宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

清水真木(1968-)『忘れられた哲学者:土田杏村(キョウソン)と文化への問い』中公新書、2013年:理想主義・象徴主義・文化主義! 

2018-08-15 10:19:48 | Weblog
第1章 1920年代の思想と「文化」概念
A 土田杏村(1891-1934)西田幾太郎(キタロウ)に師事。1920年ごろ文化主義を提唱。1929年プロレタリア運動隆盛期には、反マルクス主義の立場。晩年は国家主義への傾斜。20年間に61点の著作。
A-2 1920年代ドイツのKurtur(文化)概念の重視。ディルタイ、ジンメル、新カント主義等の影響を受ける。
A-3 大正デモクラシーとともに「文化」という言葉が使われるようになった。Ex. 文化生活、文化住宅。
A-4 「文化価値の実現を努める主張を文化主義と言ふ。・・・・・・没価値的な生活理想論を指して自然主義と言ふ。」(土田杏村)
A-5 土田杏村は、新カント主義西南ドイツ学派ヴィンデルバント、リッカート、ラスクなどの影響を受け、自然と文化を対立させる。
B 1924年の著作で土田杏村は国民生活を「国家社会主義的」「国家資本主義的」に統一せよと述べる。(48頁)
C 土田が留保なしに高く評価するのは、ディルタイだけだ。(49頁)

《感想》1920年代、つまり昭和4年(1929年)までは、まだ大正デモクラシーの余韻の時代だ。世界恐慌以後、1930年代、日本の政治は狂い、軍主導の独善的強権的な時代となり、日本は破滅した。


第2章 土田杏村が残したもの
D 土田の著作の多くは時代に即応したものだったので、時代の変化とともに、読まれなくなった。彼は「一種のジャーナリスト」とされた。
E また土田の著作活動を支える哲学的・思想的文脈が忘れられた。『土田杏村全集』15巻から、彼の著作の哲学的前提だった『象徴の哲学』が排除された。務台理作の判断による。「土田の思想のアルキメデスの点」(82頁)は象徴主義だ。
E-2 土田杏村は「大正教養主義」に共感しなかった。私的な悩みへの感傷的な露出に抵抗した。(99頁)かくて和辻哲郎(1889-1960)とはメンタリティが合わない。(102頁)

《感想》土田杏村が内向きな「大正教養主義」に共感しなかったことは、彼が外向きで政治的・経済的・社会的問題について多く発言したこと(ジャーナリスト的!)と等価だ。


第3章 『象徴の哲学』(1919年)を読み解く
(1)象徴主義:「我々の個々の体験の中には全宇宙の意義が映ってゐる」
F 田中喜一(王堂)(1868-1932)によれば象徴主義とは「瞬間の中に永遠を観ようとする」ことだ。
F-2 土田杏村は象徴主義を「一を以て多を表現しようとする」立場、あるいは「我々の個々の体験の中には全宇宙の意義が映ってゐる」とする立場だと言う。
F-3 土田杏村によれば、認識は、本質的に象徴主義的である。
《感想》瞬間の中に永遠を観る立場、あるいは個々の体験の中には全宇宙の意義が映っているとする立場とは、象徴主義はなんと魅力的だろう!

(2)神秘主義
G 土田の象徴主義は、哲学史上、「神秘主義」と呼ばれた立場の一つだ。
G-2 神秘主義の最初のまとまった表現が、紀元後3世紀ギリシアの「新プラトン主義」だ。代表がプロティノス(205-270)。プラトンに神秘主義の起源を求める。
G-3 神秘主義は①真理は本質的に「隠された」ものだとする。また②「隠された」真理は合理的・「悟性的」思考では明きらかにされないとする。

《感想1》
「永遠」あるいは「全宇宙の意義」を一挙にとらえようとすると、理性を超える「永遠」あるいは「全宇宙の意義」との「合一」しかない。つまり神秘主義だ。
《感想2》
しかし「永遠」をイデア的意味ととらえれば、認識はそれ自身すでに「永遠」の認識だ。また「我々の個々の体験の中には全宇宙の意義が映ってゐる」(土田杏村)のでなく、《我々の個々の体験が、すでに宇宙そのものだ》と言うべきだ。(Cf. ライプニッツのモナド)

