゲルは「精神物理学」的立場や「唯物論」にもその意義を認めようとしている!「唯物論」(or「頭蓋骨論」or「精神や理性が物である」)は「結合」の一面だけを見て、「分離」の面を全然、忘れている!(186頁)
☆(A)「『観察的理性』は『頭蓋骨』において『精神』の表現をみる」。「頭蓋論」(「骨相術」)は、根本的にいうと「理性が物であり、物が理性である」ということにその根拠を持つ。この根拠によって立つものが「観察的理性」にほかならないのだから、「頭蓋論」は「観察的理性」の極限であり完成だ。(186頁)
☆(B)「理性が物であり、物が理性である」というときの「物」は、「からだ全体」であってもよいし、また「物質的生産力」のごときものであってもよい。ここでヘーゲルは「精神物理学」的立場や「唯物論」にもその意義を認めようとしている。(186頁)
☆(C)しかし「精神や理性が物である」のは「無限判断」の「肯定面」において成立することにすぎない。「無限判断」には、もう一つ「否定面」がある。「無限判断」は「肯定判断」であると同時に「否定判断」だ。(186頁)
☆しかも「結合」においても「分離」においても「無限」だ。(186頁)
☆「否定面」からすると、「精神・理性・自己」に対する「物」、その極限としての「骨」は、「分離」したものだが、この「分離」の面を「頭蓋骨論」(「骨相術」)は忘れていると、ヘーゲルは言う。(186頁)
☆即ち、たしかに「唯物論」(or「頭蓋骨論」or「精神や理性が物である」)も成り立ちはするが、それは「結合」の一面だけを見て、「分離」の面を全然、忘れている。(186頁)

《参考2》ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考2-2 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」(その1):《 (C)「理性」(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》は、「歴史哲学」的順序で論じる!

2024-07-16 16:27:39 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」(その1)(220 -221頁)
(51)ヘーゲル『精神現象学』の前半である《 (A)「意識or対象意識」(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、(B)「自己意識」(Ⅳ「自己確信の真理性」)、(C)(AA)「理性」(Ⅴ「理性の確信と真理」)》と、後半である《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》との比率は8対11だ!
★これまでヘーゲル『精神現象学』のうち前半、(A)「意識or対象意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界、
(B)「自己意識」orⅣ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」、
(C)(AA)「理性」orⅤ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
以上について論じた。(金子武蔵氏)(220頁)

★これからヘーゲル『精神現象学』のうち後半、《 (C)「理性」:(BB)「精神」、(CC)「宗教」、(DD)「絶対知」》あるいは《 (C)「理性」Ⅵ「精神」、Ⅶ「宗教」、Ⅷ「絶対知」》について論じる。(金子武蔵氏)(220頁)
☆ヘーゲル『精神現象学』の前半である《 (A)「対象意識」(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、(B)「自己意識」(Ⅳ「自己確信の真理性」)、(C)(AA)「理性」(Ⅴ「理性の確信と真理」)》と、後半である《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》との比率は8対11だ。(220頁)

(51)-2 ヘーゲル『精神現象学』は、ヘーゲル哲学の①「認識論的序説」であるとともに、②「歴史哲学」であり、さらに③「精神哲学」・「哲学概論」だ!
★ヘーゲル『精神現象学』は、「もっとも直接的な意識」であるⅠ「感覚」から始めて、哲学知であるⅧ「絶対知」にまで到達せんとするものとして、ヘーゲル哲学の①「認識論的序説」だ。(220頁)
★しかしヘーゲルは、人間の「意識」がもつ「社会性と歴史性」を高調するので、「個人意識の発展」は「世界精神の史的発展」を実体として背負うことになり、その結果として『精神現象学』は②「歴史哲学」としての意義を具える。(220頁)
★さらに一般に、「絶対」は「相対」を離れたものでなく、「相対」における「現象」をほかにして「絶対」のなんたるかを示し得ないという理由によって、『精神現象学』はそれ自身すでに③「精神哲学」・「哲学概論」の意義を持つ。(220-221頁)

(51)-3 『精神現象学』の後半、《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》は「歴史哲学」的順序にしたがって論じる!
★さてこれから論じるヘーゲル『精神現象学』の後半、《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》は、「歴史哲学」的契機が強烈となってくる箇所だ。これからは「歴史哲学」的順序にしたがって論じる。(金子武蔵氏)(221頁)
★もちろんⅥ「精神」の段階、あるいは《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》の段階に入っても、『精神現象学』が「認識論的序説」であることに変わりはない。だから「史的叙述」の方法をとるときには、「認識論的序説」としての意識が失われる危険はある。(221頁)
☆しかし『精神現象学』の「認識論的序説」としての機能は、根本的にはすでに(C)(AA)「理性」orⅤ「理性の確信と真理」という段階に到達したときに終わっているから、Ⅵ「精神」の段階以下において「史的叙述」の方法をとっても大過ないと思われる。(金子武蔵氏)(221頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その5):《 (C)(AA)「理性」A「観察的理性」、B「行為」、C「社会」》!「理性」は「人倫」に安住し (BB)「精神」が誕生する!

2024-07-14 16:15:37 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その5)(217-219頁)
(50)A「観察的理性」は「対象」あるいは「存在」のうちにも、「理性」ないし「法則」のあることを発見した!
★《 (C)(AA)「理性」(Ⅴ「理性の確信と真理」)A「観察的理性」、B「行為」、C「社会」》の段階についてまとめよう。(217頁)
★最初、「理性」は「あらゆる実在である」という「確信」をすでに持ってはいたが、この「確信」は、まだ「確信」たるにとどまって「客観的な真理性」を持つものではなかった。(217-218頁)
☆そこで「理性」はこの「確信」を確認するためにA「観察」を行う。(218頁)
☆これによって、「対象」あるいは「存在」のうちにも、「理性」ないし「法則」のあることを発見した。(218頁)

《参考1》ここでは(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階を扱う。この段階の目標は次の通りだ。(156頁)
☆「精神」をその「現象」に即して、「本来の『精神』」にまで高めようとするものがヘーゲル『精神現象学』である。このさい①「現象」が「認識」の段階であるところからしては、『精神現象学』は「絶対知」に到るまでの「意識経験の学」として「認識論」であり、また②「絶対知」の出現が「時代」に媒介せられているところからしては、『精神現象学』は「歴史哲学」を含む。(156頁)
☆「精神」は本来的にはⅧ「絶対知」であるが、それに比較的近い段階(Ⅵ「精神」)では、「精神」は「我なる我々」あるいは「我々なる我」として、広い意味における「社会的」なものである。つまりそれは「人倫の国」において成立する。(157頁)
☆当面の段階((C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階)にとっての目標は、この「人倫の国」(Ⅵ「精神」の段階)にまで到達することである。(157頁)

《参考2》さて当面の段階たる(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階は、「対象意識と自己意識の統一」であり、この意味において「あらゆる実在」でありながら、これがまだ「確信」たるにとどまって「真理」となっていない状態にある。この状態が「始点」である。(157-158頁)
☆そして「確信」を「真理」にまで高めるところに、この段階の運動が成立する。(158頁)

