宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『連鎖』真保裕一(1961生)、1991年、講談社文庫

2011-07-23 15:52:41 | Weblog
 推理小説だが、Ⅰ放射能汚染食品の三角輸入と横流し、Ⅱ輸入品の廃棄・積戻し処分を利用したココム違反と覚せい剤密輸入など、政治・経済の分野の新しい知見の観点から、まとめた。
  Ⅰ 放射能汚染食品の三角輸入&横流し
 1986年チェルノブイリ原発事故後、ポーランドの牛肉の放射能汚染が起きた。
 当時は一般人の被曝許容線量は年間5ミリシーベルト。(その後、ICRP(国際放射線防護委員会)は1ミリシーベルトにさげる。)
 日本の法律では、食品輸入の相手国は明記されるが、原材料の産地国は明記しなくてよい。
 「インド産ハブ茶」と「シンガポール産牛肉」から基準値を超える放射能が検出されたとの記事が、中央新聞社の『中央ジャーナル』に掲載される。(※フィクション)
 牛肉は自由化前、輸入数量規制が行われていた。乾草牛肉は規制外。牛丼チェーン松田屋が乾草牛肉をシンガポールから輸入。(※フィクション)
 シンガポールは自国への放射能食品持込を許さないが、他国へ再輸出されるなら、放射能汚染食品の輸入OK。
 ダメージ屋が食品業界にはいる。食品は傷みやすいため、問題がある食品をダメージ屋が引き取る。彼らが放射能汚染食品の処分に絡むことがありうる。
 食品衛生監視員(食品G メン)、また検疫所が、廃棄するはずの放射能汚染食品の横流しを追及する。

  Ⅱ ココム違反&覚せい剤密輸入:輸入品の廃棄・積戻し処分を利用
 五香貿易(※フィクション)はココア調製品(脱脂粉乳の含有率75%以下)の廃棄・積戻しで損害を受ける。しかし五香貿易は、一方で保険から支払いを受け、他方でポーランド政府にバーター率を変えてもらい、穴埋め可能。
 乳製品は、米や小麦と同じ国家貿易品目で、輸入枠や取り扱う貿易商社が限定されている。これに対しココア調製品なら自由に輸入可能。
 しかし、実は五香貿易は何度も放射能汚染のココア調製品を積み戻しして、先端技術製品のCPUなどをポーランドに送っていた。ココム違反。
 他方、暴力団赤崎組(※フィクション)が、ココア調製品の廃棄・積戻し処分を利用して、覚せい剤を密輸入。
 両者ともに、コンテナ内部を詳しく調べられることがない「コンテナ扱い」が前提。普通、輸出入について「コンテナ扱い」を受けられるのは大商社のみ。
 Cf. 横流しをカモフラージュするため、運送会社などトンネル会社がある。
 Cf. 東南アジアは食品の放射能の基準が厳しい。(1)原発がないため。(2)放射能汚染食品を他国から押し付けられないため。

 《評者の感想》
 政治や経済の分野について、多くの新しい知見が得られて良かった。
 ①放射能汚染食品の三角輸入問題。原産地国を隠すため、一度別の国に輸出し、そこから再輸出させる。食品輸入の相手国は明記されるが、原材料の原産地国は明記されないため。なるほど、こういうカラクリがあるのかと驚く。
 ②加工貿易基地国として発展したシンガポールの抜け目なさに唖然。
 ③外食チェーンが安い材料の仕入れのため、あらゆる手段を使うと分かる。例えば乾草牛肉を使う牛丼屋。
 ④ダメージ屋が食品業界にいる。蛇の道はヘビと言うべき。
 ⑤農薬、カビ毒、放射能などの汚染食品、また腐敗食品などの横流しの誘惑が恒常的に食品業界にある。濡れ手に粟の利益を誰もが狙う。
 ⑥米や小麦、また乳製品は国家貿易品目。日本農業の保護とともに、商社の指定、役人の権限を利用しての腐敗を、思い起こさせる。
 ⑦東側が経済競争で資本主義に負けたとは、どういうことか具体的に分かる。例えば、CPUなど最先端技術に敗北した。
 ⑧原発がないため、また放射能汚染食品のゴミ捨て場にならないため、東南アジアは食品の放射能の基準が厳しい。苦肉の策。

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『誠実な詐欺師』トーべ・ヤンソン(1914-2001)、1982年、ちくま文庫

2011-07-18 23:39:19 | Weblog
   Ⅰ
 『誠実な詐欺師』の舞台は、フィンランドの海沿いの小さな村。
 25歳の女性、カトリ・クリングは村ではよそ者。父は出奔し母親の手で育てられた。母親が9年前に死ぬ。カトリはその時から、雑貨店の使用人という母の仕事を引き継ぐ。当時6歳、今は15歳の弟マッツの面倒をカトリが見る。
 カトリは計算の才がある。また人間は人を騙すものと定義し性悪説に立つ。契約や取引に詳しい実務家。現実主義者。そして、カトリはお金がほしい。
 軽い知的障害がある弟のマッツは、ボート製作だけに興味がある。海の冒険物語が好き。心が純真。悪意がない。
 女性画家アンナ・アメリエンは森の土壌のイデー(理念)を描くことに命をささげる。彼女の両親はすでに亡くなり一人住まい。地主の家柄で裕福。自分の絵に花柄の兎を書き込む。兎は出版社の要望で商業主義的観点から、アンナには違和感があるが、必ず書き添える。子供に人気のキャラクター。
 アンナはお金持ちであり、お金に頓着ない。また人の善意を無条件に信じる。
 
   Ⅱ
 カトリは、店主からの性的嫌がらせがもとで、雑貨店をやめる。カトリは新たな住居と仕事を探さなければならない。カトリはアンナ・アメリエンの家に入り込むことを意図する。
アンナは、お金に頓着ないため、兎のキャラクターの使用契約や出版者との版権契約などで、食い物にされていた。カトリは、秘書としてそれを契約しなおし、新たに得た金をアンナと分配し、自分のお金を増やしていく。
 こうした状況のもと、アンナの善意と、人を信じる性格が壊れていく。アンナは、自分が村の者たちから騙されていることを、カトリから知らされ人間不信となる。
 アンナはカトリを恨む。自分が人の悪口を言うようになったのはカトリのせいだと非難する。
 アンナは森の土壌のイデー(理念)を見失う。絵を描く気力を失う。
 これに対しカトリは、人間のあるがままをアンナに説明しただけだと反論する。
 
   Ⅲ
 やがてアンナが気づく。自分が生きるのはイデー(理念)のため以外にないのだと。
現実の醜悪さによってイデーが壊されるわけでないと、アンナは理解する。
森の土壌のイデー(理念)を描くことにのみ、アンナは専心する。そして商業主義的に花柄の兎を描くこともやめる。
 
   Ⅳ
 カトリは、アンナの財産の運用者という地位に就くため策略をめぐらした。その限りで彼女は「詐欺師」。しかしカトリはアンナを騙しはしなかった。その限りでカトリは「誠実」だった。
 しかしカトリは、「詐欺師」として失敗した。アンナが、現実に気づき、もはや騙されることがなくなったから。カトリの「誠実」が、アンナに、現実主義的で性悪説の、騙されない能力を与えた。
 弟マッツも、カトリから離れる。冒険物語の共通世界がマッツとアンナを結びつけた。また、マッツの一途で忍耐強いボートのイデー(理想)探求の企てに、アンナが共感し、マッツもアンナの気持ちをうけいれた。カトリは孤立する。
 忠実だった犬も、カトリを離れる。アンナが犬に命令するようになったので、犬が誰の命令に従うか混乱し、野性を目覚めさせる。ついにはカトリに忠実だった犬が、彼女を襲うに至る。
 カトリは、すべてを失う。アンナの財産の利用、弟のマッツの心、忠実な犬。カトリは新しい居場所を探さなければならない。

《評者の意見》
 トーべ・ヤンソンはスウェーデン系フィンランド人。1970年(56歳)にムーミン・シリーズ9冊を完結させる。
 以後、子供時代の懐かしい世界から、彼は去る。彼は現実の世界の悪意、残酷、悲惨を描く。そして、その中で生きる以外ない人間の希望の可能性を語る。
 気丈で実務処理の才能あるカトリは、きっと生きていけるはず。
 女性画家アンナはすでに森の土壌のイデー(理念)のためだけに生きると、新たに自覚的に決断。
 マッツは、カトリの協力があれば、ボート製作職人で生きて行ける。
 カトリの犬は、野犬となった。野犬は自力で生きることができる。しかし撃ち殺される可能性も大きい。
 人それぞれ(時に擬人的に動物を含む)の内面と運命が誇張やデフォルメなく事象に即して描かれる。しかし醒めていない。熱さがある。

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『沈底魚』曽根圭介(1967生)、講談社文庫

2011-07-15 21:54:18 | Weblog
  第1章 発端
 警視庁公安部外事2課が中国国家安全部の工作員、呉春賢の行動確認(行確)。
 米国亡命の胡小明(フウシャオミン)が日本の国会議員が北京の沈底魚(スリーパー)マクベスだと明らかにする。
 警察庁から凸囲理事官が警視庁公安部に着任。マクベス捜査を指揮。
 外務省には北京内の自発的協力者ホトトギスがいる。そしてヨコタペーパーを北京に漏らしたスパイが日本国内にいるとホトトギスの情報。
 