(2)-2 プロティノスの「流出説」(神秘主義)
H プロティノスは「一者」(ト・ヘン)が万物の根源であり、一者以外のすべて(次の②③④⑤)が、一者から「流出」(プロホドス)したと説明する。「流出説」!
H-2 世界は上下の関係の5つの階層からなる。上から順に①「一者」(ト・ヘン)、②「知性」(ヌース)、③「心(魂)」(プシュケー)、④「自然」(ピュシス)、⑤「質料」(ヒュレー)
H-3 「心」は「叡智的世界」(①②)と「可視的世界」(④⑤)の境界だ。
H-4 存在するものはすべて、「完全性」をめざす。つまり自らの根源である「一者」に「帰還」(エピストロペー)しようとする。
H-5 人間の場合、帰還の道とは、感覚(④⑤)の影響を排除し、心(③)を知性の段階(①②)へ上昇させる努力の道だ。
I プロティノスの新プラトン主義は、一者との神秘的な「合一」により人間は救済されると主張する。かくて「一者」が「神」に置き換えられ、プロティノスの新プラトン主義は、初期キリスト教神学に取り入れられる。それは、アリストテレスとともに、初期キリスト教神学を支えた。

《感想》初期キリスト教神学の枠組をなすのは、新プラトン主義の「一者」の「神」概念への読み替えだ。アリストテレスは、この枠組みを前提に、その精緻化に役立ったと言える。

(2)-3 (ⅰ)あらゆる個体が全世界(「一者」)を映し出す!(ⅱ)「一者」(神)そのものは、特定の「何ものか」ではない!
J 存在する全てのものが「一者」から「流出」したのなら、(ⅰ)あらゆる個体が全世界(「一者」)を映し出す。(116-117頁)
K と同時に、(ⅱ)「一者」(神)そのものは、特定の「何ものか」ではない。
K-2 「神とは・・・・である」と言えない。神は、《特定の「何ものか」ではないもの》と、否定的にしか語りえない。(「否定神学」)神は合理的思考の彼方の矛盾に満ちたものだ。かくて神は、計算・推論など理性でとらえられず、神秘的で非合理的な直観(Ex. 「合一」体験)によってのみとらえうる。

《感想1》
(ⅰ)あらゆる個体が全世界(「一者」)を映し出す。この場合、個体と別に、全世界(宇宙)があるのではない。先に指摘したように、《我々の個々の体験が、すでに宇宙そのものだ》と言うべきだ。(Cf. ライプニッツのモナド)
《感想2》
(ⅱ)「一者」(神)そのものは、特定の「何ものか」ではないとは、どういうことか?「永遠」をイデア的意味ととらえれば、認識はそれ自身すでに「永遠」のイデア的意味(「一者」あるいは神に属す)の把握だ。要するに、認識されるの「永遠」のイデア的意味(「一者」あるいは神に属す)は、認識されるヒュレーとしての特定の「何ものか」(これはイデア的意味でなく質料的ヒュレーだ)ではない。

(3)ライプニッツのモナド論(モナドロジー):土田杏村の象徴主義と並行的だが、土田自身の言及はない!
L ライプニッツは、上述の「(ⅰ)あらゆる個体が全世界(「一者」)を映し出す!」の側面を強調する。世界を構成する個体(※モナド)の一つひとつは、全世界をそれぞれ異なる仕方で「真なるもの」として「表象」する。
L-2 ライプニッツは、実在するものを指し示すために、新プラトン主義に由来する「モナド」の名を用いる。
L-3 モナドの基本的な機能は、全世界の「表象」と完全性への傾向(「欲求」)だ。
L-4  モナドには各々、世界の表象の「判明」(distinkt)の程度の差異がある。
L-5 なおライプニッツのモナド論(モナドロジー)は、土田杏村の象徴主義と並行的だが、土田自身のライプニッツへの言及はない!

《感想1》モナドは世界そのものだ、つまり「真なるもの」だ。世界の映像でない。モナドと別に「真なる」世界があるわけでない。
《感想2》(a)モナドは「真なるもの」で世界そのものだが、「全」世界でない。その意味で、モナドは全世界の「表象」だ。(b)かくて他方でモナドは「全」世界を求める欲求、つまり「完全性への傾向」(「欲求」)を持つ。

(4)『華厳経』:一つの珠が他のすべての珠を映す「一即多」「多即一」の華厳の哲理!
N 土田杏村は、『象徴の哲学』について、象徴主義の考えの基底には仏教の哲理、「華厳の哲理」が潜んでいるという。
N-2 紀元後4世紀頃成立した大乗仏教の経典『華厳経』に「インドラ(帝釈天)の網」(因陀羅網(インダラモウ))
の比喩がある。網の結び目の一つひとつが珠になっており、一つの珠が他のすべての珠を映す。「一即多」「多即一」の華厳の哲理は、ライプニッツの立場でもある。