《参考3》「自己としての内なるもの」(「主体的なるものとしての内なるもの」、「実体はじつは主体である」という場合の「主体」)、すなわちこの「自己」・「主体」は、ヘーゲルでは「概念」とも言われる。(111頁)
☆この「主体」としての「概念」に、「対象」の側において対応するものが「法則」だ!(111頁)
☆ヘーゲルは「法則」とは「互いに対立した二つの契機をつねにふくむ」と考える。(Ex. 「引力と斥力」、「陰電気と陽電気」、「空間と時間」など。)即ち「法則」の内容は「弁証法的に対立したもの」とヘーゲルは考える。(111頁)
☆さて「弁証法」とは「対立したもの」が「区別され分離されている」と同時に、「相互に転換し統一をかたちづくる」ことだ。「弁証法」的に考えると「対立」は「静的」なものでなく「動的」なものだ。(111頁)
☆ところが「法則」では、そういう「動的」な点がはっきりしていない。そもそも「法則」は「主体」としての「概念」(「動的」な「内なるもの」)を、「存在的なもの」・「対象的なもの」・「静的なもの」として定立することによって成り立つものだからだ。「法則」の立場は「対象的存在的」だ。(111頁)
☆かくて「法則」では「互いに外的のもの・没交渉のもの」が関係づけられる。この関係づけは「量」の見地からからのみなすことができる。(111頁)

《参考4》「法則」は「対立するものの統合」として本来的には「概念」だが、しかし「概念」自身ではなく、「観察的理性」の「対象的」把握によって「対象」化されたものだ。「対象」化されるから「概念」の諸「契機」は、生命を失い固定される。そこで「法則」においては、「固定された契機」の「綜合」、したがってそれら「固定された契機」の「数量的関係」のみが問題になる。(167-168頁)
☆「観察」とは、「記述」が「標識の指示」(本質的なもの)を通じて「法則」を得ることだが、①「記述」の段階では、たとえば、陽電気はガラス電気、陰電気は樹脂電気というようにイメージを描いて「表象」されるが、②「標識の指示」(本質的なもの)をへて、③「法則」が定立されるようになると、かかる「表象」から純化されて、「概念」的に思考せらるべき陰電気と陽電気となり、これらの相対立した「契機」の間に「法則」が立てられる。(168頁)
☆また「自由落下の法則」(落下距離=時間の2乗×重力加速度×1/2)では、「時間」と「空間」という相対立した「契機」の間に「法則」的関係が定立せられる。(168頁)
☆さてこのさい、「法則」がじつは「概念」であるところからすれば、「陽電気と陰電気」、「空間と時間」など「対立した契機」は相互に他に転換して帰一し、そうして「統一」がまた「対立」に分裂するという「無限性」の生ける精神的運動が行われるべきはずだ。(168頁)
☆だが「観察的理性」なるものは、「理性」が「対象意識」の形式をとったものであるために、それぞれの「項」がそれぞれ「独立のもの」として固定せられてしまい、したがって「内面的な質的な規定」がではなく、ただ「量的な規定」だけが問題になり、かくて「数量的関係」を提示することが「法則」定立の課題となる。(168頁)
☆ヘーゲルは、「近代科学」における「法則」が、諸契機の間の「数量的関係」を規定することをもって課題とするという事実を、以上のように解釈している。(168頁)

《参考5》この「理性」は、「対象意識」と「自己意識」の「綜合」であり「統一」である。(187頁)
☆そこでおのずから「理性」自身が、一方では「対象意識」に即して展開される。そこに「観察」の問題が生じる。(A「観察的理性」!)(187頁)
☆これに対して、他方で「自己意識」の側面においても、「理性」は展開されなくてはならない。そうしなくては「理性」のもっている「確信」を「真理」にまで高めることはできない。かくて「行為」の問題が出てくる。(187頁)

《参考6》「精神」(「理性」)は、「対象的に見られる」ものでなく、むしろ「働きとしてのみ存在する」から、1「観察」(A「観察的理性」)に対して、さらに2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)が問題となる。(193頁)
☆「行為」即ち「行為的理性」は(イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)と運動(展開)する。これ(個・特・普)はヘーゲルの「考え方、論理の運び方」でもある。(193-194頁)
☆論理的にいうと、(A)「対象意識」における《「感覚」→「知覚」→「悟性」》という運動、および(B)「自己意識」における《「欲望」→「承認」→「自由」》という運動が、(C)「理性」2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)においては、《 (イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)という運動(展開)》となってくりかえされている。(193-194頁)

(50)-2  B「行為」=「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)!「理性」はただ「働き」においてのみ成立し、自分を「行為」的に実現しようとする!
★A「観察的理性」は、「対象」あるいは「存在」のうちにも、「理性」ないし「法則」のあることを発見した。しかし「理性」はこれと同時に、自分自身はただ「働き」においてのみ成立しうるものとして、「対象」や「存在」とはちがったものであることに気づき、自分を「行為」的に実現しようとする。(218頁)

《参考1》ヘーゲル『精神現象学』(C)(AA)「理性」の《B「理性的自己意識の自己自身による実現」=「行為」》は、a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」の順で論じられる。(201頁)
☆「心胸(ムネ)の法則」の境地は、「法則の必要を心胸(ムネ)では感じている」が、その「法則」は「客観的な世界」において「ちゃんと行われている」ような「客観的普遍的な法則」ではなく、その「法則」(「心胸ムネの法則」)は「自分一個の胸のうちにある」にとどまる。(200頁)
☆「心胸(ムネ)の法則」は「主観性・抽象性」に深く纏綿(テンメン)された(まとわりつかれた)法則だ。(200頁)
☆たとえば「革命家」は「自分で考えていたこと」(Ex. 「しかじかの法律・制度」)が、世の中に実現されてくると、こんどは「ちがう」と言い出し、いろんな「文句」をつけて「反抗」をはじめる。そこには「自負の狂気」(「うぬぼれの狂気」)がある。(200頁)
☆(「革命家」の)「自負の狂気」or「うぬぼれの狂気」とは、「自分の主観的な一個人の意見や意志」にすぎないものを「法則」だとし、「世間に行われ実現している法則」、その方がむしろ「客観的・普遍的」であるのに、そういう「法則」にけちをつけ罵倒し、果てはメチャクチャのことをやりだす。そこに「うぬぼれの狂気」がある。(200頁)

《参考2》どうしてb「心胸(ムネ)」からc「徳」に移るかというと、自分自身が「錯乱の狂気」(「自負の狂気」・「うぬぼれの狂気」)に陥っていることを自覚し始めると、その限り人間は「個別性」を剥奪され、もっと「普遍的」になる。「普遍的」になると人間はc「徳」を具えるようになる。(201頁)
☆しかしそのc「徳」はまだ、b「心胸(ムネ)」の立場から出てきたばかりのものなので「主観的」「個別的」であることをまぬがれない。(201頁)
☆b「心胸(ムネ)」の立場から出てきたばかりのc「徳」は、かくておのずから「世の中」(「世路」)と対立する。c「徳」の段階の人間は、自分は「清廉高潔な人間」、「誠心誠意をもって道徳を実践している人間」であると思い、「人生行路の世路」は「濁世であって私利私欲やインチキがはびこっている」というように「悲憤慷慨する気持ち」が残っている。すなわちc「徳」の段階の人間は「徳のナイト(騎士)」と名づけられ、「徳」を武器として「世路」に挑戦する。(201頁)