  第2章 モグラ
 「呉春賢がマクベスを運用している」と公安部外事2課五味のS(協力者・スパイ)「肉まん」(中国大使館員)からの情報。
 タカ派の芥川衆院議員がマクベスと疑われる。芥川の秘書の伊藤真理が呉春賢と会っているため。
 五味がマクベス芥川説に固執。
 警察庁が、国会による警察批判を黙らせる限りで、マクベス芥川説を利用。
 S「肉まん」と連絡が取れなくなった五味が、中国大使館の田純清と接触している公安部外事2課若林を北京のスパイ=モグラだと疑う。
 凸井はマクベス捜査の幕引きの方向。国会による警察批判が沈静化したため。
 
  第3章 亡命者
 中国外交官、劉英康が日本への亡命を希望。農民リーダーの彼の父が党支部のボスに殺されたため。
 モグラと疑われた若林は、中国大使館の田純清と接触する件を、実は凸井理事官に報告していた。
 亡命希望の劉英康が「北京のスパイがあなた方の中にいる」と言う。
 「若林はダブルエージェントだ」と凸井理事官が公安部外事2課不破に言う。
 若林が北京のスパイとなる手みやげに、五味のS「肉まん」を北京に売った。
 「胡小明は偽装工作員だ」と劉英康。「タカ派の芥川議員を失脚させようと、芥川マクベス説を流した」とのこと。

  第4章 シベリウス
 劉英康が亡命の手みやげに、「自分は、伝説のスパイ、シベリウスからの伝言を取り次いでいた」と述べる。
 そして、シベリウスが、自意識過剰な外務省元外交官の一色であると判明。
 文革の頃から中国のホトトギスが、日本の外交官シベリウスと協力。ホトトギスは「文革がいやだった」とウソの理由を一色に言い、一色を騙す。
 「真の日中友好のための共同作業」と一色は思いこむ。
 ホトトギスは一色を利用し、ヨコタペーパーを手に入れる。
 「タカ派の芥川議員を失脚させるため、ホトトギスが芥川マクベス説を流した」と、元外交官の一色。
 突然、亡命希望者の劉英康が拉致される。
 
  第5章 真相
  ①
 娘が死に若林が呆然となる。
 凸井によれば、「若林は、二重スパイで中国の協力者であり、中国が運用」とのこと。若林の娘の臓器移植の世話をすると中国側が約束したので、若林が承諾した。
 凸井はそれを知っており、中国に若林が渡す情報を、凸井はコントロールしていた。(若林は3重スパイ。)
  ②
 芥川は若い頃イギリス留学中に北京の工作員に危険な写真を撮られ、脅され、否応なく沈底魚とされた。
 中国は芥川を沈底魚として使い続けたい。そのため、わざと「芥川マクベス説はウソ、タカ派の芥川議員を失脚させるためのもの」、と日本側に思わせようとした。
  ③
 ところが警察庁の凸井は、芥川が沈底魚だと知っている。中国をだますため、芥川が流す情報は凸井がコントロール。
 芥川を沈底魚として使い続けたい中国のため、芥川マクベス説は凸井も否定したい。(この点では中国と同じ。)
 中国に芥川を沈底魚として使わせ続けたほうが、凸井は中国をコントロールし続けることができる。
  ④
 「アメリカに亡命した胡小明は偽装工作員で、タカ派の芥川議員を失脚させようと、芥川マクベス説を流した」と述べた劉英康は、偽装亡命で北京の工作員。
  ⑤
 なお芥川は、アメリカと日本が共同でコントロール下におき運用。
  ⑥
 若林が渡す情報を、凸井がコントロールしていた(若林は3重スパイ)と中国側に分かる。凸井がその若林を保護すると言うが、保証はない。
  ⑦
 事情を知りすぎた警視庁公安部外事2課不破は、凸井に消される心配がある。そこで台湾マフィアの王爺から別人に仕立ててもらい逃亡。
  ⑧
 警察庁の凸井は、芥川が沈底魚だと知っていた。凸井は中国をだまし、芥川が流す情報は凸井がコントロール。
 他方で、この事情を知らない中国は芥川を沈底魚として使い続けたい。そのため中国は「芥川マクベス説はウソ、タカ派の芥川議員を失脚させるためのもの」と日本に思わせようとした。凸井は中国を騙し続けたいので、芥川マクベス説は凸井も否定。
 中国に芥川を沈底魚として使わせ続け、凸井は情報戦で、中国をコントロールする。
 すべては警察庁エリート凸井理事官が、筋書をつくり仕組んだ。

 《評者の感想》
 (1)警視庁公安部外事2課の実情がよくわかる。行動確認(行確)の手順。公安は手荒。中国の工作員が、日本国内でやりたい放題等々。
 (2)警察庁のエリート凸井が、若林、不破、五味ら現場捜査員を使い捨てにする冷酷さ。
 (3)情報戦における駆け引きのシナリオが相当に緻密。絡み合った数学の問題の解法のよう。
 (4)協力者になる理由は、脅し、金が大きい。
 (5)エリートをコントロールするのは、結局、遠回りでも議会制、法の支配、文民統制、権力の分立、情報の開示、表現の自由など民主的諸制度である。

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『吉本隆明と柄谷行人』合田正人(1957生)、2011年、PHP新書(後半)

2011-07-12 22:08:35 | Weblog
  第4章 システムとは何か
   4-1 吉本の「共同幻想」論批判
   ① 上部構造の語の放棄:吉本
 共同幻想は、上部構造、イデオロギー、あるいは『経済学批判』の「上層建築」、「社会的意識形態」と言い換えられる。
 吉本は下部による上部決定論を連想させる上部構造の語を放棄。共同幻想の語を作り上げる。(柳田の共同幻覚が参考。)
 『共同幻想論』は「子供たちが感受する異空間の世界」についての書とも言える。(吉本)
 廣松の共同主観性と「よく似た」問題意識を持っている。

   ② 柄谷の吉本批判(その1):「対幻想」も「共同幻想」から逃れられない
 田辺元の「種の論理」の類と個の間の中間項としての種。その種にあたるのが吉本の対幻想。
 柄谷は言う。「個人幻想」や「対幻想」を立てても「共同幻想」から逃れられない。すべては「共同体」の「共同幻想」の所産。
 柄谷は、共同体からおしだされた「外部」「他者」、単独者、単独者との非対称的な関係が、共同体に「場所」を持たないものとして必然的に創出されると言う。「場所」なき場所が「交通空間」。

   ③ 柄谷の吉本批判(その2):共同幻想論は他の国家・他者からの視点を欠く
 共同幻想は国家(家族と背反しつつ拡大)を想定する。
 ところが他の国家の問題が消える。例えば、日本人が「平和憲法を持っている」と思っても(※日本人の共同幻想)、外から見れば「アジア随一の軍隊を持った国家」。
 共同幻想は物語とその伝承であり創世・創設神話を含む。吉本は、それについての他者の視点を語らない。

   ④ 柄谷の吉本批判(その3):生産様式を交換様式と捉える(199頁)
 吉本は下部構造に対して相対的に自立した「幻想」を語る。(上部構造の、下部構造による決定論を拒否。)
 ところがここには上部-下部の二元論がある。
 柄谷はこの二元論を壊す。
 下部構造における「生産」を、「交換」の1形式と捉える。
 国家(ステート)、ネーション、経済はそれぞれ「交換」の固有の形式を持つ。
 生産様式を交換様式と捉える(柄谷)。
 ルイ・アルチュセールに依拠しつつ、原始的氏族的生産様式は「互酬」、アジア的生産様式、古典古代的奴隷制、ゲルマン的封建制は「略取-再分配」、資本主義的生産様式は「商品交換」:3つの交換様式。
 3つの交換様式の接合、その接合の仕方と濃淡が、多様な社会構成体をもたらす。
 吉本は、共同体の重層化はもとになる共同体を大きく壊さずに接合されるとする。彼は共同体の古層・基層を追い求めるだけで単線的すぎる。(合田)

   4-2 「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」:吉本
   ① 対幻想と共同幻想の「同致」etc.
 吉本は複雑系の思想家。だから丸山の公私の峻別を批判。
 「錯合」の平面化の阻止のため「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」のレベルを区別。
 個人幻想と共同幻想の「同致」。Ex. 「私は日本人である」
 対幻想と共同幻想の「同致」。国家をエロス的に捉える。対幻想の次元で大切な人のために共同幻想である国家に身を捧げる。(石原慎太郎『国家なる幻影』)
   ①-2 対幻想
 対幻想と共同幻想が競合するとき、前者を選ぶのが女性。(吉本)
 フロイトは対幻想の領域を共同幻想の領域まで拡大しすぎた。
 男女だけでなく、親子、姉妹、兄弟も性的である:対幻想。

   ② 「憑依」または「同調」
 自己幻想が共同幻想に憑く。または自己幻想が共同幻想に侵食される。
 その理由は、①共同幻想が自己幻想に先立つ先験性だから:「生誕」の問題。②「死」も先験性である(ハイデガー)。
 「超越論的なもの」の二つのアスペクト:「生誕」と「死」。
 ただし「死」の共同幻想にはないが、「生誕」の共同幻想にのみ見られるのは、対幻想と村落の共同幻想が相互に移行すること。
 巫女は対幻想と共同幻想との「同調」or「同致」。

   ③ 「死」の先験性
 「その死に向かって存在している」現存在の時間性を、村落共同体の共同幻想が、空間の方向に疎外(※=表出)したものが他界との境目、「危機的な分界地帯」、共同体と共同体の「間」。Ex. 『遠野物語』の「デンデラ野」