《感想1》
上述したように、土田杏村は象徴主義を「一を以て多を表現しようとする」立場、あるいは「我々の個々の体験の中には全宇宙の意義が映ってゐる」とする立場だと言う。これは、確かにライプニッツの立場であり、「華厳の哲理」の立場だ。
《感想2》
さらに土田杏村は、《認識は、本質的に象徴主義的である》と言う。認識は、イデア的意味の認識であり、イデア的意味は「永遠」である。そしてイデア的意味は、言葉によって指示される巨大な全体である。かくて認識は、ヒュレー(質料)の内に「永遠」のイデア的意味の世界の《全体》(言葉によって指示される巨大な世界全体)を見る。

(5)土田杏村の象徴主義と現象学との交差(その1)「志向的体験」の:意識の作用(意識の志向性)は情意作用あるいは価値命題に収束する! or人間の行為は、すべて意図(あるいは感情)に支えられている!
O 土田は「意識とその対象は一つの同じものの二つの側面だ」という。つまり「作用としての意識」の二つの形態にすぎない。
O-2 土田は、フッサール(『論理学研究』)から「志向的体験」(intentionales Erlebnis)と「充実作用」(Erfüllung)の概念を借用する。
O-3 土田によれば意識の志向性(「志向的体験」)という意識の作用は、(a)表象作用、(b)判断作用、(c)情意作用からなる。これら三つは、充実作用の場面で、その都度あらかじめ統合されている。
(a)表象作用(表象(意味)の形成):何かに対し存在性格(「ある」という性格)(意味)を与える意識作用。Ex. 何か白ぽいもの(対象)をウサギ(意味)として把握する。
(b)判断作用(事態(意味)の形成):出来事についての把握、つまり「事実命題」(意味)の形成。Ex. ウサギ(対象)が跳ねている(意味)。
(c)情意作用(価値(意味)の形成):出来事について価値を見いだし、価値判断すること。つまり「価値命題」(意味)(Ex. あそこで跳ねているウサギはかわいい)の形成。Ex. ウサギが跳ねているという出来事(対象)に、価値(意味)(「かわいさ」)を見出す。
O-4 土田はすべての意識の作用は、情意作用へ収束する、したがってすべての文(言明)は価値命題である。かくて事実命題は、短縮された価値命題にすぎない。
P 「私」とは、私の意識の対象に、私が与える意味の集合だ。(132頁)

《感想1》
事実命題は、《事実のみ見よう》という意図(あるいは感情)に支えられている。要するに、土田杏村は、《人間の行為は、すべて意図(あるいは感情)に支えられている》とするのだ。例えば、理性とは《理性的であろうとする意図(あるいは感情)》のことだ。
《感想2》
意図(あるいは感情)に収束する志向的体験が作り出す意味の総体が、「私」なるものの内実だ。

(5)-2 土田杏村の象徴主義と現象学との交差(その2)「要求体験」(リップス):対象が意識に対し自らの真理を開示するプロセス(「志向的体験」を対象の方から既述したもの)!&フッサールの「充実作用」!
Q 「志向的体験」は、意識する私から対象へ向けられるものだ。
Q-2 これに対し「要求体験」は、対象から意識する私に向けられたものだ。対象が私に対し何かを要求する。すべての《文》はこの要求に対する応答だ。(テオドーア・リップス)
Q-3 「要求体験」とは、対象が意識に対し自らの真理を開示するプロセスだ。
R フッサール的に言えば、意味志向(※対象を意味として把握すること)は何らかの対象と関係づけられているが、「空虚」(つまり対象と意識の作用との関係が不安定)であって、両者に安定した関係を設定することが、「充実作用」(空虚な意味志向を、対象によって、充実する作用)だ。
R-2 意味志向は、何らかの対象と関係づけられているが「空虚」な意味(対象との関係で言えば記号)を、次々に置き換えていくことでもある。(137頁)

《感想1》
「要求体験」(リップス)は、「志向的体験」という意識の作用を、対象の方から既述したものであって、「志向的体験」と別に「要求体験」があるわけでない。
《感想2》
「要求体験」(リップス)は、フッサールが「志向的体験」における「充実作用」と呼んだものだ。

(5)-3 「志向的体験」:一方で私の意識が世界を映し出すとともに、他方で意識の対象となるモノやコトの一つひとつが世界を映し出す!
S 「志向的体験」において、一方で私の意識が世界を映し出すとともに、他方で意識の対象となるモノやコトの一つひとつが世界を映し出す。
S-2 意識の作用に対応する言語表現について言えば、一方で私の意識における言語世界が現実の世界を映し出す。(※正確には現実の世界は意味=言語としてしか把握できない。ただし言語は《指示される意味》と《記号としての意味》に分節される。)他方で一つひとつの語と文のうちに世界全体が表現される。