《参考3》「欲望の体系」としての「市民社会」が、「世路」(「世の中」)である! 
☆ところがよくよく考えてみると、「世人が私益を追求している」に違いないにしても、「自分の利益を獲得する」には必ず「他人にも利益を与え、他人の望みもかなえてやる」必要があるから、「世間」は「徳のナイト(騎士)」の嘆くように悪いものではない。(201-202頁)
☆「市民社会」の根本的な規定は「欲望の体系」ということだ。すなわち「市民社会」の人間はたしかに「欲望の満足」ばかり求めているにしても、そこでは「自分の欲望を満たす」ためには「他人の欲望を満たす」必要があり、いわゆる「分業交換の体系」においてしか「欲望を満足させる」ことができない。「世路」とは「市民社会」のこのような側面をさす。(202頁)

(50)-3 「行為」を通じて「理性」は「社会」生活を営むことができるようになる:C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」の段階(ヘーゲル)=C「社会」の段階(金子武蔵氏)!
★そうして「行為」を通じて「理性」は、「個人としての直接態」を洗いおとして「社会」生活を営むことができるようになる。(218頁)

《参考》(C)(AA)「理性」におけるB「行為」=「理性的自己意識の自己自身による実現」のc「徳と世路」において、「世路」(「市民社会」・「世の中」)と一体化した人間は①「個別的」(「徳」)でありながら「普遍的」(「世路」)であり、「普遍的」なものも「個別的」であることを、また②「個別的」なもの(「徳」)はむろん自分を否定して「普遍的」なもの(「世路」)に参与しなくてはならないが、「普遍的」なものも自分を否定して「個別的」なものに存在を許してくれることを、チャンと自覚している。かくてそうした人間は、もう「社会」のうちになんらの抵抗をも不安をも感ぜずに、気楽にその一員として生活し活動していくことができる。(205頁)
☆このことをC「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」の段階とヘーゲルは呼んだ。この段階を金子武蔵氏はC「社会」と言い換えた。(205頁)
☆要するに(C)(AA)「理性」C「社会」の段階とは、「『徳』を具え、しかもこれが『世路』(世の中)と背馳しないものであることが自覚せられて初めて、人間は社会生活をなすことが可能になる」ということだ。(206頁)

(50)-4 「理性」は「人倫」のうちに安住することができるようになり(BB)「精神」が誕生する!
★「理性」は、さらに「個人としての直接態」が一層「純化」されるに及んで「人倫」のうちに安住することができる。そこに「理性の確信」は「真理性」にまで高められて、本来の意味における「精神」すなわち、((C)(AA)「理性」)(BB)「精神」あるいはⅥ「精神」が誕生する。(218頁)

《参考1》ヘーゲルは「カント的な道徳観」を批判する。ヘーゲルは「習俗」Sitte(ただし「国法」を含む広い意味のもの)に深い意義を認める。ヘーゲルは、「習俗」(Sitte)は、幾多の世代にわたる幾多の人々が「理性」を働かせて、それぞれの場合の「義務」を「客観的普遍的」なやり方で規定し、またもろもろの「義務」を統一づけたものであるから、カントの場合の「道徳」よりもはるかに深い意義を蔵していると言う。(217頁)
☆ヘーゲルは「習俗」(Sitte)に深い意義を認め、そこから「人倫」(Sittlichkeit)の立場に移行する。かくて「人倫の国」という実体性が恢復される。(217頁)

Cf. ヘーゲルの「人倫」とは人間の社会関係における「客観的な『法』」と個人の「主観的な 『道徳』」とを(止揚的に)統一したものだ。「人倫」は「家族→市民社会→国家」と弁証法的に発展し、「国家」において「人倫」は完成し、「個人」は「自由」で「理性的」な自己を実現する。

《参考2》「『人倫の国』という実体性が恢復されること」について詳述するのが、以下の諸章の課題だ。(217頁)
☆すなわち(ヘーゲルの目次では)《 (C)「理性」(BB)「精神」(CC)「宗教」(DD)「絶対知」》or(金子武蔵氏の目次では)《(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」3「現代(あるいは絶対知)」》の諸章において、「『人倫の国』という実体性が恢復されること」についてヘーゲルが詳述する。(217頁)

(50)-5 「古代のポリス」において実現されていた「人倫の国」!
★歴史哲学的に言うと、(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」という段階では、①その理論面において「ルネッサンス以後の科学的認識」――ただし有機体の認識に偏しているが――を、②実践面においては「ルネッサンスに始まる活動」をヘーゲルは論じてきたが、このような行論において到達されたものは、じつはすでに「古代のポリス」において実現されていた「人倫の国」なのだ。したがって行論は実際の歴史的経過とは逆になっている。(218頁)
★そもそもヘーゲル『精神現象学』の目的は「実体性を恢復し、実体を主体たらしめる」ことだ。(218頁)
☆(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」が「反省」によって、諸段階――とくにそのB「行為」とC「社会」――にまで分析されるにあたって、「表象」の立場においてひそかに前提されていたものは実は「古代のポリス」の「人倫の国」であった。(このことはB「行為」の始まる箇所において、ヘーゲルが感激をこめて、古代ギリシアのポリスを描いていることで明らかだ。)(218-219頁)

Cf.  ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」=「行為」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」=「社会」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)

《参考1》歴史的に言えば、(C)(AA)「理性」A「観察」の段階が「ルネッサンスに始まる科学研究」を背景とするように、(C)(AA)「理性」B「理性的自己意識の自己自身による実現」(「行為」)a「快楽(ケラク)」の段階は、「中世クリスト教の禁欲主義から解放された当時の人間が地上的快楽に目覚めたこと」を材料としている。例えば、ボッカッチョ『デカメロン』(1348-1353執筆)は当時の人間が「愛欲」に身を委ねたことを示す。(196-197頁)

《参考2》とにかく(a)「人間の行為」を問題とするならば当然「生産」の問題、したがってまた「技術や道具や機械」の問題も取り上げてしかるべきだ。だがヘーゲルはとり上げていない。(190-191頁)
☆これについては(b)「観察的理性」の段階において、ヘーゲルが「ルネッサンス以後の近代的理性の理論的方面」を論じるにあたり、「数学的自然科学」の問題が取り扱われるはずにもかかわらず、ほとんど全く取り扱われていないことと平行する。これら((a)(b))は「ヘーゲルの制限」を示すものであり、(a)「生産・技術・道具・機械・分業など」の問題をとり上げていないというヘーゲルの欠陥に対して、その欠陥を補うため「マルクスその他の人々」がどうしても出てこざるをえなかったのだ。(191頁)