   ④ 「生誕」の先験性
 自己幻想に先立つ先験性は「生誕」では「母体」である。 
 「まだ自分自身の中に自己を持つに至っていない胎児の心は子の他人(※母体)のなかに自分の自己を見出す。」(ヘーゲル『精神哲学』)
 対幻想(とりわけ兄妹 Ex. 姉アマテラスと弟スサノオ)と共同幻想の「同致」に起因する母系的、母権制的支配。
 その後、大和朝廷の父権的支配。対幻想と共同幻想の新たな「同致」としての天皇制家族主義。

   ⑤「共同幻想」としての倫理:3つの段階(216頁)
 第1段階:スサノオの段階。母系的な農耕世界を肯定。死んだ母イザナミの国に行きたいといい、父イザナミの怒りをかう。父系的な世界の構造の否定。
 第2段階:サホ姫の段階。兄(同母の血縁)と夫たる天皇との板ばさみ。氏族的共同体から統一的部族制への推移期。
 第3段階:ヤマトタケルの段階。天皇たる父に疎まれ征服の旅に送り出される。統一国家(部族国家)の倫理。

   ⑥罪なき罪障感
 スサノオの罪なき罪障感。前の世代から続いて生存しているというだけでの「良心の疚しさ」、「罪障感」。
 ニーチェはそこに「残虐の体系」を見る。「定言命法からは残虐さが臭う」(『道徳の系譜学』)。
 罪なき罪障感(1):債権者と債務者の関係が時間的遅れとして存在するため。
 罪なき罪障感(2):共同体の成員として自分の意思に関わりなく承認されること(債務)の裏面として生じる(217頁)
 これについてニーチェ(『道徳の系譜学』):《共同体の恩恵(人は守られ大切にされる、平和と信頼のうちに生きる)=債権者たる共同体》に対し、成員は自らを抵当としていれ危害や敵意に備える義務を負う。

   ⑦ 『共同幻想論』:常民が「物語」的に共同幻想と「同致」することへの批判
 常民が「物語」的に共同幻想と「同致」することへの批判が『共同幻想論』の意図。
 「物語」との統合を拒むものとして、「大衆」が作り出す「像」。
   
   4-3 自己言及的体系、自己差異的体系への批判:柄谷
 柄谷は「構造を突き抜けるもの」を探す。
 自己言及的体系、自己差異的体系は動的で、絶え間ないずれが生じる(自己差異化)。排中律が成立しない。多中心的、たえず不均衡、過剰。「差異」の無根拠性、決定不能性、過剰性。「差異」が差異として固定せず無際限に自己をさらに差異化していく。
 ハイデッガーは哲学史を「存在」というひとつの主題で語ってしまう点で形而上学的。
 ハイデガーは、はるかに普遍的なフッサールと比べると、西洋哲学に閉じ込められプロビンシャル。
   
   4-4 外部でも内部でもない場所:「境界」、「間」(柄谷)
   ① 「境界」、「間」
 柄谷は「内部」と「外部」をどう区別するか?
 多種多様な言語ゲームがありその外部に出られないとウィトゲンシュタインが言うとき、彼は外部に立っている。(柄谷)
 外部でも内部でもない場所を柄谷は「境界」、「間」と呼ぶ。
 共同体に内属するという人間の条件は超えられない。(他者に育てられるしかない。)
 「間」、「境界」は、「単独者」、「単独者」としての「他者」の、「場所」ないし「非場所」である。(230頁)
 「境界」はそれ自体、境界を本質的に持たないので「実無限」である。かくて「社会的空間」「交通空間」として「展開」する。
 共同体の「間」から「国家」が生まれる。(柄谷)

   ② 柄谷における「他者」
 「他者」は神もしくはそれに類するものではない。「他者」は異形のもの、「異者=怪物」ではない。「他者」は「ありふれた世俗的な他者」である。
 そもそも「共同体」の「牢獄」からの不可能な脱出を可能にするものとして「他者」が要請されている。
 Cf. 任意の他者が想定されたら「共同体」は閉じた単一体系でない。
 Cf. ウィトゲンシュタインは複数の言語ゲームの関係を「家族的類似性」と呼ぶ。そして「境界線など引かれていない」と言う。

   ③ 「交通空間」から「共同体」(&「間」)が生成する
 内部でも外部でもない「交通空間」から、それが自らを「折りたたむ」ことで「共同体」が生成し、同時に「間」が生成した
 交通空間は現在では、貨幣によって媒介され、たえず再組織される世界的な諸関係の網の目である。
 ニクラス・ルーマンが語るような「システムと環境(あるいはカオス)」といった考えは誤り。

   ④ 二元的コードと、各要素のアイデンティの仮構
 「折りたたみ」とともに「複雑性の縮減」(N・ルーマン)が起こる。善悪、正不正のような二元的コードと、各要素のアイデンティ(同一化的帰属)が仮構される。

   ⑤ 柵のこちら側にも同様の柵がいくつもある。
 「折りたたみ」に際して、交通空間の複雑さは屈折しつつ織り込まれていく。柵の向こうにいけない特別な柵があるとして、柵のこちら側にも同様の柵がいくつもある。「他者」が「いたるところに出現」する限り、境界ないし間はいたるところにある。

   ⑥ 根源的分割ないし「分配」の問題
 「折りたたみ」ないし「分節化」が境界の発生だとしたら、ここに根源的分割ないし分配の問題がある。「最初に分配がある」(ミシェル・セール)。ニーチェが「正義」の原義とみなしていた事態。

   ⑦ 「折りたたみ」は交通空間の自己差異化なのか?

   4-5 柄谷の思想のキーワード
 (1)他者=神であって、空=神ではない。
 (2)差異が初めにある。同一性は始原ではない。
 (3)非対称がまずある。そこから対称が生まれる。
 (4)他者の先行。自己差異化が先行するのでない。
 (5)愛が始原である。暴力が始原ではない。
 (6)言語ゲームの先行。独我論は始まりにならない。
 (7)共同体の「間」が先にある。共同体は後に分節化する。
 (8)一切は歴史的に存在する。非歴史的に存在することはありえない。
 (9)多数体系が事象の本性である。単一体系はありえない。

   第5章 愛も正義もないところで倫理とは何か
   Ⅰ 道徳(倫理)批判:吉本と柄谷
 「倫理とは言わば存在することの中にある核の如きものである。」(吉本)
 「大人」とは共同幻想を自己幻想に先立つ先験性として信じることである。倫理性を、ヘーゲルは「同調」において見出し、吉本は「逆立」(反逆)において見出す。(柄谷)
 吉本の背後に太宰がいる。太宰は「無倫理」。(吉本)
 柄谷の背後に坂口安吾がいる。安吾は「アモラル(非倫理)」、安吾の「堕落」は「倫理的」。(柄谷)

   Ⅱ サルトルたちの先生:アラン
 吉本が注目したシモーヌ・ヴェイユはアランの弟子。小林秀雄へのアランの圧倒的影響。
 アラン1:「説教を垂れてはならない。そんな時間があれば汚れたものの体を洗い、・・・・」
 アラン2:「正義の掟は愛がなければすべて虚しい。」しかし「愛は抱きしめる、愛はまた絞め殺す。・・・・最もよく己を犠牲にする英雄たちは、最もよく殺す者でもある。」
 アラン3:「隣人をお前自身と同じように愛せ」と言うが「お前自身」(自我)とは誰か?「人間たちは必ず関係しあっている。」他から切り離された「自我」なるものは存在しない。

   Ⅲ サルトル:自他関係の問題
    ① 自他関係
 サルトルの出発点は自我の問題。
 意識の非人称性を語っても自他関係の問題は解決されない。
 対他関係の根幹は「相剋」(コンフリクト)。ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」(※主人は奴隷に依存、奴隷がそれを知り主従の力関係逆転。)
    ② 贈与
 サルトルはマルセル・モース『贈与論』に注目。返礼なき贈与は受贈者を永遠の債務者にする。Ex. 封建的主従関係。
    ③ 暴力
 「暴力」とは見られることなく見ることである。Ex. カントの定言命法(無条件な命令)の「暴力」。
    ④ 選びたまえ
 「君は自由だ。選びたまえ。つまりでっち上げたまえ。いかなる一般道徳も何をなすべきかを指示できない。」(サルトル)
    ⑤ 分配
 「分配的正義」批判:「分配」においてそれにありつけない者が不可避的に出る。「分配の犠牲者」。
    ⑥ 交換
 「交換的正義」批判:力が同じ者たちが、談合によって交換価値を定めた帰結。
    ⑦「友愛」、「相互性」、人類という「共通の母親」:サルトル
 サルトルが「贈与」を再考。
 いっそう根本的な人間相互の絆、「友愛」。
 初期の研究では「相互性」、他者を欠いた意識の中に倫理を求めた。しかし今は違う。すべての意識は、おのれを意識として構成すると同時に、他者に対する意識としておのれを構成すると思う、とサルトル。
 自己を他者に対するものとして考える、これが倫理的意識。
 あいつは私と同じ起源。人類という「共通の母親」。真の友愛。
   
   Ⅳ 「道徳」と「倫理」、善と悪
    ①「道徳」と「倫理」、善と悪
 吉本:善悪は存在しない。→《評者の感想》そんなことはあり得ない。
 柄谷:「道徳」とは善悪を決める共同体的規範。「倫理」は「自由」にかかわる。
 サドは、人間は自然の意志に従うだけであり善も悪もなしえないと言う。
    ②吉本『マチウ書試論』
 吉本は『マチウ書試論』で、後期ユダヤ教の社会的律法支配(「神よりもトーラーを愛す」、人間と現実との関係を優先する「世俗性」)に対するキリスト教の反逆=内面的律法支配を描いた。
    ③親鸞:「機縁」は命法で動かない
 親鸞の立場は「非僧」「非俗」である。
 心の底からの信心には貴賤、老少、男女、善行悪行、多念一念は関係がない。悪人正機の説。
 「念仏」「信心」の解体。絶対他力。
 絶対他力も解体する。
 「殺すな」という命法は「機縁」(=必然)を動かすことができない。殺すべき機縁がなければ一人でも殺さない。殺害すまいと思っても機縁で百人・千人を殺す。
    