《感想1》
一方で私の意識が世界を映し出す。土田は、「個々の体験の中には全宇宙の意義が映っている」という。(※ただし、正確には、実は個々の体験が、それ自身、宇宙《そのものだ》ということだ。)
《感想2》
他方、意識の対象となるモノやコトの一つひとつが、世界を映し出すとは、一つひとつモノやコトが《世界地平》を伴うということだ。あるいは、また、一つひとつの語と文のうちに世界全体が表現されるとは、一つひとつの語と文が《世界地平》を伴うということだ。
《感想3》
かくて土田杏村は『象徴の哲学』において、象徴主義、つまり瞬間の中に永遠を観る立場、あるいは個々の体験の中には全宇宙の意義が映っているとする立場を、哲学的に基礎づけた。

(6)象徴主義:「有限において無限をあこがれる」!
T 土田杏村は、象徴主義は「有限において無限をあこがれる」ことだと言う。(140頁)
T-2 これはまた、「或る有限に於いて他の或る有限をあこがれる」ことでもある。つまり「詞(コトバ)は所思の正面でない。それは詞の殺した一面だ。」「一つの詞の決定が、かくしてそれと全く反対の意味を喚び生かすことが富士谷御杖(フジタニミツエ)(1768-1824)の所謂『倒語』なのだ。」(土田杏村)

《感想》「有限において無限をあこがれる」とは、人間の《白鳥の歌》だ。君は無限にあこがれて、滅びるのだ。(※白鳥は死の直前、美しく鳴くという言い伝えが、ドイツにある。)


第4章 文化への問い:社会集団の「共同目的」である文化価値の一つひとつが、他のすべての文化価値をモナド的に表現する⁉
U 土田杏村は、それぞれの社会集団の「共同目的」として機能する文化価値の一つひとつが、他のすべての文化価値をモナド的に表現すると言う。(198頁)
U-2 土田の文化主義は、社会というものを一種の織物として、文化価値の「因陀羅網(インダラモウ)」というものをして記述する。(200頁)

《感想》土田杏村は、人間社会が相互に連関すること、ここの社会集団が目指すもの(文化価値)は他の諸々の社会集団の連関の内にあり、あるいはむしろ他の諸々の社会集団の文化価値をきわだたせると考える。


第5章 地位のプラグマティズムから文明批評へ:「万人共通の真理」実現への貢献度で、それぞれの社会集団の「共同目的」についてプラグマティックに価値評価するという土田の理想主義!
V 「人間社会には万人共通の真理などいふものは存在しない」という「相対主義」もある。「それぞれの考へ方は、それぞれの地位に対してのものだ」という立場だ。しかし「万人共通の真理」が「極限概念」としてあると信じたい。これが土田杏村の「理想主義」だ。彼は、理想主義に立つと述べる。(208-10頁)
V-2 この理想主義は、私たちの個別の努力が「万人共通の真理」なるものの実現に貢献しているに違いないとの想定のことだ。価値評価をめぐるプラグマティックな態度としての理想主義。「万人共通の真理」実現への貢献度で、それぞれの社会集団の「共同目的」について価値評価する。(209頁)
V-3 土田杏村の理想主義は、特定の美的、道徳的価値を真理=理想とみなし、これを追求する理想主義でない。(209頁)

《感想》
土田杏村の膨大な文明批評は次のような観点に立つ。
①「万人共通の真理」が「極限概念」として存在するとの「理想主義」に基づきつつ、
①-2「万人共通の真理」実現への貢献度から、事象を評価するプラグマティックなものだ。
②しかも彼は、文明批評にあたって、それぞれの社会集団の「共同目的」として機能する文化価値の一つひとつが、他のすべての文化価値をモナド的に表現するという「象徴主義」の立場に立つ。
③そして土田杏村は、「文化主義」の立場に立つ。すなわち彼は「文化価値の実現を努める主張を文化主義と言ふ。・・・・・・没価値的な生活理想論を指して自然主義と言ふ」と述べる。

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河内春人(1970-)『倭の五王:王位継承と五世紀の東アジア』中公新書、2018年

2018-08-11 17:49:12 | Weblog
はじめに
A 倭の五王、讃・珍・済・興・武が、中国に遣使。(421-478年)