《参考3》《精神》の(イ)「実体性の段階」では、「絶対的・普遍的・全体的なもの」のうちに「個別的・相対的・有限的・分別的なもの」は埋もれていた。(64頁)
☆これに対してしだいに「個人」が自覚をえ、独立してくる。その自覚は「反省」あるいは「悟性」によってなされる。「彼岸」よりも「此岸」に人間の注意が向けられ、「此岸つまり現世」における労働とか幸福とかが人間生活の主要な問題となる。これが《精神》における(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」だ。それが「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代だ。(64頁)
☆ところが「相対的・有限的・時間的なもの」に人間が自分の注意と努力とを向けるという態度がまた、極限にまで行ってしまうと、もはや人間はそういう立場に倦怠を感じ、そうして再び「永遠的・絶対的なもの」を恢復したいと思うようになる。そこでヘーゲルは現代を「実体性恢復の時代」だとする。すなわち(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」だ。『精神現象学』(1807)を書いている時代が「精神史的に非常な変革期」にあるとヘーゲルが考えているゆえんは、ここにあると思われる。(金子武蔵)(64-65頁)

《参考4》「哲学が絶対知の立場にたたねばならない」というのはヘーゲルの考えであるが、さらに「時代がこれを要求している」、すなわち「絶対知の哲学が出現すべき時代がやってきている」のだとヘーゲルは言う。(61-62頁)
☆ヘーゲル(1770-1831)は現代が「精神史における転換期である」と考える。(Cf. フランス革命1789年。)「我々は《精神》が飛躍して、従前の形態を越えて新たなる形態を獲得するという重大な転換期に、発酵の状態のうちにあるのをみる。」「哲学は《精神》を永遠なものとして認め、それに敬意を表さなくてはならぬ。」(ヘーゲル1806/9/18、36歳)(62頁)
☆要するにヘーゲルは「絶対知の哲学は時代の要求しているものだ」、「世人の大多数も暗黙のうちに本能的に絶対知の哲学が出現しなければならぬことを認めている」と言う。(62頁)

《参考5》ヘーゲルは現代を、(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」と考える。これには2通りあるとヘーゲルは言う。すなわち(A)「直接知」の立場と(B)「絶対知」の立場だ。(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場:(ロ)「反省・媒介の段階」すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代の「有限性」の立場を嫌悪するのあまり、「悟性」を抹殺して直接に「絶対性」の立場へ逆転しようとする立場!「永遠なもの・絶対的なもの・無限なもの」を「悟性」を媒介することなく、直接的に「感情・情緒」といったもので捉えることができると考える。かくて「悟性」とか「反省」を全く軽蔑する!「ロマンティスィズム」の立場!(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する!「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」!(65頁)

(50)-5-2 ヘーゲルにおける「クリスト教的な人生観・世界観」、および古代ギリシアの「人倫の国」!
★より押しつめて言えば、ヘーゲルにおいて「表象」的に前提されていたものは「クリスト教的な人生観・世界観」だったが、(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」において、とくにそのB「理性的自己意識の自己自身による実現」=「行為」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」=「社会」において前提されていたものは、差しあたって古代ギリシアの「人倫の国」だった。(219頁)
☆だが今や「反省」の分析を通じることによって「人倫の国」は「実体」たるにとどまらず「主体」的に把握されることになる。(219頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その4-2):(C)(AA)「理性」C「社会」の段階c「査法的理性」!「『人倫の国』という実体性が恢復されること」を詳述!

2024-07-12 14:47:23 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その4-2)c「査法的理性」(※「理性による掟の吟味」)(216-217頁)
(49)-4 「すべて物事は相反する両面をもっている」:ヘーゲル!「所有権」における一方で[ア] 「私有権の絶対神聖」、他方で[イ]「共産主義」!
★ヘーゲルは「すべて物事は相反する両面をもっている」と言う。(216頁)
☆ここで、ヘーゲルは「所有物」の例をもってくる。(216頁)
☆[ア]「所有」とは「ある特定の人が、ある物を自分のものとしている」ことだ。しかし[イ]それだけでは不十分でまさに「自分のものであること」を「社会的にチャンと認められ証明されている」ときにのみ初めて「所有権」は成り立つ。(216頁)
☆つまり「所有権」は「個別性」の側面([ア])と「普遍性」の側面([イ])との両方を具えている。(216頁)
☆[ア]「個別性」の方だけを強調すれば「私有権の絶対神聖」ということがでてくる。(216-217頁)
☆[イ]「自分のものであることを社会に認められて、初めて私有も可能になる」ところからしては、「所有は、むしろ社会から預かっていることであり、保管を委ねられていることにすぎない」。ここからすれば「共産主義」が唱えられる。これは「所有権」の「普遍性」の側面だけをとったものだ。(217頁)

(49)-4-2 「カントの道徳的理性」は「客観的」のように見えながら、実は非常に「主観的・個別的」だと、ヘーゲルは批評する!
★そのように「物事がすべて相反する両面をもっているのに、そのどっちか一方だけとって、それをもって絶対的法則にする」のが「カントの道徳的理性」だとヘーゲルは言う。(217頁)
☆かくて「カントの(道徳的)理性」は非常に「客観的」のように見えながら、実は非常に「主観的な個別的なもの」だと、ヘーゲルは批評する。(217頁)
☆カントでは「道徳法則」であるかないかは、けっきょくのところ「一個人があたまで勝手に決める」ことになると、ヘーゲルは言う。(217頁)

(49)-5 ヘーゲルは、「習俗」(Sitte)こそ、カントの場合の「道徳」よりはるかに深い意義を蔵すると言う!「『人倫の国』という実体性が恢復されること」についてヘーゲルは詳述する
★ヘーゲルは「カント的な道徳観」を批判する。ヘーゲルは「習俗」Sitte(ただし「国法」を含む広い意味のもの)に深い意義を認める。(217頁)
☆ヘーゲルは、「習俗」(Sitte)は、幾多の世代にわたる幾多の人々が「理性」を働かせて、それぞれの場合の「義務」を「客観的普遍的」なやり方で規定し、またもろもろの「義務」を統一づけたものであるから、カントの場合の「道徳」よりもはるかに深い意義を蔵していると言う。(217頁)
☆ヘーゲルは「習俗」(Sitte)に深い意義を認め、そこから「人倫」(Sittlichkeit)の立場に移行する。かくて「人倫の国」という実体性が恢復される。(217頁)
☆「習俗」(Sitte)に「超個人的な精神的実体の実現」を見いだすのが、「人倫」(Sittlichkeit)の立場だ。(217頁)

《参考1》ヘーゲルの「人倫」(Sittlichkeit) は「習俗」(Sitte) と密接な関係がある。「習俗」 は直接的な形においてであるが,諸「個人」の「普遍的行為形式」として「理性の客観化」されたものである。「習俗」(Sitte)は「人倫」(Sittlichkeit)の「習慣」であり、「貫く魂」である。
《参考2》ヘーゲルの「人倫」とは人間の社会関係における「客観的な『法』」と個人の「主観的な 『道徳』」とを(止揚的に)統一したものだ。「人倫」は「家族→市民社会→国家」と弁証法的に発展し、「国家」において「人倫」は完成し、「個人」は「自由」で「理性的」な自己を実現する。

★「『人倫の国』という実体性が恢復されること」について詳述するのが、以下の諸章の課題だ。(217頁)
☆すなわち(ヘーゲルの目次では)《 (C)「理性」(BB)「精神」(CC)「宗教」(DD)「絶対知」》or(金子武蔵氏の目次では)《(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」3「現代(あるいは絶対知)」》の諸章において、「『人倫の国』という実体性が恢復されること」についてヘーゲルが詳述する。(217頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その4):(C)(AA)「理性」C「社会」の段階c「査法的理性」!「立法的理性」(「常識」)が定立した「道徳法則」の吟味・検査!