   Ⅴ 新しい贈与制(吉本)
 贈与と返礼の互酬性は愛と呼べる。(柄谷)
 マリノフスキーを引用し、吉本が言う。母の側からの贈与が父の側の返礼より多いとき、こうした贈与は「貢納制」に転化すると。
 現代における贈与の必要性。Ex. 先進国からアフリカへの贈与。
 交換可能であれば経済が成り立つという観念は誤り。新しい贈与制が必要。贈与者が善で損をすると受贈者が助かるという図式の変更が必要。(吉本)
 社会の構成のおもな過程が世界性としての経済過程である時代、ちちこまとした国家主義や民族主義を超えて国家を開くべきと吉本。

   Ⅵ 蘇生した「互酬制」:「アソシエーション」(柄谷)
    ① 「贈与の互酬性」が回復されねばならない(柄谷)
 援助は「分配的正義」の実現だが再分配する先進国の権力を正当化するだけで、南北の戦争状態を解決しない。(柄谷)
 「贈与の互酬性」が回復されねばならない。(※つまり返礼できること?)

    ② 「市民社会(=資本=市場社会)、ネーション、ステート(国家)」:柄谷
 帝国から「ナショナル」なものが分節されると同時に「トランスナショナル」なものが成立する。(柄谷)
 「ナショナル」なものはネーション(国民、Ex. 農業共同体)とステート(国家、Ex. 封建国家)からなる。
 ブルジョア革命によって「市民社会(=資本=市場社会)、ネーション、ステート(国家)」の三位一体が成立。(これに「自由、友愛、平等」のスローガンが対応。)
 ブルジョア革命において成立した「ネーション」。
   ②-2 ボロメオの環
 「市民社会(=資本=市場社会)、ネーション、ステート(国家)」は三位一体とはいえ、いずれの2項をとっても異質なボロメオの環をなす。
 この三位一体を、柄谷は現実界・想像界・象徴界(ラカン)のボロメオの環、感性・想像力・知性(カント)のボロメオの環と対応させる。
 (1)ネーションは「想像の共同体」(「幻想の共同体」)であり想像界、想像力とつながる。
 (2)国家(ステート)は創設宣言としての憲法(言明)が本義であり、象徴界、知性(悟性)とつながる。
 (3)資本(=市民社会=市場社会)が現実界、感性とつながる。

    ③ 世界共和国は「統制的理念」(=超越論的仮象)である:柄谷
 世界共和国は、直接的・暴力的に社会を変えようとする「構成的理念」でなく、決して実現されないがゆえに批判的に機能する「統制的理念」(=超越論的仮象)である。
 資本、国家、ネーションはいずれも超越論的仮象である。
 統制的理念=超越論的仮象は、現実界ひいては物自体と区別がつかない。

    ④「互酬制」:柄谷の理論の鍵
 「互酬」の本義は、共同体内また共同体間に、タテの階層化でなくヨコの関係を築くこと。それゆえ「国家」の形成を阻止すること。
 柄谷の理論の鍵を握るのは「互酬制」である。

    ⑤ 国家による「再分配」(=「略取(収奪)-再分配」)の否定:柄谷
 国家においては略取が再分配(Ex. 灌漑、社会福祉、治安)に先行する。
 柄谷は、国家による「配分(分配)的正義」の実現(Ex. サン・シモン)は「国家社会主義」として否定。
 国家間の「正義」を、「分配的正義」で実現することは、結局、列強による再分配で「世界帝国」に至ると柄谷。
 カントの「正義」は「交換的正義」である。(柄谷)

    ⑥ プルードン:「交換の正義」への移行
 プルードンは「交換の正義」(=「流通の正義」)への移行を主張。「分配的正義」を封建制的なもの、緊急時の配給ごときものとみなす。
 流通過程を重視するプルードン。剰余価値は生産でなく、売買から生まれる。

    ⑦ 「分配」とは「運命」である(合田)
 「分配」とは「運命」である。Ex.「場所」、「生存」そのものも「分配」された。Ex. 吉本の「存在倫理」。

    ⑧ 高次元で蘇生した「互酬制」:「アソシエーション」(柄谷)
 「互酬制」、「略取-再分配」、「商品交換」に続く新たな交換様式として、柄谷は《蘇生した「互酬制」=「アソシエーション」》を主張。
 商品交換は「自由な個人」を可能にしたが、そこには諸個人の不平等と分離がある。それを「互酬制」の良き面がただす。
 高次元で蘇生した「互酬制」が諸個人の「アソシエーション」を可能にする。
 協同組合組織諸団体による全国的生産の調整、つまり可能なるコミュニズムをマルクスが『フランスの内乱』で主張。柄谷のアソシエーションの観念のもととなる。
 「アソシエーションとは、あくまでも個々人の主体性にもとづく。」(柄谷)
 カントはコスモポリタン(世界市民)こそ「公的」と考え、国家を「私的」と考えた。コスモポリタンは実体的ではなく、国家や文化を「括弧に入れる」ことが出来る能力である。

   あとがき
 合田氏の考察を導いた3つの言葉。
 (1)「おれはここにいない。そして路地はいたるところにある。」(中上健次)
 (2)「故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、既にかなりの力を蓄えたものである。全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。」(柄谷行人)
 (3)「言語」は「故郷を持たない放浪者」である。(吉本隆明)


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『吉本隆明と柄谷行人』合田正人(1957生)、2011年、PHP新書(前半)

2011-07-12 21:49:24 | Weblog
 序
 原理的に考え抜くことがもつリアリティ。Ex. 吉本隆明『共同幻想論』
  
 序-1 4つの原理的問題:個体・意味・システム・倫理
 ①個体(⇔共同性):2章、自然はまず「個人」を作りその後「民族」ができる。(スピノザ)
 ②意味(⇔無意味):3章、「意味」とは「習慣の変化」である。(パース)
 ③システムor関係性or集合(⇔機械or構造):4章、「あるものが他のものと関係したいという衝動」がシステム。(F.ローゼンツヴァイク)
 ④倫理:終章、「倫理」の基礎は「自己保存の努力」(スピノザ)。吉本の「存在倫理」は「いる」こと自体の倫理性を主張。
  
 序-2 鶴見俊輔:第3の思想家
 吉本、柄谷に対し第3の思想家、鶴見俊輔:『アメリカ哲学』。パース的意味論。
 異邦性に関し、鶴見は留学でなく亡命に眼をむけ、アメリカでなくメキシコに向かう。異邦人を含む死者の「たま(魂)風」
 近親相姦のタブーを超えるアナーキズムとしての「助け合い」。『火垂るの墓』の兄妹、『エロ事師たち』の白痴の娘との性交を見せ生活する父親。
 Cf. 黒川創が国境を「混じり合って暮らす場所」と定義。
 吉本の共同幻想論、柄谷の交通空間論。これらに対し合田が多島海システム論を提起。

  第1章 思考の地殻変動
 1 集合は全体への総合である;構想力は総合であり像を結ばせる;個体は関係においてのみ定義される
 1-1 集合は全体への総合である
 吉本は数学者遠山啓(ヒラク)に啓発された。
 カントールの集合論:集合とは、(感性の)直感または(知性の)思惟の、全体への総合である。
 高度に抽象的なものの基礎は具体性。
 1-2 構想力は総合であり像を結ばせる
 像Bildを産出・再生する能力としての構想力Einbildungskraft(カント)。その2分肢としての感性と知性。
 吉本は「心像」の語を多用する。
 1-3 個体は関係においてのみ定義される
 個体は他のものとの「関係」においてのみ定義される。他のものの「集合」(Ex. 出身校、性別、血液型etc. )に属するものとして個体(固有名詞たる個人)がある。
 1-4 関係と個体
 数学は対象と対象の関係のみ扱う(吉本)。数学は関係のみ扱う。(柄谷)。
 関係と個体の問題。
 関係:必然性、因果性の崩壊。
 1-5 ロゴスとは集めること
 ハイデガー:ロゴスとは集めることである。
 集合も構想力も、その機能は総合であり、一つの対象をその多様なものから生成させること。構想力とは像を結ばせることである。

2 ウェットな構造(p. 48)
 2-1 構造は建築にたとえられる;構造と発生
 遠山は、数学は「構造」の研究が主だと言う。
 構造は建築にたとえられる。材料の羅列が「集合」。材料が建物になれば関係にもとづく「構造」がある。創造力・構想力の作用が構造化。
 構造には3種類ある。①位相的構造(遠い・近いの関係)、②代数的構造(任意の二つのものAとBを足すと第3のものが出てくるような関係)、③順序的構造(大・小の関係)。
 遠山は構造とともに発生を重視する。
 