《感想》武の時代の約100年後、聖徳太子(574-622)が誕生した。小野妹子が隋に派遣されたのが607年。武の最後の中国遣使(478年)から、120年以上が空いている。

序章 四世紀後半の東アジア:倭国「空白」の時代
1.百済との対高句麗軍事同盟:372年百済が倭に七支刀を贈る!
B 高句麗の南下を百済が撃退(369、371年)。
B-2 372年百済が倭に七支刀を贈る。倭国と百済の対等な対高句麗同盟。
B-3 倭国は鉄を朝鮮半島(伽耶地域)に頼っていた。
C 倭国の前方後円墳の5地域:百舌鳥5C半ば(大阪)←馬見5C←古市4C末(372年七支刀の倭王、大阪)←佐紀4C←大和柳本古墳群。
D 新羅は、4C半ばに発展。初めて中国(前燕)に使者を送る(朝貢)。高句麗が仲介。

《感想》広開土王(位391-412)以前の高句麗、百済、新羅、倭の関係を見ると、新羅はまだ新興勢力だ。百済と倭が、高句麗に対抗し軍事同盟。倭国は朝鮮半島の鉄が必要だった。

2 高句麗の飛躍、倭国の渡海:広開土王(位391-412)碑の真実
E 376年、華北を統一した前秦が、383年淝水の戦い(ヒスイノタタカイ)で東晋に敗北後、高句麗の活動が活発化。(なお394年、前秦滅亡。)
E-2 広開土王(好太王)(位391-412)の時、高句麗が飛躍的に発展。好太王は新羅や百済に攻勢をかける。高句麗には、倭が、いつも不気味だった。
E-3 倭が百済・新羅を臣民化した事実はない。
E-4 400年、倭が新羅に侵攻。倭は、高句麗の騎馬軍に衝撃を受ける。(その後、5Cには日本でも馬を飼育。)404年、倭と高句麗が帯方郡沖で海戦。
F 高句麗好太王碑は414年、作られた。

《感想》広開土王(好太王)(位391-412)の時、高句麗が飛躍的に発展。新羅や百済に攻勢をかける。400年、倭が新羅侵攻。また404年、倭と高句麗が帯方郡沖で海戦。広開土王碑文によると広開土王は391年と399年の二度にわたり南下して、倭と百済の連合軍と戦ったとされている


第1章 讃の使節派遣(421年):150年ぶりの対中外交
G 3C西晋、266年が、倭(邪馬台国・壱与)の中国遣使の最後だ。4Cには、倭は中国に遣使しない。5C、倭の五王が宋に遣使する(421-478年)。

《感想》3C 邪馬台国以後、倭と中国との関係が、4C途絶するが、忘れられることは結局なかった。5Cに倭は中国への遣使を再開した。

1 高句麗による倭国偽使(413年):東晋の滅亡、宋の建国
H 413年、高句麗長寿王(位413-491)(広開土王の次の王)が東晋に遣使。この時、倭国も東晋に遣使する。
H-2 しかし、これは高句麗が倭国の偽使を仕立て、高句麗が東アジアの大国だと東晋に認識させようとしたものだ。
I 高句麗と対立する百済は、372年以来、東晋に数回朝貢する。(384、386、406年)
I-2 396年には、広開土王に百済が大敗する。倭国は、百済を軍事的に支援。
J 420年、東晋が滅亡し、宋建国。

《感想》倭は、百済と友好的であり、百済を支援して高句麗好太王(391、399年)と戦う。倭は朝鮮半島の鉄権益を守ろうとした。

2 421年、讃(位421-437)による宋への外交開始
K 宋は、高句麗と百済を、宋国内の将軍と同列に扱うことにした。倭は、高句麗、百済が宋と関係強化したことに刺激を受け、宋に遣使した。

《感想》倭は、東アジアの国際関係の中にいる。倭の行動は、宋、高句麗、百済等との相互関係の内で決まる。

3 倭国王冊封の意味:将軍府の開設と府官制の導入
L 讃は、倭国王安東将軍の中国官爵を獲得した。中国との関係の強さは、①高句麗、②百済、③倭国の順である。
L-2 将軍府・府官制という統治機構が整備され、倭国の権力機構が強化された。府官は、王を頂点とする支配機構そのものだ。なお高句麗、百済、倭国は、宋への朝貢に府官を派遣した。

《感想》宋から倭国王として冊封されたこと(421年、讃)は、外交的意味とともに、将軍府・府官制という統治機構が整備され、倭国の権力機構が強化されたことも意味する。