2024-07-11 16:30:58 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その4)c「査法的理性」(※「理性による掟の吟味」)(213-216頁)
(49)「立法的理性」は「査法的理性」に移る:「立法的理性」(「常識」)が定立した「道徳法則」の吟味・検査!
★さて「理性」(「立法的理性」)が――けっきょくは「常識」が――「道徳法則」を定立するのだが、しかしそのさいの「法則」(「道徳法則」)がはたして「法則」かどうか、吟味し検査しなくてはならない。こうして「立法的理性」は「査法的理性」(※「理性による掟の吟味」)に移る。(213-214頁)
★ヘーゲルが批評しているとおり、カントが「道徳的法則」であるかないか見分ける規準としたものは、「あるものはあるもの自身であって矛盾しない」という「自同性」であり、すべての場合に通ずる「形式的一般性」にほかならない。(214頁)

(49)-2 カントの「道徳法則」はよくわかるが、しかし我々はしばしばこの「法則」に反する:[A] 「傾向」(Neigung)(わがままな欲望)![B]「道徳法則」内において「他人に対する義務」と「自己に対する義務」との「衝突」がある![C]さらに「道徳法則」内において「他人に対する義務」間の「衝突」もある!
★ところが実際上の「道徳的生活」にはいろんな「矛盾」がある。確かに我々凡人にも「汝の意志の格率がつねに同時に普遍的(※誰にもあてはまる)立法の原理として妥当しうるごとく行為せよ」というカントの「道徳法則」はよくわかるが、しかし我々はしばしばこの「法則」に反する。(214頁)

★[A]カントは我々がしばしば「道徳法則」に反するのは、我々には「理性」のほかに「傾向」(Neigung)があるからだと言う。「傾向」(Neigung)とは「理性の指示するまっすぐな(道徳)法則をかたむかせ、偏らせ、曲げるわがままな欲望」だ。
★[B]しかしよく考えてみると、「法則」(「道徳法則」)に違反させるものは「傾向」だけではない。そもそもカントがいっている「義務」(「道徳的義務」)には「他人に対する義務」(Ex. 「愛」や「敬」などの義務)のほかに「自己に対する義務」もある。例えば「困っている友人を助ける」ことは「他人に対する義務」だ。他方でカントも認めるように「自己に対する義務」もある。(Ex. 知識・技能を磨き、自分の健康を保つなど、自分に宿る人間性を維持し成長させる義務!)「他人に対する義務」を実行しがたいのは、[A]「傾向」(Neigung)だけによるのでなく、「道徳法則」内において「他人に対する義務」と[B]「自己に対する義務」との「衝突」があるからでもある。(214-215頁)
★ [C]さらに「道徳法則」内において「他人に対する義務」間の「衝突」もある。例えば一方で「親が病気になって手当をしないわけにいかない」という「親」に対する「義務」、他方で金がないので「返すと言って友人から金を借りるが返せない」という「友人」に対する借金返済の「義務」との衝突。このように「親への義務」と「友人への義務」との「ジレンマに陥って悩む」というような状況がむしろ「道徳生活上の実状」だ。「道徳法則」内において[B]《「他人に対する義務」間の「衝突」》がある(215頁)

(49)-3 カントは「道徳的義務」(「道徳法則」)の間に「衝突はない」と言う!ヘーゲルは「義務(道徳法則)」間には「衝突がある」と言う! 
★ところがカントは「道徳的義務」(「道徳法則」)の間に「衝突はない」と言う。「他人に対する義務」、「自己に対する義務」、またこれらの各々の「区分」というようなそれぞれの「義務」(「道徳法則」)を別個に考えたときは、いずれの「義務」も「絶対的拘束力」をもつが、カントはこの拘束力だけを「抽象」して、「義務」(「道徳法則」)を「抽象的」に考えているから、「衝突はない」と言えるのだ。(215-216頁)
☆カントに反対してヘーゲルは「義務(道徳法則)」間には「衝突がある」と言う。金子武蔵氏は「ヘーゲルの方が正しい」とする。(216頁)
☆カントの「道徳」についての考え方は、「他人に対する義務」・「自己に対する義務」というような「義務」(「道徳法則」)がそれぞれ孤立された場合にもっている「絶対的拘束力」を、「抽象的全般的」に考えているところに成立するにすぎない。(216頁)
☆ヘーゲルは鋭くもまさにその点を突いた。カントは、そういうふうに「形式的」に考えるからこそ、即ち「矛盾がないという自同性」をもって「法則であるかないかを見分ける規準」とするのだ。またカントは「『常識』だって『道徳法則』を自分で立てることができるんだ」と言うが、それは実際には「特殊的・個別的のもの」を「絶対的・普遍的のもの」にのし上げるもので、「非常に傲慢な、むしろ道徳を破壊するやり方」だとヘーゲルは批評する。(216頁)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その3):(C)(AA)「理性」C「社会」の段階b「立法的理性」!「(道徳上の)法則を常識が定立しうる」とするカントの立場!

2024-07-10 16:21:13 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その3)b「立法的理性」(※「理性による掟の制定」)(211-213頁)
(47)-4 「理性」C「社会」a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」は、同時に「欺瞞」であることが明らかにされた!
★ (C)(AA)「理性」C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(「社会」)a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)が、同時に「欺瞞」であることが明らかにされた。(211頁)
☆しかし今度は逆に「欺瞞」が積極的意義をもつことになる。なぜなら例外なく皆が皆お互いに「ごまかしあい」をしているということは「事そのもの」(「仕事」)が①単なる「成果」(「客観的・普遍的・公共的」な成果)でもなければ、単なる「活動」(「自己満足としての主観的活動」)でもなく、②単に「個人的なもの」にすぎぬのでもなければ、単に「公共的なもの」にすぎぬのでもなく、③単に「客観的なもの」でもなければ、単に「主観的なもの」でもなく、すなわち「事そのもの」(「仕事」)は、このように対立する(①②③)両面を含んだものであり、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)において、同時に例外なくみながみなまぬがれえぬ「欺瞞」は、「このような対立(①②③)を越え包む」ところに「真の現実」の成立することを暗示しているからだ。(211頁)

《参考》「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である。すなわち「仕事」(「事」)という言葉で「誠実」で「客観的・普遍的・公共的」な成果だけが意味されているかと思うと、実はそうではなく例えば「単なる自己満足としての主観的活動」であってもいいし、「他人にキッカケを与えるだけのもの」でもいいし、また自分の「優越欲」を満足させたり、自分の「寛大さ」を他人に「見せびらかす」という「主観的動機」を含んだものでもあるのだから、「ゴマカシ」のあることは明らかだ。(211頁)