 2-2 構造から構造へ:ピアジェ、ウィーナーの「動的体系」、遠山の「ウェットな数学」、「脱構(disconstruction)」
   ①遠山:「ウェットな数学」
 遠山は「構造なき発生主義」(ジャン=バティスト・ラマルク)と「発生なき構造主義」(ゲシュタルト理論)を共に否定する。
 遠山は「すべての発生はある構造から発してある構造に達する」(発達心理学者ジャン・ピアジェ)に依拠する。
 遠山はまたサイバネティックスの提唱者ロバート・ウィーナーの「動的体系」の理論に依拠。(核酸の役割により)経験によって内部の構造が変わっていく網の目構造としての神経系は動的体系。
 すでに出来上がった網の目構造を扱う「ドライな」神経生理学と、構造変化を扱う「ウェットな」神経生理学の区別。
 遠山は「ウェットな数学」を構想する。
 構造を無視して1対1対応をつけると無限集合では全体が部分と同一との矛盾が生じる。例:「直線」上の点の無限集合と「平面」上点の無限集合。
 集合は「閉じた袋」でなく「底なしの深淵」のようなもの:数学者カントール。

   ②脱構築
 構造化・建築そのものが脱構造化・解体である:脱構築(disconstruction) 。
 Cf. 数学のブルバキ・グループの構造主義:すべてを一度、集合に還元しその要素の関係を「構造」と見る。

 2-3 「制作」された構造よりも、素材(「自然」)の構造のほうが複雑である
   ①方法の問題
 表現(言語、図、数式)、知覚、存在そのもの(?)に「方法論的制約」は不可欠であり「無方法」はありえない。(吉本)
 「情熱」と「方法」の問題!
 粒子と波動が量子力学において共存するように、相反性を共存させる方法を吉本は求めた。
   ②素材(「自然」)の複雑で過剰な構造
 人間によって「制作」された構造よりも素材(「自然」)の構造のほうが複雑である:ポール・ヴァレリー、柄谷。
 人間が制作したテクストは人間の意図・意味をこえて複雑で過剰な構造を持つ。テクストの素材が「自然言語」だから。
 (もちろんテクスト自体は古い構造を壊し新しい構造を構築する脱構築である。)
 人間は生物体としても精神体としても、くもの巣のように絡み合った構造を持つ総合である。それは性的とか心的存在とかにテクスト的に還元できない。
 この構造は「錯合」と呼ぶべきであり異質なものが無関係でも完全な依存でもなく曖昧に関係する。吉本は、言語について指示表出と自己表出との不思議な「縫目」・「編目」と呼ぶ。

 2-4 原像は「像」化されると「幻想」となる
 主観(心的なもの、感情)が不可避的に補正し無化する以前の曖昧さと複雑さが「原像」。ただし原像はアウラ(光暈)のごときものとしてしかない。
 原像は「像」化されると「幻想」となる。「現実」とは「『幻想』を媒介として認識された事実」か「行為によって生まれた『幻想』」である。(吉本)
 ※吉本の「幻想」とは認識、知覚とほぼ同義。(評者)
 
 2-5 意識の交通形態は常に過剰に広がる
 意識の交通形態は常に過剰に広がる。Aとコミュニケーションしようとすると、必然的に他の者との関係を包み込む。これが自然的還元とよばれ、ある型の中に繰り込めない危機的臨界にやがて達する。かくて小集団や小社会が崩壊する。

  第2章 個体とは何か
 個体(個、個人)はある時代、環境の中にあるという任意性、偶然性、初原性を持つ。この初原性は意味づけできない。
 この初原性に意味を与えるために「類」としての人間概念が生み出される。「類」は生まれも死にもせず継続する。「個」は生まれ死ぬ。
 「個」と「類」の接点としての「存在」が意味づけられねばならない。
 鴎外は「自我主体」を認めない。自我は社会関係そのものである。それにもかかわらず「私」がある。(柄谷)
 
 2-1 個人と社会
 個人は孤立していたかったのに、社会の共同性を不可避的に作り出す。社会は桎梏、虚像、矛盾である。(吉本)
 個人は多様な関係の結節=錯合である。
 
 2-2 原生的疎外は3重の幻想の領野である:自己幻想・対幻想・共同幻想
  ① 生命=原生的疎外
 生命は「膜」(分子膜)によって成立する。相対的に閉じた空間としての生命。(合田)
 生命は無機的自然への異和であり原生的疎外である。無機的自然への回帰は死である。タナトス(死への衝動)。
  ② 自己幻想・対幻想・共同幻想
 心性は身体との異和(疎外)である。 
 心性が「自我」であり自己幻想である。原生的疎外は混沌であり「エス」の位相である。「超自我」は吉本の共同幻想に対応。生命はエロスの衝動(タナトスに対抗する)に支えられる。ここには対幻想がある。
 原生的疎外は3重の幻想の領野である:自己幻想・対幻想・共同幻想。
 吉本において疎外(原生的疎外)と幻想は同義語。(合田)

 2-3 母親(初めての他者)、父親=「大他者」
 Cf. ジャック・ラカンのモットー:「フロイトへ帰れ」
 鏡に映った自己像は母親(初めての他者)の代理。
 同様に鏡像段階の乳児の受動性に対しあらゆる能動的存在(実際の母親・父親・近親・哺育者)は母親の暗喩である。
 父親は「大他者」:家族の中で許されることも、社会では許されないことを父親=「大他者」が示すことがある。
 Cf. 無意識は他者の言説である。(ラカン)
 
 2-3-2 「表出としての言語」と「規範としての言語」:「原生的疎外」
 原生的疎外(=生命)はそれ自身、表出である。疎外されている(=無機的自然への異和)というずれ=関係は、自己と一致し得ない自己疎外(※一種の二重性)=自己外化=表出=「表出としての言語」である。
 父・母・兄弟などがしゃべる言語を幼児は規範として受け取る:すでに予め存在する「規範としての言語」。
 
 2-4 子供たちが感受する異空間の世界
 「ある」とは非人称的な存在の現象。静寂がもつ「ざわめき」のようなもの。(エマニュエル・レヴィナス)
 「ある」とは不在の者たちを含む「他者性の全重量」。(レヴィナス)
 子供たちが感受する異空間の世界(Ex. 深夜目覚めたときの木枯らしの音の恐怖、遠くの街で迷い込んだ心細さ、手の平に感じた運命の予感の暗さ)についての大人の論理の書:『共同幻想論』。(吉本)

 2-5 「純粋疎外」=「心」
 原生的疎外はすべての生命体が持つ領域。それは異和であり、ずれ=隔たりであり、関係である。原生的疎外が飲食、生殖という機能(※関係するという機能)を可能にする。
 人間は原生的疎外という「関係」を対自化する=関係の意識が生まれる。「関係への関係」=「関係の関係」=「関係の冪乗」。
 関係への関係(対自化)の動きが果てしなく続く。果てのない内在化。果てのない対象からの遠ざかり。果てがない=終着点がない。かくて逆に出発点が仮構される。志向的意識の出発点としての「心」が仮構される。「純粋疎外」=「心」
 「純粋疎外」=「心」=「それ自体として存在するかのような領域」=「関係ならざるもの」=「関係意識を欠いたもの」。
 原生的疎外-純粋疎外=関係意識。(吉本)※すなわち原生的疎外=純粋疎外+関係意識。(評者)
 人間の個体にとって《そこに存在すること》(現存在)は関係の空間性も了解の時間性もない=時空的関係性の不在=純粋疎外(今・ここ)。
 ここから始まり自己との関係(心的な領域のじぶんの身体に対する心的関係と了解)へ、さらに自分と他の事象(他者)との間の関係と了解。以上吉本。
 ただしこの吉本の議論は関係性を重視するため、何かと何かの関係において前提されるこの「何か」の考察が欠ける。「個体化」の考察の欠落。

 2-6 原生的疎外は心的領域である
  ① 知覚・「客体」
「原生的疎外」という関係性を吉本はまず「知覚」として捉える。
 純粋疎外を閉じたものとして内向化(対象に対し)・遠隔化(対象から)すると、その反作用で知覚対象が内面と切れた没交渉の「客体」となる。対象の「理性」的な認識、判断。
  ② 原生的疎外は心的領域である:空間化度・時間化度
 原生的疎外は心的領域である。そこでは感性、悟性、理性の区別はあいまいである。
 原生的疎外は空間と時間という2方向の疎外である。
 原生的疎外の領域は環界からの空間化度と身体からの時間化度の2座標からのみ位階づけられる。
 空間化度・時間化度について、ともに低い:味覚・嗅覚。ともに高い:視覚・聴覚。
 又、ともに低い:衝動・本能。ともに高い:悟性・理性。
 情緒・心情は時間化度がより抽象され、有機的自然の時間性と対応させることができない。悟性・理性では時間化度の抽象性がさらに高い。
  ③ 異常、感覚の異化的結合、共感覚
 理性と《反理性=狂気》の2分法は無意味。常に「異常」の可能性が心的領域にある。
 ある感覚と他の感覚との異化的結合の可能性。Ex. ジュージューの音から味を予想。
 「共感覚」。Ex. 「色」として音楽を語る。

 2-7 関係性を有さない個体(吉本)と、関係性に引き裂かれる個体(柄谷)
 吉本は「体系」への吸収に抗う存在として「純粋疎外」を定立する。これは関係性を有さず自存的である。
 柄谷は個体でなくシステムが語るとするフーコーの構造主義言語学は個人の「倫理」の欠如だと言う。
 吉本が個体の「個体性」に注目するのに対し、柄谷は輪郭を失い、数多の関係性に引き裂かれ、壊れやすい「個体」に注目する。柄谷にとってなぜ「私」がありなぜ「私が私である」のかが思考の中核をなす。

 《評者による考察:存在にとって時間は不可欠である。存在は時間によって生み出され続ける限りでのみ可能である。存在は広がりを持ち、その広がりある存在を生み出し続けるのが時間である。》
 