第2章 珍から済へ、そして興へ:宋への遣使の意図と王の権力
1 (讃の)弟・珍(位438-443)の遣使(438年)、官爵の要求:同盟国百済との競合意識
M 珍は、安東大将軍等の官爵を要求した。高句麗・百済が「大将軍」なのに、倭国が「将軍」なのが、不満だった。宋は却下した。
M-2 宋は、倭珍を安東将軍倭国王(東アジア、かつ日本の東を管轄)に任じた。
M-3 また倭珍の申請に基づき、王族(倭を名乗る)および豪族13人に将軍号を与えた。筆頭は倭隋で平西将軍(日本の西を管轄)。
M-4 当時、5C、大王となりうる王族集団が二つあった。古市古墳群と百舌鳥(モズ)古墳群。つまり讃珍系王族集団(倭珍)ともう一つの王族集団(倭隋)。

《感想》珍の宋への遣使(438年)の意味は2重だ。①国際関係上、高句麗・百済が「大将軍」なのに、倭国が「将軍」なのが不満。②国内統治上、中国官爵が国内的に持つ効能であり、王族(倭を名乗る)および豪族13人に与える将軍号を宋から得た。

2 高句麗が、435年、北魏に遣使
N 439年、北魏が華北統一。(※南北朝時代開始。隋が中国を再び統一する589年まで。南朝:宋、斉、梁、陳。)
N-2 高句麗長寿王(位413-491)が435年、初めて北魏に遣使。ただし北朝と南朝を天秤にかけ、439年、高句麗は南朝の宋にも馬800頭を送る。

《感想》高句麗長寿王(位413-491)の立場に立てば、対中国外交は、むずかしい。高句麗は、北朝と南朝の力関係を考慮しつつ、両者と友好関係を結ぶ必要があった。

2-2 428-461年、百済と日本の外交途絶:百済・新羅が和親し高句麗に対抗
O 百済が、毗有(ビユウ)王(位427-455)に変わる。百済が新羅に、433年、和親の使節を送る。(373年の外交決裂以来。)高句麗の圧迫が強くなり、百済・新羅が和親。
O-2 440年、百済が宋に遣使し、高句麗に対抗。
O-3 428-461年、百済と日本の外交途絶。

《感想》百済の毗有(ビユウ)王(位427-455)は、高句麗に対抗するため百済新羅同盟を重視。百済は、新羅と対抗する倭国との同盟をやめた。前王の時代と異なり、外交の大転換だ。

2-3 438年、珍の即位(位438-442)
P 438年即位の珍(位438-441)は、百済と新羅の連携を警戒。440、441年、倭国が新羅に侵攻。
P-2 珍の宋への遣使は、438年のみ。

《感想》北魏、宋、高句麗、百済、新羅、倭国の国際関係の中で、倭国の行動を見る必要がある。

2-4 443年、済の登場:讃・珍は兄弟だが、済(セイ)(位443-461)は近親でなく、王統の移動があった
Q  珍は在位、わずか5年で死ぬ。済(セイ)が継ぐ(443年)。この年、済は宋に遣使し、安東将軍倭国王に任じられる。
Q-2 当時、王統は、古市と百舌鳥の2大勢力があった。一方が倭讃・倭珍の勢力、他方が倭隋・倭済の勢力。
Q-3 444年、済が新羅に出兵。
Q-4 450年、宋(420-479)が北魏に大敗する。

《感想》倭国王の王統は、一方に倭讃(位421-437、421年宋への遣使、倭の5王の遣使の最初)・倭珍(位438-442)の勢力、他方に倭隋・倭済(セイ)の勢力があった。倭珍の次の倭国王は倭済(位443-461)で、王統の移動があった。

3 451年、済(セイ)の再遣使
R 451年済(セイ)が宋に再遣使する。宋は、対北魏包囲網のため、倭国を利用したい。かくて済は、倭国王として初めて使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事(※百済は含まない)に任命される。
R-2 済(位443-461)は前もって23人に官爵を仮授し、その正式任命を宋に要請した。そのための再遣使。王族・豪族は「将軍」、府官(渡来系)は「郡太守」。444年の新羅への侵攻に対する論功行賞が考えられる。

《感想》宋は、対北魏包囲網のため、倭国を利用したい。倭国王済は、444年新羅侵攻に対する論功行賞として、倭国内の王族・豪族への官爵の授与を、宋に要請する必要があった。宋と倭のウィンウィン関係として、両国の外交が成立している。