★「みながみな欺瞞をまぬがれえぬ」ということは、「一段と高まり深まるべきこと」を「意識」に要求している。(211頁)
☆それはちょうど(A)「対象意識」において「『知覚』が同時に『錯覚』なることをまぬがれえないのは、『一と多』、『自と他』などの対立を越えた無制約的普遍性をとらえる『悟性』にまで高まることを要求した」のと同じだ。(212頁)

(47)-4-2 「対立したもの」をある「全体的なもの」の「契機」として捉えることによって、そこに「実体的全体性」が「主体化」されつつ「恢復」される!
★「対立したもの」のどちらも「切り離してはいけない」のであって、それらをある「全体的なもの」の「契機」として捉えなくてはならないことに気づくことができるようになると、そこに「実体的全体性」が「主体化」されつつ「恢復」されることになる。(212頁)
☆かくて(C)(AA)「理性」C「社会」a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」と「欺瞞」は「切り離してはいけない」のであって、いまや「実体的全体性の回復」に向かっている。(212頁)

★このあたり((C)(AA)「理性」C「社会」a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」)からヘーゲル『精神現象学』のテキストにはしきりに「精神的実体」という表現が使われるのも、「実体性恢復の運動」が一応終わりに近づきつつあることを意味している。(212頁)
☆「恢復されるべき実体性」は「人倫」だから、このあたりから「行為の道徳的意味」が顕現してくる。(212頁)
☆すなわち「『個別』と『普遍』などの対立」が「統合」され、「道徳上の法則」が立てられることとなる。(212頁)

《参考1》歴史哲学的には、『精神現象学』のうちにはいつも「実体性の段階」と「反省の段階」と「実体性恢復の段階」とがある。「観察の段階」((C)(AA)「理性」A「観察的理性」)も背後に「実体性の段階」として「中世クリスト教」を負うている。しかしまさにここにヘーゲルの特色もまた弱点もある。(金子武蔵氏)(163頁)
《参考2》「近代的理性」がその誕生の背後に負うている「実体性」は「信仰」だが(「実体性の段階」)、これに「反省」が加えられ(「反省の段階」)、「分裂」が生じ、いろんな段階が定立される。(C)(AA)「理性」1「観察」も、2「行為」も、3「社会」も、またそれぞれの小区分も、かくして生じたものにほかならない。(金子武蔵氏)(192頁)
《参考2-2》「反省」(「反省の段階」)によって生じた「分裂」を通じて「恢復されるもの」は再び「実体的なもの」だが(「実体性恢復の段階」)、この「恢復せらるべき実体性」(ヘーゲルの「目標」!)は究極的には「クリスト教」だ。(C)「理性」(DD)「絶対知」のすぐ前に、(CC)「宗教」C「啓示宗教」があるのは、このためだ。(金子武蔵氏)(192頁)

(48)(C)(AA)「理性」C「社会」b「立法的理性」(※「理性による掟の制定」):「道徳上の法則」つまり「家族的生活や国家的生活上のいろいろの(道徳上の)法則」は「直接的」に「常識的」にすぐわかると思い「安易に(道徳上の)法則を立てる!カントの倫理学:ヘーゲルは「カントの説」を採用し「(道徳上の)法」を『常識』が定立しうる」とする立場を「立法的理性」と名づけた!
★このあたり((C)(AA)「理性」C「社会」a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」)から「実体性恢復の運動」が終わりに近づきつつある。「恢復されるべき実体性」は「人倫」だから、かくて「行為の道徳的意味」が顕現してくる。すなわち「『個別』と『普遍』などの対立」が「統合」され、「道徳上の法則」(※「実体」or「恢復されるべき実体性」)が立てられることとなる。(212頁)
☆しかしここで到達された「実体」(※「道徳上の法則」)はまだ「主観性」・「個別性」から十分に解放されていない。「浄化」がなおくりかえし行なわれるべきだが、まずここでの出発点となるのが「立法的理性」(※「理性による掟の制定」)だ。(212頁)

★(C)(AA)「理性」C「社会」b「立法的理性」という段階は「『個別』と『普遍』などの対立」が「統合」されてはいても、その「統合」がまだ「直接的」で全体として見れば「なまの形」のもので「個別性」が残っている段階だ。(212頁)
☆そこで「道徳上の法則」つまり「家族的生活や国家的生活上のいろいろの(道徳上の)法則」は「直接的」に「常識的」にすぐわかると思い「安易に(道徳上の)法則を立てる」。(212頁)
☆かくてこの場合の行為的理性(※(C)(AA)「理性」B「理性的自己意識の自己自身による実現」=「行為」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」=「社会」)は「立法的理性」と規定される。(212頁)
☆歴史的にいうと、「立法的理性」は「カントの倫理学」を念頭に置いて言っている。(212頁)

★カントは「道徳的法則」について次のような例をあげている。(ア)いまここに「友人が預けて行った家屋」がある。(ア)-2 その「友人」はすでに「戦死」してしまい、(ア)-3「その家屋を友人が所有していたことを証拠立てる書類」もない。(イ)そういう場合、普通の人間はおそらくその「家屋」を「猫ばば」する(自分の所有とする)だろう。ところがもしそういうことをやったとすれば(ウ)世の中には「物を預ける」ということがなくなる。(ウ) -2なぜなら「物」を預けても「証拠」がなければ、みんな「ひったくられても文句は言えない」からだ。(エ)これ(「物」を預けても「証拠」がなければ「ひったくられても文句は言えない」)が「(道徳上の)法則」 になってしまうと「自分」の方でも具合が悪い。(エ)-2例えば「ちょっと旅行するから、こいつを預かっておいてくれ」というわけにいかず、いちいち「預かり証」でも取らなくてはならなくなる。 (オ)こんなことは「誰にもわかっている」。(オ)-2つまり「汝の意志の格率がつねに同時に普遍的(※誰にもあてはまる)立法の原理として妥当しうるごとく行為せよ」という道徳法則(定言命法)は、別に難しい理屈をこねなくても「常識」だってチャンと分かっていることだ。(213頁)
☆以上のように「カント」は述べる。ヘーゲルはこの「カントの説」を採用し、「(道徳上の)法則を常識が定立しうる」とする立場を「立法的理性」と名づける。(213頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)!
(A)「対象意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その2):(C)(AA)「理性」C「社会」の段階の最初はa「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」である!