 《評者による考察:意識は、内感としての時間を前提し、時間におけるズレの同定=了解作用が発生し、その同定=了解作用そのものが気づきである。》

 《評者による中間考察:
 他我がこの意識を一個の人間として扱うから、私は人間=自我=意識になるのだ。「○ちゃん、ほらアーンして!」と言われた「○ちゃん」こそ私である。
 他方、熱い、痛いの「ここ」、食べる「ここ」、体という「ここ」。さらに能動的に動かせるこの体としての「ここ」。意欲がすみかにしている「ここ」。
 他我が相手をしてくれる「○ちゃん」がこの「ここ」と同一化する。
 他我は私を超えている。一つの空間的まとまり(=他我)がこの「ここ」に働きかける。私は触れられ私の境界が確認される。境界面が共有されている。その境界面のこちら側の「ここ」が、閉じられた「ここ」=自我=私となる。その境界面の向こう側が「そこ」=他我となる。
 二人が触れ合う安心感が、共感される。私はあやされる。ミルクを与えられる。「空腹感=欠如」が満たされる。
 二人は触れ合い同じ時を生きる。共有された境界面としての「ここ」。二人が触れ合うかぎり二人の一つの「ここ」。 「今」は二人の「ここ」における「今」。
 共感がまずある。それが「向こう」と「ここ」に分化する。
 二人が触れ合うかぎり二人の一つの「ここ」・「今」は私の意識と他我の意識が一つである。それが共感である。繰り返そう。共感がまずあるのだ。自我がまずあるのではない。共感が「向こう」=他我と「ここ」=自我とに分化する。》

 2-8 個体は諸関係、諸性質の束である:合田
 固有名は、一連の述語的記述の束に還元できる。(.バートランド・ラッセル)Ex. ~は男である。~は日本人である。~は○○高校卒業である。
 固有名詞は、ある文化体系の中でもはや分類が求められぬ最終レベルである。柄谷は「固有名」という志向的態度が「個体」を「個体」にすると言う。
 合田は「個体は諸関係、諸性質の束である」との立場を取る。
 この立場を取ると、「個人の個体性は消えてしまう」という柄谷=クリプキの立場は、合田は取らない

  第3章 意味とは何か
   3-1 パースの意味論:意味は習慣である
 プラグマティズムの創始者パースの意味論。
 意味とは便宜的にこう定めておこうという「提案」である。
 「赤信号」の意味、「停止せよ」は、時空的に限定された暫定的な「習慣」である。
 新たな習慣は常に習慣の変化である。だから「意味は習慣の変化」である。
   
   3-2 自己表出される「価値」、指示表出される「意味」:織物としての言語(吉本)
    ① 言語を自己表出ととらえる:時枝誠記
 時枝誠記(モトキ)によれば意味とは、素材に対する言語主体の把握の仕方である。それによって聴者に素材を喚起させようとする。
 これは言語を自己表出ととらえたものである。
 Cf. 時枝は指示表出=「詞」=「物事をさしあらわしたもの」(Ex. 名詞)と、自己表出=「辞」=「心の声」(Ex. 感動詞、助詞)を区別する。
    ② 指示表出としての言語:「意味」
 吉本は、織物としての言語の、ヨコ糸が指示表出、タテ糸が自己表出と述べる。あるいは言語の対他性としての指示表出、対自性としての自己表出と言う。(これはカントの「外官」(空間)と「内官」(時間)に対応する。)
 指示表出としての言語は、個人の自己表出の全歴史をうちに込めるだけでなく、原生動物以来の世界の自己表出の全歴史、全関係をうちに込めている。
 指示表出としての言語は、その時代の社会、生産体系、人間の様々な関係、そこから生み出される幻想によって規定される。(143頁)
 「意味」は「言いたいこと」だけではない。「意味」は「歴史」と「世界」を随伴し常に「言いたいこと」から逸脱する。「言語の厚み」(サルトル)。

   3-3 ソシュールは意味と価値を峻別した、そしてソシュールのプログラムに、自己表出としての言語(=価値としての言語)はない:吉本
 吉本は「自己表出の構造」という言い方をする。言語活動における一方で主体の強調(=自己表出)、他方で主体にどうすることもできないものの作用(=構造)。
 ソシュールは意味と価値を峻別したと吉本。しかし吉本は意味(指示表出)と価値(自己表出)は相補的だと述べる。
 ソシュールのプログラムには自己表出としての言語はないと吉本。
 Cf. ソシュールは語順の構造を示す「シングタム」(連辞)と主語なら主語の場所に入れるべきものは何かを示した「パラディグム」(範例)を区別する。

   3-4 ソシュールの新しさは言語を価値としてのみ見たことにある:柄谷
    ① ラングは語る主体の中にしか存在しない
 柄谷は、「ラングは実在体でなく、語る主体の中にしか存在しない」がソシュールの根本的主張だと述べる。
 ソシュールの言語学は「意識あるいは主観性」を捨象しているように見える。しかしそう見えるだけで、実はそれは「現象学的内省」から始まると柄谷。
 ソシュールは時枝の説と相容れないのでなく、時枝の説を徹底した。
 ソシュールの新しさは言語を価値として見たことにある。(柄谷)
 意味を価値(=自己表出)として考えると、意味は語と語の間から現れると言うしかない。つまり言語は「示差的な関係の体系」である。
 《評者による考察:言語においてあるのは自己表出だけ。どこにも指示表出はない。すべてあるのは意図=価値のみである。柄谷が正しい。吉本は折衷的または考察が不徹底。》
    ②「意味されるもの」は相対的価値形態、「意味するもの」が等価形態。
 ソシュールをマルクス的に説明しよう。「意味されるもの」(シニフィエ)は相対的価値形態としてあり、「意味するもの」(シニフィアン)が等価形態。「記号」(シーニュ)はこれらの結合としての価値形態にあたる。(柄谷)
 「亜麻布20エレ=上着1着」とは亜麻布の価値が上着の使用価値で表示されること。亜麻布は相対的価値形態にあり、他のもので価値が表現される。上着は等価形態にある。

  3-5 吉本の言語論の核心は「像」と「喩」(タトエ)の考察である
   ① 「像」:「意味」と「価値」の間に成立する
 構想力:《像=図式(シェーマ)》を産出・再生する能力。カントによれば構想力(=想像力)が形象の重ね合わせにより「共通のもの」「平均的なもの」を作り出す。
 Cf. 図式(シェーマ)は「文字」と「形象」の組み合わせである。文字と形象の識別不能な地帯に《像=図式(シェーマ)》が成立する。
 言語の「意味」(=指示表出)と「価値」(=自己表出)の「間」に、構想力によって「像」が構成される。(吉本)  
   ② 「喩」:「意味」と「像」の間に成立する
 「意味」(=指示表出)と「像」の間に「喩」が成立する。(吉本)
  「意味的な喩」:Ex. 君の心の中には先月の部屋代が溜まっていた。
  「像的な喩」:Ex. 夜明けの屋根は山高帽子
   ②-2 喩:言語が自己表出(=価値)の範囲をどこまでもおしあげようとするところに現れる
 「喩」こそ、「価値としての言語」の表現の全幅。
 「喩」は「自己表出=価値」ないし「幻想」の際限なき励起・上向。(吉本)
   ③ 言語は「放浪者」である
 言語は「無根拠」であり「放浪者」・「漂泊者」に過ぎない。現実世界にも私たちの間にも故郷を持たない(吉本)。言語の「恣意性」(ソシュール)。
 一つの言語と別の言語を結び付ける唯一の本体が人間である。人間がその間に存在しさえすればどんな言語も自由に連合させることができる。
 「喩は言語の表現にとって・・・・いちばん高度な選択で、言語がその自己表出のはんいをどこまでもおしあげようとするところにあらわれる。・・・・たえず〈社会〉とたたかいながら死んだり、変化したり、しなければならない指示表出と交錯するところに価値があらわれ、ここに喩と価値とのふしぎな・・・・位相と関係があらわれる。」(吉本『言語にとって美とはなにかⅠ』150頁)
   
  3-6 「喩」:自己表出の果てに、指示性のない言葉に指示性を与えること
   ① 「喩」が詩の精髄である
 「喩」は意味の放浪性に由来し、また人間の幾重もの疎外(=表出)に由来する。パスカルの言うように「慈愛に至らぬものはすべてフィギュール(喩・表徴)でしかない」。
 人間は「超越的なもの」(=神or他我)にかかわる「超越論的」存在であるが故に「喩」にかかわる。
 「喩」とは、自己表出の果てに、指示性(指示的空間性)のない言葉に、指示性を与えること。あるいは「喩」とは指示性のない言葉に高度の指示的な役割を与えること。
 「喩」が詩の精髄である。
   
   ② 感動詞(自己表出)は最初の指示表出:指示表出の本質は自己表出
 主体の姿勢から韻律(リズム)が生まれる(時枝)。Ex. 感動詞のうわあを「ウ」「ワア」と分節するか「ウワア」と発音するか。
 感動詞は「もっぱら主観(※=価値)に帰属」し「指示表出(※=意味)」に関わらない:ヘーゲル『美学』。
 だが感動詞は最初の「指示表出」である。感動詞は「指示表出以前の指示表出」(吉本)。感動詞は、指示表出が自己表出から分化する以前の、指示表出の本質である
 《評者の考察》指示表出の本質は自己表出である。
   
   ③ ソシュール:「意味」の破壊者、つまり言語を「価値」としてとらえる(柄谷)
 社会との矛盾としてしか存在しえない個人にとっては「母語」も「外国語」である:言語の連合の問題。
 柄谷はソシュールを「意味」の破壊者と見る。(161頁)
 吉本は「像を結ぶ」という言葉を好み、柄谷は「世界はただたんにそこに《在る》だけ」と言う。柄谷は吉本が「意味」の解体から「意味」の再構築に向かったと見る。
 柄谷は、ソシュールが言語を「価値」としてとらえると言う。
 吉本は意味と価値を区別し、ソシュールが価値を「意味の含み」としか見ていないと言う。

  3-7 記号論(ソシュール)と価値形態論(マルクス):「構造」と「中心」 
   ① 「中心のない関係の体系」:構造主義者
 語の価値の決定のためには(1)「似ていないもの」と「交換」できねばならない。つまり意義を持つこと。(2)「似ているもの」と「比較」出来ること。(ソシュール)
 価値形態論では亜麻布20エレの価値は、上着1着、茶10ポンド、コーヒー40ポンド、小麦1クォーター、金2オンスとして表現される。このシニフィアンの系列は「終わりがないから未完成」で「中心のない関係の体系」(柄谷)である。
 「一般的な価値形態」・「貨幣形態」への移行のような中心化が必ず生じる。(柄谷)
 構造主義者のように「中心のない関係の体系」を見いだして満足するわけにはいかない。(柄谷)
   
   ② 中心としての「超越論的シニフィエ」は幻想
 中心(一般的な価値形態)が生じるのはなぜか?
 Cf. ソシュールをマルクス的に説明しよう。「意味されるもの」(シニフィエ)は相対的価値形態としてあり、「意味するもの」(シニフィアン)が等価形態。(3-4参照)
 辞書にはある語彙(シニフィエ)が意味するところ(シニフィアン)が記述されているが、その記述の中に不明な語彙が混じっていると、新たなシニフィアンが記述されねばならず、かくてシニフィアンの無限の堂々めぐりの連鎖が続く。
 この連鎖を断ち切るには意味が内在するシニフィエを想定しなければならない:「超越論的シニフィエ」。
 それは、しかし幻想である。
   
   ③ 数限りないシニフィアンの差異化の(目的を持たない)「戯れ」という幻想
 この「超越論的シニフィエ」を幻想とするなら、今度は数限りないシニフィアンの差異化の(目的を持たない)「戯れ」があるだけとなる。
 だが諸要素の戯れが不可能となる地点がある。
 「中心なき構造」は撞着語法。内容や要素や項の交代が不可能になる地点がある。
 構造の内部にあって、構造を統率しながらもそれ自身は構造性か逃れているもの、中心がある。(デリダ)
 「構造」を可能にしつつ「構造」を突き抜けようとしたソシュールの「苦痛」「矛盾」。

  3-8 ラングは実在体ではなく、ただ語る主体の中にしかない:ソシュール
   ① 「構造を可能にする中心」=「ゼロ記号」(デリダ)
 「中心」へ向かう、「構造」を突き抜ける、とはどういうことか。
 デリダの「構造を可能にする中心」=「ゼロ記号」。丸天井の要石のようなもの。
 閉じた構造から「オープンシステム」へと進んでも、後者はシステムとその外部をさらに外から見るメタレベルを想定していて、やはり閉じた構造である。
   
   ② 「中心」は主体の意識、「内面」
 時枝はソシュールを批判し、ラング(langue、言語体)は主体の外に外在しているわけではないと言う。
 柄谷は、ラングは実在体ではなく、ただ語る主体の中にしかないとソシュールが述べたと言う。先述の「中心」は主体の意識、「内面」である。

   ③ 「意味するもの(シニフィアン)」の「過剰」:ニーチェの「贈り与える徳」
 「ソシュールは現象学的―構造論的な還元(「形式化」・「内省」)によって見いだされた構造に満足しなかった」と柄谷は言う。
 還元によって還元不能な「差異」・「戯れ」が見いだされる。意識に内包不能なものに気づく。
 柄谷は言う。しかし「ソシュールはこの『体系』そのものが何によるかを考えようとしなかった」。「語りえないもの」について「沈黙」した。
 「意味するもの(シニフィアン)」の「過剰」。あるいは「自分」という奇怪なもの(モンテーニュ)、「本源的な欲動のアナーキーの過剰」(ラカン)、「生命エネルギーの過剰」(バタイユ)。
 こうした「過剰」は「贈与」の所産。バタイユの太陽エネルギー。ハイデガーの「それが与える エス・ギープト 」。ニーチェの「贈り与える徳」。

  3-9 ニーチェ:一つの身体、一つの主観(主体)の多数性・多様性
 ニーチェは言う。「主観(主体)を多数とみなす私の仮説」(『権力への意志』)。
 一つの身体、一つの主観(主体)の多数性・多様性。
 「権力への意志」「力への意志」は意味のメタファー。「力への意志は解釈する」(ニーチェ)。
 「力への意志-解釈」は「複雑系」である。(貫成人(ヌキシゲト))
 「形式は流動的であり、意味はさらに流動的・・・・。有機体の全体が発展するたびに個々の器官の『意味』は変動する。」(ニーチェ)
 分節化された音素と語彙からなる「構造」としての「言語」は不動の土地ではない。複雑かつ微妙に動き続けている。
 「意味」とは、「世界」、「無意識」あるいは人間には測り知れない関係性である。
 「構想力」を語るカントは「個」の根が暗闇の中をどこへどこまで伸びているのかわからないと言う。このような地下茎が「意味」。
「構想力」によって描かれる「図式」(ルール、規範)-「文字」にして「形象」-は、はっきり判読できない。
 
  3-10 書き言葉(文字)
   ① 書き言葉の出現(吉本):本当か?
 文字の出現によって、意識の「表出」と「表現」が分離する。言語「表現」は意識に還元できない要素を持つ。(吉本)
 言語の表出は自己の内部での対話である。しかし書き言葉は書き手を裏切って自己疎外をうむ。(プラトン)「文字は殺し、霊は生かす」(『コリント人への第2の手紙』)。
 もちろん「文字」なるものの範囲は広く、洞窟の壁画の絵も文字である。
 話された言葉と書き言葉の区別は可能。
  
   ② 無文字社会はウソ:人類は最初から話された言葉と書き言葉を持つ
 人類は最初から書字能力を持っていた。無文字社会はウソ。
 表現は、声であるか(=話された言葉)、形あるもの(Ex. 文字、絵、彫刻、道具、身体)か(=書き言葉)のいずれかである。
   ②-2 内面すでに言(声)である
 他方、内面とはすでに言(声)である。(表現とはその声の外化にすぎない。)
 内面が言(声)である限り、内面は歴史性・制度性をもつ。だから内面の声が真実の声とは言えない。それは錯覚である。

   ③ ラングに自然的境界はない
 ソシュールはラングに自然的境界はない、方言の区別もないと言う。諸言語の複雑なインターコース(伝播、交通)による。
 言語の境界は近代国家の文字言語によって創られた。(柄谷)
  

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『大人のための教科書、新説日本史』樋口州男、2011年、日本文芸社(その2:戦後史・昭和史)

2011-07-02 01:02:00 | Weblog
 パラシュート学習法を地でいくということで、関心の向くままに読む。
 
 《1》戦後の民主化と占領政策
  ①GHQ
 GHQ(連合国軍総司令官総司令部)の占領統治は日本政府を通しての間接統治だが、GHQの指令は大日本帝国憲法下では勅令であった:ポツダム勅令。
 GHQの諮問機関が対日理事会(米英中ソ)。
 占領政策を決定するのは極東委員会。政策決定がない場合はアメリカが中間指令権を持つ。
 1945年10月幣原喜重郎内閣はGHQの指令を受け、5大改革指令を出す:婦人解放、労働組合助長、教育自由主義化、圧政的諸制度撤廃、経済民主化。
 過度経済力集中排除法は独占的企業325社の分割を予定したが、対日占領政策の転換で11社に減った。
  ②GHQ憲法草案
 憲法改正はマッカーサー3原則(象徴天皇制、戦争放棄、封建制度廃止)に基づく。GHQ草案は、ニューディーラーが多い民生局(GS)が担当。
 「両性の平等」を明記した憲法24条はGSのベアテ・シロタ・ゴードンが尽力。
 憲法研究会(高野岩三郎たち)の「憲法草案要綱」(政治学者鈴木安蔵が起草の中心)がGHQ草案に影響を与えた。

 
 昭和史を次に振り返ってみる。
 《2》金融恐慌:1927年
  ①戦後恐慌・震災手形
 第1次大戦の戦後恐慌は日銀の救済貸出・特別融資で放漫経営の銀行・企業を放置。
 1923年の関東大震災。震災前に銀行が割り引いた手形のうち、震災のため決済ができなくなったもの(震災手形)が発生。
 金融機関保護のため、日銀が震災手形を担保に再割引。
 しかし震災手形には放漫経営で振り出された不良手形が多く含まれていた。
 ここにいわゆるバブル経済後の不良債権問題と同様の問題が生じた。震災手形の多くは不渡りとなった。日銀が損失をかぶるか、銀行が損失をかぶるかの問題が生じる。
 震災手形は「財政のガン」であり、また銀行に対する信用不安を招いた。
  ②金融恐慌
 第1次若槻内閣(1926年1月-1927年4月)の1927年3月、片岡蔵相の失言(「東京渡辺銀行が支払い停止になった」)で取り付け騒ぎとなり金融恐慌発生。日銀が6億円余の非常貸し出しで事態を沈静化。
 ところが枢密院が台湾銀行救済緊急勅令案を否決。台湾銀行が破綻(鈴木商店への巨額融資が回収困難)。若槻内閣の協調外交に不満の枢密院が倒閣に台湾銀行問題を利用した。
  ③田中義一内閣(1927年4月-1929年7月)
 続く田中義一内閣の高橋是清蔵相が3週間の支払い猶予令、日銀非常貸出で金融恐慌を収拾。
 中小銀行が淘汰され三井・三菱・住友・安田・第一の5大銀行体制となる。

 《3》田中義一内閣の「積極外交」:1927年4月-1929年7月
  ①若槻内閣の「協調外交」(1926年1月-1927年4月)
 第1次若槻内閣の金融恐慌のまっただ中、1927年、蒋介石の国民革命軍が南京を占領。日英の領事館・住宅襲撃される:南京事件。
 若槻内閣の「協調外交」が軟弱外交と非難される。
 すでに《2》で見たように、協調外交に不満の枢密院が若槻内閣の倒閣に台湾銀行問題を利用。
  ②田中内閣の対中国強硬外交(1927年4月-1929年7月)
 金融恐慌を高橋蔵相のもと収拾した田中義一内閣(1927年4月成立)は「積極外交」。東方会議で権益自衛の方針を決める。
 北京の軍閥政府打倒をめざす北伐を牽制するため日本人居留民保護を口実に3次にわたる山東出兵(1927-8年)。
 田中内閣の対中国強硬外交が中国駐留日本軍を先鋭化させる。
 満州配備の関東軍の張作霖爆殺事件(1928年6月)により田中内閣総辞職(1929年7月)。
 

 《4》浜口内閣の「デフレ政策=昭和恐慌」:1930年1月禁輸出解禁
  ①昭和恐慌
 世界恐慌が1929年10月発生。ところが一過性のものと思われていた。
 1929年7月成立の立憲民政党浜口内閣は、すでに世界恐慌以前、欧米にならって禁輸出解禁こそ、「輸出増大させる=国際競争力強化させる」と考えた。
 (Cf. 1917年、第1次世界大戦で日本、禁輸出禁止。)
 浜口内閣は緊縮財政による物価引き下げ、インフレを《金本位制=金解禁》の下で終息、また企業合理化によるコスト引き下げが、輸出価格を低下させ、《輸出増大させる=国際競争力強化させる》と考えた。
 今から思えば、愚かな選択だった!
 浜口内閣の緊縮財政、企業合理化は国内を激しい不況にした。デフレ政策による深刻な不況。昭和恐慌は人為的に引き起こされた。
  ②金解禁
 1930年1月、日本、金解禁(=金本位制)断行。ところが世界恐慌のもとで輸出は伸びない。輸入超過で正貨の金のみ流出。大失敗。
  ③右翼
 昭和恐慌のもと国民が右翼へ現状打破を期待。

 
 《5》国民政府の国権回復運動と「満蒙の危機」:満州事変へ(1931年9月)
  ①張学良政権が国民政府と合流(1928年12月)
 1928年12月満州の張学良政権が国民政府と合流。
 国民政府は列国に与えた権益回収の国権回復運動推進。満州では関東州と満鉄の回収を目指す動きとなる。
 日本国内では「満蒙の危機」論が高まる。関東軍参謀石原莞爾らの満州武力占領計画浮上。西洋の覇者アメリカと東洋の覇者日本の世界大戦を構想。
  ②昭和恐慌(1929年~)・金解禁(1930年)
 この間、すでに《4》で見たように1929年7月浜口内閣成立。金解禁を目指しデフレ政策で昭和恐慌へ。同年10月世界恐慌始まる。1930年1月浜口内閣、金解禁(=金本位制)断行。
  ③満州事変(1931年9月)
 浜口内閣の後をうけ第2次若槻内閣のとき、1931年9月関東軍が張学良軍の兵舎近くの満鉄路線を爆破し満州事変を引き起こす。関東軍司令官の全軍出動命令で満鉄線沿線制圧。
 朝鮮軍が、奉勅命令のないまま林銑十郎司令官の判断で国境を越え関東軍を支援。
 第2次若槻内閣は満州事変に対し不拡大方針。しかし軍は勝手に行動。
 1931年9月、満州事変の前後に、陸軍内の桜会のクーデター、また民間右翼大川周明らのクーデター。

 
 《6》犬養内閣の高橋是清蔵相:管理通貨制に移行(1931年12月)
 イギリスはすでに1931年9月管理通貨制に移行。
 第2次若槻内閣が1931年12月、総辞職。
 続く犬養内閣の高橋是清蔵相が管理通貨制に移行する。(1931年12月)
 「管理通貨制への移行=禁輸出再禁止」で円為替下落(=円安)。アジア市場で日本の綿製品など輸出拡大。イギリスは「ソーシャル・ダンピング」と日本を非難。
 高橋蔵相は景気回復に成功し1933年には日本は世界恐慌以前の生産水準に回復。昭和恐慌からの脱出のため、高橋蔵相は日銀引き受けによる赤字国債発行で、需要を創出した。
 ただし高橋蔵相は日銀引き受けによる赤字国債発行が経済を破綻させることをおそれ、後に公債漸減方針を促進。これが軍事費を抑えられた軍部の恨みを買う。

 
 《7》満州国承認を渋る犬養首相殺害:五・一五事件(1932年)
 1932年日本人僧侶襲撃事件が演出され第1次上海事変。この混乱に乗じて関東軍が満州国建国。
 同年5月に満州国承認を渋る犬養首相が殺害される:五・一五事件。政党内閣終焉。
 同年9月斉藤実内閣が日満議定書を結び満州国承認。
 1933年3月、日本が国際連盟脱退。

 《8》日本軍の華北分離工作:1935年
 
 《9》二・二六事件(1936年)
  ①1936年二・二六事件
 陸軍は皇道派と統制派(「高度国防国家」を目指す)が対立。1936年二・二六事件を皇道派が起こす。海軍出身の岡田啓介首相ら襲撃される。高橋是清蔵相、死亡。
 陸軍は「粛軍」で統制派に一本化。
  ②広田弘毅内閣(1936年3月-1937年2月)
 外交官出身の広田弘毅内閣成立(1936年3月-1937年2月)。軍部大臣現役武官制、復活。高橋前蔵相の公債漸減方針が覆り軍事費46.4%の予算成立。日独防共協定を結び、ドイツと連携しソ連に対抗。

 《10》日中戦争(1937年7月)と国家総動員法(1938年4月)
  ①西安事件(1936年12月)
 蒋介石の南京の国民政府は抗日より中国共産党攻撃を優先。1936年12月、東北軍の張学良らが蒋介石を監禁:西安事件。日中戦争勃発後の第2次国共合作の下地となる。
  ②日中戦争(1937年7月)
 1937年7月7日盧溝橋事件。陸軍中央は不拡大派と拡大派が拮抗。7月11日、参謀本部が局地的解決の訓令。現地で停戦協定が成立。ところが同日、第1次近衛内閣が師団の増派を決定。戦闘が拡大する:日中戦争。同年12月国民政府の首都、南京陥落。犠牲者数4万人前後との推計あり。
 国民政府が首都を漢口、重慶に移し徹底抗戦。日中戦争が泥沼化。
  ③国家総動員法(1938年4月)
 ナチスドイツの全権委任法にならい、1938年4月国家総動員法成立。国防目的の人的・物的資源の統制運用が勅令で可能となる。議会は有名無実化。無数の統制法規が発令される。

 《11》第2、3次近衛内閣:1940年7月-1941年7月-同年10月
  ①第2次世界大戦開始(1939年)
 1939年9月第2次世界大戦開始。阿部内閣、米内内閣は「欧州大戦」に不介入方針。日中戦争は終結の見通しを失う。
 1940年(昭和15)6月、ドイツ軍がパリを占領。近衛文麿はナチス党をモデルに一国一党の新体制運動を推進。
  ②第2次近衛内閣成立(1940年7月)
 陸軍が現状打破を期待し新体制運動に乗る。米内内閣を倒閣し第2次近衛内閣成立(1940年7月)。
 第2次近衛内閣は大東亜新秩序を掲げて南方進出を強調。国民政府の物資補給ルートの遮断、またマレー、インドネシアの戦略資源の確保を狙う。
 ドイツのナチス党にならい1940年、大政翼賛会発足。
  ③日独伊三国同盟締結(1940年9月)
 アメリカは満州事変を静観していたが、日中戦争の拡大で日本への態度硬化。1940年7月石油・屑鉄を輸出許可制、航空用ガソリンの西半球以外への輸出禁止。日本は石油など戦略物資の確保が困難となる。
 1940年9月、松岡洋右外相のもとで日独伊三国同盟締結。アメリカを仮想敵国としたので日米関係が決定的に悪化。
 1941年6月独ソ戦。同年7月南北併進を決定。7月末日本軍が南部仏印進駐。アメリカ対日石油輸出全面禁止。

 《12》東条内閣:1941年10月-1944年7月
 中国からの撤兵に東条英機陸相が強硬に反対。日米交渉に望みをつないだ第2次近衛内閣は退陣。東条内閣の1941年12月、太平洋戦争開始。
 1942年6月ミッドウェー海戦で負け戦へ。
 1944年7月サイパン島が陥落。米軍の渡洋爆撃が可能となり「絶対的国防圏」の一角が崩れ東条内閣総辞職。

 《13》1945年2月ヤルタ会談-8月日本、無条件降伏
 1945年(昭和20)2月ヤルタ会談。同年3月東京大空襲。同年4月米軍、沖縄上陸。同年7月ポツダム宣言。同年8月日本、無条件降伏。

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