3-2 「任那」とはどこか?
S 伽耶地域の有力国「金官国」がもともとは「任那」と呼ばれていた。
S-3 倭国は「金官国」を通じ、伽耶地域の諸国と交流を深める。かくて「伽耶」地域全体(10各国)が「任那」と呼ばれるようになった。
S-4 伽耶地域の有力国は、金官国(任那)の外に、加羅国(大加耶)が勢力を伸ばしつつあった。

《感想》任那とは「伽耶」地域全体(10各国)のことだが、もともとは「金官国」を指した。(なお532年、金官国は新羅に征服される。)

3-3 461年、倭国(新羅と対立する)と百済の同盟復活(Cf. ただし対高句麗の百済新羅同盟あり)
T 倭国は、宋から認められた軍権(451年)(使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事)にもとづき、459(済),462(興),463年(興)に新羅を攻撃する。
T-2 428年以来、32年ぶりに、461年に、倭国(新羅と対立する)と百済の同盟が復活する。(Cf. 対高句麗のため百済と新羅の同盟はある。)

《感想》倭国が、百済・新羅を支配し臣下としたことはないだろう。ただし高句麗・百済を除く朝鮮半島における「倭国」の軍権は、宋が認めている。
《感想(続)》また「金官国」(任那)を中心に「伽耶」地域全体(10各国)(広義の任那)に対し「倭国」の影響力はあり、また「倭国」が出先機関を持ったはずで、これを「任那日本府」と呼んだのだろう。

3-4 462年、興(位462-477)の登場:不明瞭な王位継承
U 済と興は親子だが、「倭国王」の王位継承は不穏であった。というのも、462年、興の宋への遣使は、「倭王世子」からなされ、「倭国王」を名乗っていない。事情があって興は、まだ「倭国王」として即位していない。
U-2 宋は「安東将軍・倭国王」の爵位を興に授けた。

《感想》「讃」・「珍」は兄弟だが「済」(セイ)は近親でなく、王統の移動があった。また「済」と「興」は親子だが、王位継承は不穏であった。なお次の倭国王である「武」は興の弟だ。


第3章 倭王武の目指したもの:激動の東アジアのなかで
(1)  460年代-470年代前半:宋・北魏・高句麗・新羅・百済・倭国の国際関係
V 高句麗は宋に冷ややかで、北魏に接近する。(460年代-470年代前半)
V-2 同時期、高句麗の新羅への南下に対し、百済は、新羅と同盟し、高句麗を攻撃。
V-3 475年、高句麗が百済を攻撃し、漢城、落城。この時、倭国は、百済を支援せず。(Cf. 660年百済滅亡は、唐と連合した新羅による。)

《感想》
倭国王「済」の461年、(428年以来、32年ぶりに)倭国と百済の同盟が復活する。しかし「興」(位462-477)の時代になると、倭国は、百済を支援しない(Ex. 475年、百済の漢城陥落。)(Cf. 「武」の宋への最初の遣使は478年)

(2)478年「武」(位478-)が宋に遣使
W 興が477年に、再び宋に遣使する。しかし興は、急死。
X 478年、「武」が宋に遣使する。「武」は安東大将軍・倭国王に昇格する。これまでは安東将軍で、高句麗・百済が「大将軍」だったのに対し、格下だった。宋から官爵を得るにあたっての序列競争。
X-2 武による宋皇帝への上表文は5世紀後半の東アジア世界を描く。
X-3 武には高句麗征討計画があった。①476年、百済の宋への遣使(おそらく倭国も関与)を高句麗が妨害。②鉄をめぐる倭国の権益が侵される懸念。③百済が弱体化したので倭国中心に高句麗と対決する必要。
X-4 上表文の文化レベルは高く、府官に任命された渡来系の人々が書いたと思われる。(4-6世紀南北朝時代は六朝文化が栄えた。)

《感想1》
倭の五王、讃・珍・済・興・武が、中国に遣使したのは、421-478年である。つまり倭の五王は5世紀だ。
《感想2》
これに対し、卑弥呼・壱与(イヨ)は3世紀である。238年魏に遣使。266年に次の女王の壱与(イヨ)が晋に遣使。(このあと倭の五王・讃の遣使421年まで、約150年間、倭国から中国への遣使がない。)
《感想3》
「三韓征伐」の神功皇后は4世紀だろう。「三韓征伐」は神功皇后が新羅に出兵した戦争。(「三韓」は新羅、高句麗、百済。)神功皇后は、仲哀天皇后で応神天皇母。夫仲哀天皇の急死(320年)(or『日本書紀』では200年)の後、神功皇后が321-389年(or『日本書紀』では201-269年)まで治世。(Cf. 井上光貞は、『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼に比定し干支を120年繰り上げたと指摘する。)
《感想3-2》
広開土王碑には391年、399年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の広開土王(好太王)と戦ったとある。
《感想3-3》
「三韓征伐」では、新羅降伏後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったと、『日本書紀』は述べる。しかし新羅、百済、高句麗が、日本の支配下に入ったことはないだろう。
《感想3-4》
なお「三韓」とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示す場合もある。