2024-07-09 14:50:47 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その2)(206-211頁)
(47)(C)(AA)「理性」(Ⅴ「理性の確信と真理」)C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(=「社会」)の段階の最初はa「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」である!
★ヘーゲル『精神現象学』(C)(AA)「理性」(Ⅴ「理性の確信と真理」)C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(=「社会」)の段階はa「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」→b「立法的理性」→c「査法的理性」と展開する。(206頁)
★最初のa「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」とはいったい何か?(207頁)
☆第1に、なぜ「『精神』的な動物の国」なのか?すでにこの「社会」の段階では人間はもう「個別が普遍、普遍が個別である」ことを自覚しているから、ここには「我なる我々」あるいは「我々なる我」という「精神」の概念が相当な発展に達しているから、このさいの「社会」は「『精神』的な国」である。(207頁)

☆第2になぜ「『動物』の国」なのか?それはまだ「生の直接的な『個別性』」が残っているからだ。「純粋に精神的な国」が実現せられるならば、「快楽(ケラク)」から出発した運動にとっての目標である「人倫の国」に到達したことになるが(ただいまの段階も「人倫の国」という「実体性」の「恢復」を目的としている)、まだそこまでは達していない。だから「社会」のただいまの段階は「『動物』の国」だ。「世路」(「世の中」)の場合と同じように、まだ「市民社会」の段階にある。(207頁)

Cf. 「市民社会」(「世路」)において、「自分の欲望を満たす」ことは、同時に「他人の欲望を満たす」ことであるにもかかわらず、「徳の騎士」は「世間的に成功し立派な地位についている人々」を「我欲のかたまり」などといたずらに悪く言う。(202頁)

(47)-2 (C)(AA)「理性」C「社会」の段階の最初はa「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」であるが、なぜ「欺瞞」なのか?「事そのもの」の「事」は、「仕事」であり、「仕事」(「事」)をするには、誰しも「誠実」をもって「事」に当らなくてはならない:「誠実なる意識」!
★「精神的動物の国」は第3になぜ「欺瞞」と言われるのか?この「精神的動物の国」では、みながみな、お互いに「欺しあい」をしているからだ。ホッブスは「万人が万人の狼」と言ったが、それにならって言えば「精神的動物の国」では「万人は万人の狐」だ。(207頁)

★なぜ「欺瞞しあっている」かを明らかにするには、「事そのもの」という概念を説明する必要がある。(207頁)
☆「事そのもの」は前の(A)「対象意識」Ⅱ「知覚」(真理捕捉)の段階における「物」と似たものだが、それと同じではない。(207-208頁)

《参考》「知覚」という意識(対象意識)が「物」をとらえる(受けとる)にあたり、知覚は「Wahr-nehmung」として真理をつかまえるが、しかしそれは「感覚」との比較の上においてのことであって、より高次の(意識の)段階と比較すれば、「知覚」の段階でも真理をつかむということが、じつはつねに「錯覚」だ。(104-105頁)

☆「物」は「人間の手の全然加わっていない、ただ対象として与えられたまったくの他者」であるのに対して、「事そのもの」の「事」は、「仕事」であり、「人間の手の加わった、そしてまた社会的に通用する、ないし通用することを要求するところのもの」だ。かく「事」が「仕事」であるところに、この段階も「行為」の問題に属している。(208頁)
☆ルカーチ(1885-1971)は『若きヘーゲル』(1948)で「事」を「商品」と解するが、これは間違いでない。またJ. N. フィンドレイは「事」を「ビジネス」と解するが、これも間違いでない。(208頁)

☆ところで「仕事」(「事」)をするには、誰しも「誠実」をもって「事」に当らなくてはならない。この段階(「社会」の段階の最初のa「精神的動物の国」)の意識をヘーゲルは「誠実なる意識」と呼ぶ。(208頁)

(47)-3 「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である!
★ところで、(C)(AA)「理性」C「社会」の最初の段階の「精神的動物の国」における「事」(「仕事」)が、「知覚」に対する「物」にあたるのと同じように、「事」(「仕事」)における「誠実」は、「知覚」(Wahr-nehmung)が「真理を掴むもの」(Wahr-Nehmundes)であることに相応する。(208頁)
☆しかしまた「知覚」が同時に「錯覚」であったのと同様に「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である。(208頁)

《参考1》「普遍者における個別者」が掴まれて初めて「個別者」は「真理」として掴まれる。すなわちWahr-nehmung(真理捕捉)となる。このようにして「感覚」の段階から「知覚」(Wahrnehmung)の段階に移って行く。(98頁)
《参考2》「知覚」という意識(対象意識)が「物」をとらえる(受けとる)にあたり、知覚は「Wahr-nehmung」として真理をつかまえるが、しかしそれは「感覚」との比較の上においてのことであって、より高次の(意識の)段階と比較すれば、「知覚」の段階でも真理をつかむということが、じつはつねに「錯覚」だ。(104-105頁)
《参考3》「知覚はつねに錯覚である」ということをヘーゲルは強調しようとする。このときすでにヘーゲル独特の「理性あるいは絶対知」が登場し始める。「理性あるいは絶対知」は「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識する」ものであって、「同一律・矛盾律」を認めず、それを「止揚」aufhebenする立場だ。(105頁)
《参考4》普通の「自然的意識」が、「同一律・矛盾律」を墨守せんとするが、じつは「そうはできない」!「物」は「一」であって、「多」とするのは「錯覚」だor「物」を「一」と考えるのは「錯覚」で、本当は「多」である!(105-106頁)
☆「自然的意識」は同一律・矛盾律を厳密に守ろうとする。普通の「自然的意識」が、それ(同一律・矛盾律)を墨守せんとしながら、じつは「そうはできないのだ」ということを証明しなければ、ヘーゲルの「弁証法的知識」すなわち「絶対知」、言いかえれば「実体は主体である」という証明はできない。がまさにそれを実行しようとするのがこの(「知覚」における)「錯覚」の段階だ。(105頁)
☆「物」は「一」と「多」の両方向を含む。「物」が「一にして多である」とすれば「矛盾律・同一律」を否定することになる。(105頁)
☆そこでこの「一」と「多」のいずれか一方を捨てて他方を認めるとするとどうなるか?(105頁)
☆一方では「一」を真理として「多」を錯覚とするとう態度が出てくる。例えば「塩」はそれ自身としては「一」であるが、感官の相違によって「多」(Ex. 舌で舐めれば辛い、眼で見れば白い)として受け取られる。かくて「物」は「一」であって、「多」とするのは「錯覚」だとされる。(105頁)
☆それと正反対に、他方では「多」を真理として「一」を錯覚とするという態度が出てくる。例えば「塩」は本当は「多」(Ex. 白い、辛い、立方形、比重)であって「一」とするのは間違い(「錯覚」)とされる。この場合、①「物」の「性質」を分離する。(Ex. 塩は白くある「限りにおいて」辛くなく、辛い「限りにおいて」白くない。)あるいは②いろんな「素」という概念(Ex. 物が光を発するのは光素、色をもつのは色素、香をもつのは香素、熱を持つのは熱素による;この「素」をヘーゲルは「自由な質料」と呼ぶ)をもってきて、「多くの」素材から「物」ができていると考える。かくて「物」を「一」と考えるのは「錯覚」で、本当は「多」であるとされる。(105-106頁)
《参考4--2》「知覚」の段階で、こうして相反した態度がこもごも取られる。即ち「知覚」は「物」について、一方では「一」を真理とし「多」を錯覚としておきながら、いつのまにか「多」を真理とし「一」を錯覚とする。なぜこのような別々の態度がとられざるをえないかというと、そもそも「物」それ自体が「矛盾」しているのに、しいて「矛盾律・同一律」を守ろうとするからだ。「物」について「一」を正しいとして「多」を錯覚としたり、あるは「多」を真理とし「一」を錯覚としたりするのは、「真理」そのものが「矛盾」したものであるからだ。「同一律・矛盾律」こそ正しくないのだ。(106頁)

(47)-3-2 「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)が、同時に「欺瞞」である例:①「仕事」(「事」)は「主観的・個人的活動」にすぎないと言い逃れする、②「キッカケを作ってやった」と言う、また「批評」においては③「あいつよりも俺の方がよく知っている」という「自慢」、④「優越意識」、⑤「寛容」・「寛大」を「誇示する」・「見せびらかす」意識、⑥「あの作家は俺が見いだしてやったのだ」と「満足」を感じる!