第4章 倭の五王とは誰か:比定の歴史と記紀の呪縛
(1) 第10代崇神天皇がハツクニシラス・スメラミコト&讃珍グループと済興武グループ間の王朝交代
A  これまで、「讃」は応神(15代)・仁徳(16代)・履中(リチュウ)(17代)、「珍」は反正(ハンゼイ)(18代)、「済」は允恭(インギョウ)(19代)、「興」は安康(アンコウ)(20代)、「武」は雄略(21代)と、比定されてきた。
A-2 倭の五王は、いずれも倭姓を名乗る同族。ただし権力委譲のダイナミクスは不明。
A-3 讃珍グループと、済興武グループ間の王朝交代があったと思われる。
A-4 第10代崇神天皇が、もともとハツクニシラス・スメラミコト。第1代~第9代開化までは『記紀』で、あとから付け加えられた。(ただし全くの創作ではないだろう。)

《感想》、第1代~第9代開化までは『記紀』において、あとから付け加えられ曖昧だ。第10代崇神天皇が、もともとハツクニシラス・スメラミコトだ。

(2)507年即位の継体天皇(26代)以前(あるいは5C以前)の大王の記憶は、あいまいだ!ゆえに『宋書』倭国伝(倭の五王)と『記紀』のすり合わせはあまり意味がない!
B 暴虐だったとされる武烈天皇(25代)で、王統が途絶える。
B-2 507年、継体天皇(26代)が、大伴金村らに越前国から迎えられ河内国で即位。(大和に入るのは20年後。)現皇室の祖である。
B-3 継体天皇も、倭姓を名乗る王族だ。
B-3 その子が欽明大王(天皇)(29代)。(『帝紀』は6C 半ば欽明大王の時できた。)
C 継体以前、つまり5C以前の大王の記憶はあいまいだ。
C-2第15代応神天皇は《倭姓を名乗る王族》の始祖王ホムタワケであり、その系譜であることが5Cの大王たち(倭の5王など)の統治の根拠だ。
D 『宋書』倭国伝(倭の五王:讃・珍・済・興・武)と『記紀』(8C)のすり合わせは、あまり意味がない。

《感想》継体天皇(26代)も、倭姓を名乗る王族であり、越前国から迎えられ507年即位し、現皇室の祖となる。継体大王の即位前、倭国内に、政治的混乱があったに違いない。


終章 「倭の五王」時代の終焉:世襲王権の確立&宋の滅亡(479年)
(1)507年、継体大王の即位後、大王の王位継承世襲化:中国から官爵授与されることが不要となる!
E 倭の五王の時代は、宋から授与された将軍号など官爵を、国内の王族・豪族に分配し、倭王権を強化した。
E-2 しかし、507年、継体大王の即位後、大王の王位継承が世襲化された。大兄制度の導入。王位継承候補者(大兄)を決定しておく制度だ。もはや宋から授与された官爵を国内の王族・豪族に分配する必要がなくなり、中国への遣使が不要だ。
E-3 武の最後の遣使(478年)の後、「倭の五王」の二つの王統、《百舌鳥古墳群、古市古墳群の両勢力》、あるいは《讃珍の王統と済興武の王統》の勢力が弱まった。
E-4 倭国は482年と486年には新羅を攻撃しているので、倭国内の政治的混乱は、その後の20年だろう。つまり継体大王の即位前、約20年間、倭国内に政治的混乱があったと思われる。

(2)倭国、高句麗、百済が、将軍号で序列意識を競う必要がなくなる:宋の滅亡(479年)
F 倭国王に権力の正統性の根拠(冊封)を与えた宋が479年、滅亡した。
F-2 宋の滅亡(479年)によって、倭国、高句麗、百済が、将軍号で序列意識を競う必要もなくなった。

《感想》一方で (1) 倭国内の政治的混乱の20年間の後、507年、継体大王の即位後、大王の王位継承世襲化、および他方で(2)宋の滅亡(479年)により倭国、高句麗、百済が序列意識を競う必要がなくなる。かくて(1)(2)により、中国(宋)への遣使の時代(5C)、つまり「倭の五王」の時代(521-578年)は終わった。

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