★(C)(AA)「理性」C「社会」の最初の段階の「精神的動物の国」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)が、同時に「欺瞞」であるとはどういうことか?ヘーゲルが「事そのもの」(「仕事」)について例をあげて説明しているのでそれを参考にしてみよう。(208頁)

★「欺瞞」①:「仕事」(「事」)は「客観的・普遍的(※間主観的)成果」であるとされているのに、「お前のやったことは、もうほかでやっている」などと批判されると、その「仕事」(「事」)は「主観的・個人的活動」にすぎないと言い逃れする。そこには「欺瞞」(「ゴマカシ」)がある。(209頁)
☆例えば、ある人が、「仕事」(「事」)を「誠実」に遂行し自分が「客観的・普遍的な成果」をあげたと信じ、それを声明するために、それを学術雑誌や学会で発表する。ところが別の人が、その人に向かって「お前のやったことは、もうほかでやっている」と言って、他の論文を指摘したりする。その「成果」を発表した男は言う。「ああそうですか。それはそうでしょうが、僕は別に(a)『成果』をあげようと思って研究しているのではない。また(b)『地位』をえたり、(c)『名声』をはくしたり、まして(d)『金』をかせごうと思って研究しているのではない。ただ研究することが面白いからやっているんだ。」この発言には「欺瞞」があることは明らかだ。(209頁)

★「欺瞞」②:あるいは(「誠実」であるはずの)「仕事」(「事」)における、次のような「欺瞞」もある。「俺の論文がヒントになって、あの男はこのことを発見したんだ。だからあいつが成功したのは俺が知恵をつけてやったからだ」という自慢話はよくあることだ。だが「客観的・普遍的な功をあげる」ことが本来、「事」(「仕事」)であり「事業」であるはずなのに、「他人が成果をあげるのにキッカケを作ってやったこと」さえもひとかどの「事」(「仕事」)とされる。ここに「欺瞞」があるのは明らかだ。(209-210頁)

★以上は論文の「作者」あるいは「行為者」の側の「欺瞞」(①②)だが、発表された論文を「批評する」という「仕事」(「事」)をする側の「欺瞞」について見てみよう。(210頁)
★「欺瞞」③④⑤⑥:「哲学の論文」でも「小説」でも、「批評する人」は、「自分は『学会などの水準をあげる』ために、また『日本人の良識を高める』ために『誠実』に『仕事』(『事』)を遂行している。正しいものを正しいとし、優れたものを優れたものとしてやっているんだ」と言うだろう。(210頁)
☆だがこの「批評」という「仕事」(「事』」)の「誠実」なはずの遂行が、実はしばしば同時に「欺瞞」である。③他人の学術上の論文の誤りを指摘する時には「あいつよりも俺の方がよく知っている」という「自慢」がある。あるいは④「普段威張っている大学の先生ともあろうものが、こんなものも知らぬとはけしからん」という「優越意識」もある。あるいは⑤若い人の論文の若干の傷を見逃してやるとき、自分がいかに「寛容」・「寛大」か「ヒューマニスト」であるかを「誇示する」意識がはたらいている。また⑥作品を批評してやった作家がその後有名になった時、「あの作家は俺が見いだしてやったのだ」と「満足」を感じる、またそんな「満足」が味わえるから批評家をやっていることもある。(210頁)

(47)-3-3 「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」:「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である!
★「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である。すなわち「仕事」(「事」)という言葉で「誠実」で「客観的・普遍的・公共的」な成果だけが意味されているかと思うと、実はそうではなく例えば「単なる自己満足としての主観的活動」(⑥)であってもいいし、「他人にキッカケを与えるだけのもの」(②)でもいいし、また自分の「優越欲」(④)を満足させたり、自分の「寛大さ」を他人に「見せびらかす」(⑤)という「主観的動機」を含んだものでもあるのだから、「ゴマカシ」のあることは明らかだ。(211頁)
☆かくて(C)(AA)「理性」C「社会」の最初の段階は、「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」という見出しがつけられる。「非常にへんてこな随分変わった題のつけ方」(金子武蔵氏)だが「人間心理の機微」をよくとらえた分析だ。こういうところがヘーゲル『精神現象学』の面白みの一つだ。(211頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)!
(A)「対象意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その1):「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」は、「社会」のうちで抵抗・不安を感ぜず気楽に生活し活動できる!

2024-07-08 16:06:19 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その1)(205 -206頁)
(46)(C)(AA)「理性」におけるC「社会」の段階(金子武蔵)あるいはC「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」の段階(ヘーゲル)!
★ ヘーゲル『精神現象学』《 (C)(AA)「理性」B「理性的自己意識の自己自身による実現」=「行為」》のまとめ。a「快楽(ケラク)と必然性(サダメ)」の段階では、ただ「わが身」のことばかり求め、「社会」の中に住んでいても、「社会」に積極的に参加できる人間ではまだなかった。b「心胸(ムネ)の法則、自負の狂気」の段階ではその「法則」は「客観的普遍的な法則」でなく、「自分一個の胸のうちにある」にとどまる。c「徳と世路」の段階で「徳」をそなえるが、この「徳」は「世路」に敗北し「現実的」なものとなり、かくて初めて「人間」は「世の中」の一員たる資格を獲得する。(204-205頁)
☆ここに「社会」の段階が出てくる。「社会」とは金子武蔵氏が言い換えたのであって、ヘーゲル自身はC「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」という表現を使う。(205頁)

★(C)(AA)「理性」におけるB「行為」=「理性的自己意識の自己自身による実現」のc「徳と世路」において、「世路」(「市民社会」・「世の中」)と一体化した人間は①「個別的」(「徳」)でありながら「普遍的」(「世路」)であり、「普遍的」なものも「個別的」であることを、また②「個別的」なもの(「徳」)はむろん自分を否定して「普遍的」なもの(「世路」)に参与しなくてはならないが、「普遍的」なものも自分を否定して「個別的」なものに存在を許してくれることを、チャンと自覚している。かくてそうした人間は、もう「社会」のうちになんらの抵抗をも不安をも感ぜずに、気楽にその一員として生活し活動していくことができる。(205頁)
☆このことをC「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」の段階とヘーゲルは呼んだ。この段階を金子武蔵氏はC「社会」と言い換えた。(205頁)

★要するに(C)(AA)「理性」C「社会」の段階とは、「『徳』を具え、しかもこれが『世路』(世の中)と背馳しないものであることが自覚せられて初めて、人間は社会生活をなすことが可能になる」ということだ。(206頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)!
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする