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宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『すべてはモテるためである』二村ヒトシ(1964生まれ)、文庫ぎんが堂、2012年

2016-07-24 19:05:42 | Weblog
まえがき
A 「ほとんどすべての苦しみは、そもそも『もてない』ことに起因している。」(3頁)
A-2 「では、なぜ、あなたはモテないのであろうか?」(3頁)
B 「なぜモテないかというと、それは、あなたがキモチワルいからでしょう。」(4頁)
C 「エロいセックスをするためには、コミュニケーションの能力が必要不可欠」。(9頁)


第1章 なぜ「モテたい」のか?なぜ「モテない」のか?
(1)そもそもモテとは何でしょう?
A なぜ「モテたい」と思うのか?「どいうふうに」モテたいのか?(16頁)(23頁)
A-2 「自分で、自分の欲望のかたちを把握する」ことが、非常に大切である。(16頁)

B 「モテたい」理由。(17-18頁)
①「なんとなく」楽しそう。
②「モテてるやつ」は、いかにも楽しそう。
③モテる人生の方が、なんとなく「マシ」。
④自分はちゃんとしてるのに、モテないのは、「なにかが、まちがってる」。
⑤俺にも、ちょっとくらい、異性となかよくする権利が「あってもいい」。
⑥「セックス」がしたい。
⑦「結婚」したい。
⑧恋愛したい。つまり、「向こうも自分を好きになってほしい」。
⑨モテないままだと、「人生が先ゆき不安」。

C どういうふうに、モテたいのか?(19-23頁)
①「セックスに不自由しない」。
①-2この場合、「誰」とセックスしたいのか?
①-3「誰でもよい」のか?

②「1度」セックスを経験したい。
③風俗・援助交際のようなお金を払うので「ない」セックスをしないと、「男として不完全」。
④「愛のあるセックス」をしたい。
⑤「お金を払わないセックス」の味を覚えたてで、したくてしたくてたまらない。
⑥すでに恋、交際、恋愛、お金を払わないセックスを何度もしたが、やっぱり「もっとやりたい」、モテたい。
⑦あなたが「よし」と思える「女の子が全員」、あなたとセックスしたいと思って「くれる」。
⑧「何度かセックスした相手」から嫌われず、付き合い続けることができる。(20頁)
⑨今の妻or恋人から「もっと、しっかり愛されたい」。
⑩「妻or恋人以外の女性」たちから好かれたい。

⑪ともかく、「一人でも多くの女性」となかよくしたい。女が好きでしょうがない。
⑪-2 「女性となかよくしてる自分」が好き。
(中略)
⑫「女の子全般」から、とにかく「嫌われたくない」。(21頁)
⑬「あらゆる他人から、まったく嫌われたくない。」「他人から好かれる」という意味でのモテかたを学びたい。

⑭自分の側から、「結婚相手」を選べる。
⑭-2 この場合、どんな女性なら結婚したいのか?
(a)家事もでき、めんどうを見てくれる「しっかりした」女性?
(b)「セックスの相性がいい」女性?

⑮好きな女性に、「恐くて、自分の好意を告げられない」ので、告げられるようになりたい。
⑮-2 自分が嫌いだが、「告白できない嫌いな自分」が、彼女に告白できれば、自分は変わることができる。
(中略)

⑯ とにかく、世に言う「恋人」が「一人」ほしい。(22頁)
(a)「連れて歩いて恥ずかしくないレベルの外見」の恋人がほしい。
(b)「人がうらやむ、すっげえ美人」の恋人がほしい。
(c)「あなたのことをしっかり愛してくれる貞淑な恋人」がほしい。
(d)あんまり「ブス」すぎては困る。(23頁)

⑰恋人を「たくさん」ほしい。
⑱セックスとか、恋人とか、愛とか、めんどくさい話じゃなくて、「キャバクラ」などで、なるべくなら、あまりお金を使わず、ともかく「ちやほやされる男」になりたい。

(2)モテない理由(24頁)
D 自分を「非モテ」と考えている皆さんへ向け、書いている。(二村ヒトシ)(24頁)
E 「あなたが彼女にモテにないのは、あなたが「キモチワルい人」だから。(25頁)
①あなたは「自意識過剰」でキモチワルい。
②「ちゃんと自分の頭で考えていない」から、キモチワルい。

F「恋愛マニュアル本を読む男」への女性の意見。(26-28頁)
①本屋でマニュアル本の前で立ち止まるという精神が、すでに負けている。
①-2 本の中身がよくても、「そういう本さえ読めば何とかなる」と思う感性が、モテないひけつ。(27頁)

②マニュアル本を読まなくても、あちこちにヒントがいっぱいある。
②-2 ドラマ、映画、バラエティの司会の芸人のアイドルの女性への口の利き方、マニアックな漫画、昔の小説などを見て、自分の感性に合うのを参考に、自分なりに工夫すればいい。
②-3 ゼロから考えるわけでない。(27-28頁)

③女性一般や、B型女性一般とかでなく、「あたし」を口説く。
③-2 口説き方もマニュアル通りなら、そもそも「あなた」もいない。(28頁)
③-3 恋愛やセックスは、一人ひとり違う。

(3)モテたいなら「自分について」ちゃんと考える(31頁)
G ごちゃごちゃ考えるのが、めんどくさい人が「バカ」である。
G-2 考えたが、データが不足してるとか、センスがない、答えが出ないと思い、自信がなく、間違った答えで相手から嫌われるのが恐いと思うのが「臆病」(「暗い人」)である。(31頁)
G-3 「暗い」のは、考えが堂々めぐりしているということ。(35頁)
G-4 女性からキモチワルがられる男は、「バカ」か「臆病」(「暗い人」)である。(32頁)

H 「いい人」すぎて、また「照れ」て、ラブモード、エロモードになれず、かくて女性から「あなたに性欲がある」と思われず、モテない男性も、多い。(32-33頁)
H-2 「照れ方が、自意識過剰でキモチワルい人」がいる。(33頁)
H-3 「自分で自分を『いい人』だと思ってて、それが他人から見るとキモチワルい人」もいる。(33頁)

I モテるためには、相手と自分の関係についてちゃんと考えて、「相手と同じルールで動ける、遊べる」方法を見いだせることが必要。
I-2 相手と同じ「土俵」に乗るということ。(35頁)

(3)-2 「モテる奴」と「モテない奴」の分類
J 「モテない奴」とは、以下の通り。(38-40頁)
(a)「かんじわるいバカ」(「かんちがいしてるバカ」&「臆病なのにバカのふりをしてる」)
(b)「暗い人」(「バカなのに臆病」&「考えすぎて臆病」):ネガティヴな自意識過剰。

K 「モテる奴」は、以下の通り。(38-40頁)
(c)「かんじのいいバカ」:ポジティヴな自意識過。
(d)「考えられる人だが、臆病すぎない」(「かしこく見える人」&「かしこいのにバカのふりしてる」)

L 「臆病さ」は、「自分が臆病であること」を認め、相手と自分との関係を「ちゃんと考える」ことで克服するしかない。(42頁)


第2章 姿かたち、かんじわるいバカ、臆病、オタク
(1)姿かたちのキモチワルさ(コンプレックス)の問題(46頁以下)
A 人間の「姿かたちのキモチワルさ」について(a)「治すことが可能」、(b)「ごまかすことが可能」、(c)「どっちも不可能」のいずれであるかについて、自分で「ちゃんと考える」。(46-47頁)

B コンプレックス各論(48頁以下)
①ハゲ
→治すのは難しい。ごまかす。いっそ丸坊主にする。
②ひどいニキビ、アトピー
→病気なので治す努力をする。

③太りすぎ、痩せすぎ
→ごまかせない。治すことができる。ただし、必ずしも治さなくてもよい。
③-2「デブ嫌い」は口実で、「内面のキモチワルさ」が、嫌われていることもある。(50頁以下)
③-3「いやー、ダイエットはツラいツラい!」と言うばかりで、一向に痩せないデブ男は、うるさいし、キモいし、嫌われる。

④歯がヤニで汚い、歯ならびが悪い
→ごまかせない。治すかどうか自分で決め、歯医者に行く。
⑤毛深い
→心底嫌いなら、せっせと抜く。「毛深い男が好きな女もいるらしい」と思えれば、ほっておく。

⑥「真性」包茎
→直ちに手術する。(52頁以下)
⑥-2「仮性」包茎
→手術する必要も、恥じる必要もない。風呂で包皮を向いて、ちゃんと洗い清潔にする。

⑦早漏
→早漏が問題というより、「早漏で悩んでいること」が問題。
⑦-2「長時間だと痛くなるので、早く終わってくれてかまわない」という女性も多い。
⑦-3 物足りない女性には、前戯をていねいにすればよい。

⑧短小
→セックス好きのスケベな女性のほとんどが、『男のセックスの魅力は、ちんちんの大きさでない!』と断言している。(二村ヒトシ)(53頁)

⑨体臭(54-56頁)
→(イ)「不潔だから臭い」のか、(ロ)「病気だから臭い」のか、(ハ)「健康なのだが、人よりちょっと臭い体質」なのか?
⑨-2 ともかく風呂、着替え、洗濯した服を着て、清潔にする。医者で治すべきかどうかは、自分で決断する。

⑩口臭
→歯を磨いているのに口臭がひどいのは、胃や歯の病気なので、医者に行く。(56頁)

⑪顔のマズさ(56-57頁)
→「イケメンなのにまったくモテない男」も、「へんな顔してるのにトータルとしてはなんかカッコよくて、モテまくってる男」もいる。
⑪-2 「手術で治す」のか、「親からもらった顔で行く」のか、自分でちゃんと考えて決めればよい。主体性の無さは、女性からキモチワルがられる。
⑪-3 美容整形手術については、「ずるい医者は、ものすごくずるく、へたな医者は、ものすごくへたくそなんだそうです」!(二村ヒトシ)(57頁)

C あなたが臆病な人なら、モテないことや、キモチワルがられることを、(自分も気がつかないうちに)自分の外見や体臭だけの責任にしてしまいたがる。(58頁)

(2)「かんじわるいバカ」の治しかた
D 「心から幸せな時期」が長く続くと、だんだん、「感じ悪さ」も「下品さ」も治って来る。(63頁)
E 「ワイルド」・「エッチ♡」とプラスに評価されるか、「乱暴」・「下品」とマイナスに評価されるかは、彼女から「好意を持たれている」か、「持たれていない」かの違いである。(65頁)
F 「エラソーな態度」をとると、嫌われるし、モテない。エリート・ビジネスマン、優秀な起業家、エリート校の学生・卒業生など。(66-67頁)。
G なお、「かしこいのに、バカになれる人」は、自分と同じ土俵に乗ってくれそうな女性相手にだけ、バカなことをします。(70頁)

(3)「臆病」を治す
H 「適度な自信」を持つために、自分の「居場所」をつくる。(73頁)
H-2 自分が「なにが好きなのか」をよく知ってて、その理由も認識してる男が、モテやすい。(75頁)
H-3 職種や収入額が問題なのではない。あなたが「どんなことが好きか」が、「あなたとは何者か」が問題である。(76頁)
I 自分の「居場所」、つまり「臆病にならずにすむ、ふるさと」、つまり「自分がいちばんイキイキするもの」。それらがあることが、「しっかり自分を持っている」ということ。(76-77頁)
I-2 仕事、酒、パチンコ、ゲーム、ネットでもよい。「逃避してる」のでなく、だらだら座って玉を弾いてるのが「たまらなく好き」と、自信もって言えればよい。(77頁)
I-3 本気でハマる。あなたの全部でなくても、一部が輝けばいい。(78頁)
J ただし「エラソー」にならない。あなたの「好きなこと」が特別なのは「あなた自身にとって」だけだから。(80頁)

(3)-2 バカの中のバカ:「自分を守ろう」とする
K 「オレは『自分がある』し、『なにが好きか』自分の言葉で言えるし、自意識過剰になるほどヘマじゃないぜ」と思ってるあなた、あなたがいちばん臆病でバカ、バカの中のバカ。(83頁)
K-2 モテているのに、相手の女性と「ちゃんと愛しあえない」。
K-3 あるいは「自分がモテたくないような女性」からモテるから、「もっといい女にモテたい」と思い、全然幸せでない。(84頁)
K-3 「じっさいに仕事はできる」、「世の中の役に立っている」、そして「自分では謙虚だと思っている」が、「痛い部分」に誰かが触ろうとすると、ものすごい速さで逃げる。その意味でプライドが高いあなたこそ、いちばん臆病でバカ、バカの中のバカ。(84-85頁)
K-4 こういう男は、結婚すると、典型的な「つまらん夫」や「暴君」になる。(86頁)
K-5 あなたは「自分を守ろう」としているので、頭が「固く」、かつ「悪い」

(4)「オタク」は、治さなくていい(88頁)
L モテるために必要な[他者とのコミュニケーション]において臆病になりすぎない。
L-2 そのために「オレは、オレの好きなことに、はまっている」「オレには、居場所がある」という自信と誇りを持つ。
L-3 しかもそのことでけしてエラソーになるな、謙虚であれ。(89頁)

M 「さえない僕」のままでは、「現実の可愛い妖精」は来ない。「現実の女性」に声をかけないといけない。(96頁)
M-2 「『ナマミの女性』も、『幻想の優しい妖精』も、『両方とも』ほしい」というのは、ムシがよすぎる。どっちかを、取るしかない。(98頁)
M-3 「他人からどう見られてるか」に心を配れる[ちゃんとしたオタク]になることもできる。(99頁)

(5)すぐにナンパなどしては、いけない
N ナンパは、「できる人にはできる、できない人にはできない」。(104頁)
N-2 ナンパこそ、[土俵]の問題。
N-3 彼女が声をかけられたいのは、「ナンパというゲームの土俵に乗ってくれる、またはその土俵をもう用意してくれてる、ナンパ慣れした男性」、つまり「かけひきで、彼女たちを楽しませることができる男性」。(105頁)

(6)[現実の女性相手のコミュニケーション]のトレーニングは、お金がかかる。キャバクラ!次章参照。(104頁)


第3章-1 コミュニケーションの練習のため、「しゃべるだけの店」=キャバクラに行こう。(108頁以下)
A 「実社会でモテルための、練習の場」として「女の子のいるお店」に行く。お金はかかる。(109頁)
A-2 「女の子のいるお店」は2種類ある。①「しゃべるだけの店」(Ex. キャバクラ、ガールズバー)、②「エッチなことができる店」。(110頁)
A-3 恐ろしい店もあるので要注意!(繁華街のど真ん中、読み込みのお兄さんが強引等)(111頁)

B 「しゃべるだけの店」(①)=キャバクラに行こう。コミュニケーションの練習のため。(112頁)
B-2 キャバクラは、焼酎とか安いウイスキー水割り飲み放題。しかし飲み過ぎて時間オーバーし、お金をたくさん払うのは失敗。(112頁)
B-3 また酔っぱらったお客は、女の子から確実に嫌われる。(112頁)

C キャバクラで、「女の子と同じ土俵に乗る」ことを覚える。(112頁)
C-2 「恋人を作りに行く」のでもない。(112頁)
C-3 キャバクラは、「現実の肉体と感情を持った女の子を好きになって、その子を口説く、という[つもりになる]ことが許されたバーチャル空間」。(113頁)
C-4 人工の釣堀のようなもの。練習をする。(113頁)
C-5 普通、1時間の間に2回から4回、女の子を変えてくれる。(113頁)

D 「練習」をしに、キャバクラに来ているので、指名をしないで、女の子の数をどんどんこなす。いろんな女の子としゃべる。(114頁)
D-2 あなたの側から、明るく話しかける。(114頁)恐がっていないで、話しかける。ずーっと黙っている客は、女の子がいちばん嫌がる。「この仕事、長いの?」とか、「どこの生れ?」とか聞き、また自分のことを聞かれたら自己紹介する。(115頁)
(1)時間が有限だからといって、あせらない。(以下115頁)
(2)彼女とは、必ず別れの時が来る。運命のように、ボーイさんが彼女を連れて行く。まるで人生そのもののよう。
(3)自分ばかりしゃべらないで、彼女のしゃべることをじっくり聞く。
(4)臆せず訊く。しかしプライベートのことは、根掘り葉掘り訊かない。

D-3 よく知らないが、でもしばらくの間は、確実にあなたと一緒にいてくれる女性との「まともなコミュニケーション」の練習。(115頁)
(5)肩の力を抜いて、だが礼儀正しく。(以下116頁)
(6)どうしても緊張するなら、「お見合いの練習相手になってください」とか頼む。
(7)失敗してもいい。バーチャル空間なんだし、お金を払ってるのだから。
(8)うまく喋れなかったときは、「話があわなかったんだな」と思い経験値を積む。
(9)練習なんだから、失敗して傷ついたら、すぐに忘れて、落ち込んでないで、次の女の子に新たな気持ちで話しかける。
(10)話が弾まない女の子を、替えてほしい時は、ボーイさんにこっそり、彼女に分からないように頼む。デリカシーは必要。(116-7頁)
(11)キャバクラ慣れしている友だちに、恐くない店、いいコがいる店を紹介してもらい、一回くらい帯同してもらうのはいい。しかし、次からは一人で行く。(以下117頁)
(12)早い時間がねらい目。女の子がくたびれていないし、基本料金が安い。
(13)時間いっぱい頑張る。彼女がメアドや電話番号を教えてくれたら、あなたの勝ち。彼女に勝ったのでなく、あなたが「あなたのキモチワルさ」に勝った。


第3章-2 キャバクラ=「しゃべるだけの店」(①)でコミュニケーションの練習をしたら、今度は「女の子がエッチなことをしてくれる店」(②)に行く(118頁)
E 「現実の女の子の肉体と気持ちを相手にして、エッチつきのコミュニケーションをする」練習の場!
E-2 ちゃんと身ぎれいにしていく。
F 「女の子がエッチなことをしてくれる店」の種類:(a)「エッチなことができるけど、セックスはできない店」(ピンサロ、ヘルス)と(b)「セックスができる店」(ソープランド)がある。さらに(c)「女の子が一方的に触ってくれるから、男(お客)がマグロ状態でいる店(むしろ触ろうとすると怒られる)」と(d)「客の方から、女の子に触ってもいいことになってる店」がある。(118頁)

G モテたいあなたは「女の子に触ってもいいことになってる店」((d))に行きましょう。(「男がマグロでいい系」((c))の店には行かない。)(120頁)
(1)お店に行って、女の子が隣に寄り添ってきたら、まずは会話から始める。(キャバクラと同じ。)エッチなお店でも「じっと黙ってる客」はキモチワルイ客。(120頁)
(2)一方的にエッチなことをしてもらうのでなく、もちろん「触るのも料金のうちだ」と乱暴にいじくりまわすのでもなく、紳士的に、つきあい始めたばかりの自分の恋人に触るつもりで、優しく触りましょう。エラソーにならないように。下品にならないように。(121頁)

H エッチなお店で働いている女性:(イ)「仕事では絶対感じない(ようにしている女性)」、(ロ)「キモチワルくない客に、上手に触られると感じてしまう女性」(なお、「キモチワルい客だが、体だけ感じる」ということは絶対にない)、(ハ)「まったく感じてないのに、演技で反応してくれる人」。(121頁)
H-2 (イ)(ロ)(ハ)いずれかは、分からない。(実は素人の女の子とセックスするときも、わからない。)悩み始めるとキリがない。(121頁)

I 「女の子のまんこを指でいじったりするときに、耳元で小声で・・・・『痛くない?』と必ず訊きましょう。」(121-122頁)
I-2 彼女が嫌がらなければ、優しく続ける。(122頁)
I-3 気づかいの練習を、生きた女性の体を使ってさせてもらうために、お金を払う。(122頁)
I-4 痛がられたら、別のところを触る。
I-5 「お客からは触られたくない人」のこともあり、その時は、触るのをやめる。

J 女性というのは、いろいろいる。(122頁)
①話しかけて、コミュニケーションしてくれたり、してくれなかったりする。
②コミュニケーションしながら触って、女性の体が、感じたり感じなかったりする。
③あなたの冗談で、笑った女性と笑わなかった女性がいる。
④「芸能人の誰それに似てるね」と言われ、喜ぶ女性と、不機嫌になる女性がいる。

K 嫌われる客(123頁)
(a)金払ってるんだから、店で禁じられていること以外、「何してもいい」みたいな態度。例えば、しゃぶってくれる彼女の顔を、押さえつけたりする乱暴。
(a)-2 そういう人は、素人の女の子にも、同じことをする。「オレの彼女なんだから」とか、「オレの女房なんだから」とか。
(b)「なんで、こんな仕事してるんだ!」と説教する客は、酔っ払い、不潔な客と並んで、嫌われる。
(b)-2 彼女の境遇を、悲しんだりしてはいけない。どっちも大きなお世話。
(b)-3 そういうバカなことを、口にしちゃいけないのは、キャバクラでも同じ。
(c) お店のホームページの画像と、指名した子のイメージが違っても、不機嫌にならない。画像は実物より良い。(124頁)
(d)お店の中で恋してもよいが、店外では、恋し続けてはいけない。あなたは、何百人ものお客のひとりにすぎない。
(d)-2 「こんな環境から、オレが救い出してあげる」とか、アホなことを、思ってはいけない。ストーカー犯、レイプ犯になっては、いけない。
(d)-3 お店の中はバーチャル空間で、「釣っても、持って帰ってはイケナイ」釣堀のようなもの。女の子にモテるようになるための練習の場!(125頁)
(e) エッチなテクニックのマニュアル本を読んで、「覚えたテクニックを、女の子に試す」とか、「女の子をイカせる練習を、しに行く」という考えは、やめる。
(e)-2 女の子は、性感帯・性格・感情の持ち方が、一人ひとりちがうのだから、そんなことをしても意味がない。
(e)-3 むしろエッチなお店には、「女の子が、どんなことを嫌がるのか」を知り、それを「しない」訓練のためために行く。


第3章-3 素人の女性と、どうやって出会うのか 
L 相手と「同じ土俵に乗れる」ようになったか、分からないにしても、少なくとも「お店」では、臆病すぎたり、エラソーにしすぎたりしなければ、そんなにキモチワルがられない。
L-2 現実の女の子だって、そんなもんです。(126頁)

(1)趣味のコミュニティサークル
M 1つ目の注意点:「身近に素人の女性がいないあなた」にお薦めなのは、フェイスブックやミクシィなどソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)を使って[趣味のコミュニティサークル]を見つけること。(128頁)
①「ネット上だけで語り合う」のでなく、「メンバーが顔を合わせ交流できる」サークルがよい。
②クローズドでなく、定期的に新しいメンバーを募集するサークルがよい。
③勉強会でもいいが、「会費が異常に高い」ところはやめる。
④メンバーに、「何か義務的なこと」を要求してくるところは怪しい。
⑤[あからさまに出会いを目的にしたサークル]はやめる。女性は、男性の容姿・収入・キャラのスペックに注目するだけだから。(129頁)
⑥「超多人数による合コン」のようなイベントもダメ。結局、すでにモテている人がモテる。
⑦趣味・勉強・スポーツなんでもいいが、本来の目的が「出会い」じゃないサークルがいい。

(2)ガツガツしない
N 2つ目の注意点:あまりガツガツしない。
(a)まず、「話の通じる異性」を見つける。
(b)すぐに急接近しないで「ふつうにコミュニケーションすること」から始める。
(b)-2 いきなり「二人っきりで会いましょう」とか誘うのは論外。あせらない。(130頁)
(b)-3 下心はあってもいいのが、あからさまに相手や他のメンバーにばれると、キモチワルがられる。
(c)ほんとは、一番いいのは、[モテること、女の子となかよくなること、セックスすること、彼女をつくること]等を一度、「本気で忘れちゃう」くらい、まず、そのサークルを楽しむこと。

(3)目的は「コミュニケーション」
O 3つ目の注意点:自分の知識を自慢しすぎない。夢中になって一人でしゃべりすぎない。(130頁)
(イ)目的は「コミュニケーション」である。
(イ)-2 「あなただけが楽しむこと」、「他の人たちに、あなたのスゴさを見せつけること」が目的でない。(131頁)
(ロ)[接点があるけど、ちょっと外れてるくらい]のサークルがいい。
(ロ)-2 自分の我(ガ)をぶつけに行くのでなく、新しいことを吸収できる、「教わることがある」くらいのサークルがよい。

(4)「対話する」=相手と「同じ土俵に乗れる」
P 4つ目の注意点:モテるためにいちばん大切なのは「相手と対話できるようになる」こと!(131頁)
P-2 「普通に話す」のと、「対話する」のとは違う。(132頁)
対話:①対話とは、まずは「意志を持って聴く」こと。脳や心できちんととらえていく。
対話:②けれど[判断]しない。決めつけない。
対話:③それから「自分の肚(ハラ)を見せる」。
P-3 これは、キャバクラでの会話のしかた、風俗でエッチなことをする前にすべき話しかた、さらに言うと、エッチの上手なやりかたとも同じ。
P-4 「対話できる」ことが、つまり「相手と同じ土俵に乗れる」ということ。(132頁)

Q 対話:①「意志を持って聴く」こと。
Q-2 うわべだけ聞いてうなずいているのではダメ。「自分は次に何を話そうか」など、考えていてはダメ。「あなたが話を聴いていないこと」は相手に全部、ばれます。(132-3頁)

R 対話:②「決めつける」のはダメ。
R-2 つまり、「上から目線」はダメ。(133頁)
R-3 例えば、「彼女がなにかに悩んでいる」とわかったとしても、分析したり、アドバイスしたりしない。それらは、相手をコントロールすることであり、ダメ。
R-4 例えば、彼女が「ひらきなおって」いたり、「いじけて」いたりしていても、「良い」とか「悪い」とか判断しない。お説教しない。しかし無視はしない。ただ「聴いている」ことが大事。むずかしいが、肝心なこと。

S 対話:②-2 (モテたくて、来てるのなら)「オレは変わらなくていい」と思ってはいけない。
S-2 「自分が変わるのを恐れている」のはダメ。「この人、いったい何しにここに来てるんだろう・・・・、キモチワルい・・・・」と、彼女に思われてしまう。(135頁)
S-3 「自分が変わることを、おそれず」ちゃんと聴く。これがコミュニケーション。「謙虚」さが必要。
S-4 「相手に媚びる」「へりくだる」「相手に影響される」「洗脳される」ことではない。あなたの「心のふるさと」が変わってしまうのではない。
S-5 「心のふるさと」の「とらえかた」が変わるかもしれないが、それは歓迎すべきこと。(136頁)
S-6 「ふるさと」を「ちゃんと持ってる」人、自分が「なにを好きなのか」「なにをしたいのか」わかっている人は、それを相手に押しつけなくても、自然と伝わる。

T 対話:③(セックスしたい、恋愛したいと)「ギラギラ」してると、モテない。(136頁)
T-2 「エラソーさ」、「下品さ」、「臆病さ」は、自覚すれば改善できるが、「ギラギラしてること」は、なかなか自分ではどうすることもできない。(137頁)

U 対話:③-2 自分を「守ろう」とするのをやめ、今の自分を開示すると、あなたは「ごきげんに」なり、かくて自分のギラギラに対処できる。(138頁・140頁)
U-2 ただ「自分を見せて」どう受け取られるかは、「相手にまかせる」。
(1)「こう受け取ってほしい」と押しつけるのでない。
(2)弱いダメな自分を「許してほしい」と押しつけて甘えるのでない。
(3)自分は醜いと自己嫌悪するのでない。
U-3 「バカな自分を開示し、みんなに笑われる」ことで、あなたは、「みんなを和やかにする」ことができる。(139頁)すると、あなたが変化する。あなたは「きげんがよくなる」。(140頁)
U-4 自分を「守ろう」とするのをやめる。すると、あなたは「ごきげんに」なる。すると女の子も、「チョットキモいけど、ごきげんな人」と話してみたいと思ってくれるようになる。


第4章 どうやって「恋愛」するのか
A [あなた]は、キモチワルくなくなり、[いい人]になった。(142頁)
A-2 女性の知り合いも、何人かできた。それなのに、彼女ができない。(142頁)
A-3 彼女は、「あなたに、恋や性欲が、めばえている」と気づかない。あなたが、自分は「口説ける男ではない」と決めてしまっているため。(143頁)

B 実は、あなたの中には、いろんなキャラがいる。あなた一人で、いわばスーパー戦隊のようなもので、何人かのキャラがあなたの中にいる。「彼女を作る」or「モテるようになる」ための戦隊!(145頁)
①[リーダーの熱血漢]=[熱いあなた]。自分の気持ち(恋するorセックスしたいだけ等)に、正直なホットな男。「あなたの中のヒーロー」。口でなく、行為で示す。例えば、彼女だけでなく、女性たちみんなの重い荷物を持つ。(146頁)
②[キザでクールな奴]=[キザなあなた]。[カッコよさ]を、こっそり彼女の前だけで演じるキャラ。ナンバー2。例えば、(1)彼女の服や髪型をほめる。(2)キザなプレゼントを贈る。(3)恥ずかしい「愛のことば」を口にする。(146-7頁)

C 彼女が「ちょっと自分の方を向いてくれた」と感じる、または彼女と同じ土俵に乗れたと思う、そういうタイミングで、だいたい「二人きり」になれる機会が来ます。(147頁)
C-2 そういう機会がなかなか来ない場合は、まだ「その時」じゃない。待ちましょう。
C-3 「その時」が来たら、ちゃんと目を見て、「好きです、つきあってください」あるいは「やりたいです、させてください」と伝えましょう。

D いちばん大事、また難しいことは、「つきあってください」「やらせてください」「愛してる」に対して、「イヤ」「だめ」の答えが彼女から帰ってきた時、いじけたり、駄々をこねたりせずに(逆切れなどもってのほか)、すぐにあきらめること。しつこくしない。「いやよいやよも好きのうち・・・・」は妄想。(147頁)
D-2 この場合、「あなたのすべてが拒絶されたor否定された。」わけでない。必要以上に、傷つかない。(148頁)
D-3 あなたの気持ちが伝わり、彼女の「それはイヤ」がちゃんとあなたに伝わった。「伝わった」ことは、彼女にとって「キモチワルくない」こと。
D-4 あなたのなかの、ある一つの「その時に出すべきじゃなかったキャラ」が拒否されただけ!

E 自分の中に「あっ、こんなキャラも、いるな」と思ったら、彼女の前に、どんどん登場させる。(148頁)
E-2 「好きになった女性・気になる女性」という存在を意識すると、自分が「けっこう、いろんな面を持っている」と自覚できるようになる。自分の中のキャラたちの「点呼をとってみる」。

F「いろんなキャラ」を出したり引っ込めたりするのは、しかし、あなたも、そして実は彼女も、くたびれる。F-2 かくて、たまに「リラックスする奴」というキャラを登場させる。なんにもしない人、無防備に、くつろいでしまう男。あなたが先にリラックス出来たら、彼女もリラックスしてくれる。(150頁)
F-3 キャラの全員をまんべんなく登場させることができる男が、モテる。(151頁)


第4章-2 どんな女性を口説くのか 
G 外見から好きになるのもいいが、性格のいい女性、「自己評価が低くなくて高すぎない、自然な女性」、「笑顔がすてきな女性」がおすすめです。(152頁)
G-2 早い話が「キモチワルくない、さわやかな女」がいい。
G-3 著者の好みでは、自分のキモチワルさ(コンプレックッス、臆病さ、かんじわるいバカさ)と格闘してる女性は「同志」という感じがする。(154頁)


第4章-3 セックスするなら(154頁)
(1)「セックス好きの女」
H まずは「素人の女とセックスしたいのだ!」と思っているなら、「セックス好きの女」を狙うべき。(155頁)
H-2 「下ネタが好きだけど下品じゃない男」、「ギラギラしてないけどエロい男」、「下ネタもOKで気さく」というキャラを加える。あなたが「エッチな一面もある」と開示すれば、そういう女性と出会える。
H-3 ただし「空気は読む」。&「紳士的に上品に開示」!

I 男性的な感性は「自分とは縁もゆかりもない相手の身体(記号sign)にも興奮できる」。女性は「好意を持ってる相手から、自分に向けてあらわされた信号(signal)」に興奮する。(155-6頁)
I-2 本当にスケベな紳士は、「巨乳が好きなんだ」なんて言わないで、「あなたの、胸に触ってみたいんです」とささやく。(157頁)

J 「[セックス好き]を認めている女性」とのセックスは楽しい。「セックス好き同士の幸せな出会い」!
J-2 なんだかすぐにやらせてくれちゃう女性も、世の中には結構います。(157頁)
J-3 セックス中に過剰に「ひとりよがり」、または「ぜんぜん無反応」で、「セックス依存」の女性もいる。
J-4 「セックスというのは、[コミュニケーション]じゃないとエロくない。」(158頁)

(2)オナニーをする女性
K オナニーをする習慣がない女性は、わりと「つまらんセックス」をすると思う。(二村ヒトシ)(158頁)
L 「女は処女にかぎる!」と考えると、「彼女の性感帯やオーガズムを、あなたが一人で開拓していかなければならない」ということで、わりとめんどくさい。(二村ヒトシ)

(3)アブノーマルor変態
M 「私は変態ですが、あなたに迷惑は掛かりません」と開示できる[卑屈でもエラソーでもない変態さん]は、けしてキモチワルくありません。(162頁)
N ストーカー、痴漢、レイプは、変態でなく、「相手を支配したいという欲求を、こじらせてしまった状態」で犯罪!(163頁)
N-2 ロリコン、ショタコン、相手を殺害しないと満足できない人などは、犯罪。欲望の対象と「同じ土俵に乗る」ことができないため。(163頁)

O ナマミの女性で、すごく美しい、あなた好みの完璧な外見をもつ、しかも性格のいい女性に恋をして、声をかけ、二人は交際するようになりました。(167頁)
O-2 ある日、その人が言いました。「ごめん、あたし変態なの。」「あなたに、あたしのウンコ食べてほしいの」と。あなたは、どうしますか?(まんざら、ありえない話じゃないですよ。)(167頁)
O-3 「食べるのだけはゴメンだ」ですか?では、「だったらせめて、あたしに、あなたのウンコ食べさせて」って言われたら?(167頁)

第4章-4 あなたの中に住んでいる女の子(168頁)
P あなたの中には「理想の女性」が住んでいる。ある女性を好きになったら、その現実の女性は、「あなたの中の[女]」に似ているところがあるはず。(169頁)
P-2 女性の心の中にも、[(理想の)男]がいる。(170頁)
P-3 あなたの中の[(理想の)女]が「ろくでもない女」だと、せっかくあなたに恋してくれる女性を、「あんな女ダメ、こんな女ダメ」と次々捨てる。(171頁)
P-4 心の中に[たちの悪い女]が住みつき、「毎回、性格の悪い女にばかり恋してしまう男性」がいる。(171頁)
P-5 あまのじゃくな[女]や、すごいバカな[女]に住みつかれている男性は、大変。(172頁)

Q [あなた中の(理想の)女]と[あなたのお母さん]は、ある部分似ているだろう。
Q-2 [自分の中の(理想の)女]と[お母さん]がそっくりな男は、マザコンと呼ばれる。(172頁)

R あなたと彼女が、初めて一緒に泊まった。彼女がメイクを落とし、補正下着を全部、脱いだ。それをみて[あなたの心の中の男たち]は、いっせいに「ウッ」となった。愛していても、そうなるのが男です。そんな時、[あなたの中の女]が強い女なら、「あんたたち、そんな顔するもんじゃないの!」と[あなたの中の男たち]をたしなめます。(177頁)
R-2 すると現実のあなたは、現実の彼女の前で「ウッ」という顔をしなくてすみます。そういう男が、モテます。(177頁)


[最初のピンクの表紙の本のあとがき](1998年)(二村ヒトシ、34歳)
S モテる男への道は、一生続くのだ。死ぬまでだ。ひー。(183頁)


[文庫版『モテるための哲学』解説](2002年)(上野千鶴子)
T あたしには、各分野に情報提供者(インフォーマント)がいて、情報をスクリーニング(よりわけ)してくれる。情報グルメになるため、大量の情報を消費し、カスとそうでないものをより分ける。グルメ(美食家)はグルマン(大食家)!一人で、全部読めるわけがない。(185頁)
T-2 そこで、情報提供者の登場。「これ読むといいよ!」と言ってくれる。その1冊が、この本『すべてはモテるためである』だった。(185-6頁)
U キーワードは「キモチワルイ」。「あなたは、なぜモテないか?ずばり、あなたがキモチワルイからである。」(189頁)
V 「あなたの居場所」とは「あなたが、一人っきりでいても淋しくない場所」です。(二村ヒトシ)「これ、ツボにはまったね。うーん、しびれました。」(上野千鶴子)(194頁)


第5章 モテてみた後で考えたこと(15年後、2012年、二村氏48歳)
A 「愛することによって自分が変わるのを、恐れない」のが、「大人になる」ということだろう。(209頁)
B 大人だということは、「もう、そんなに長い時間は残ってないんだから、なるべく他人を幸せにしよう」と考えることだ。(209頁)


[特別対談]国分功一郎×二村ヒトシ、この本は単なるモテ本ではない。実践的かつ、真面目な倫理学の本である。(2012年)
C ルソーの自然人は、誰かと一緒にいるのはイヤで、みんな好き勝手にブラブラしている。だから男女が出会って一晩過ごしても、翌朝には、何もなかったかのように分かれてしまう。(国分氏)(218頁)
D 自己肯定してない人間は、「今ある自分じゃないもの」になろうと生きるから、苦しい。(二村氏)(225頁)
E 今の若者のある層は「被害者意識を持ったまま、自分がモテないことをあきらめたままで、同時に加害者にもなろうとしている」。「冷笑的なネットの民」にも、「熱いネット右翼」にも共通しているように見える。(二村氏)(230頁)


[あとがき](236-7頁)
F AV業界人にとって代々木忠監督は、[偉大なる精神的指導者(メンターあるいはグル)]であり、[母]のような存在。
F-2 村西とおる監督は、[神(ゴッド)](創造主でなく、古事記やギリシャ神話に出てくるメチャクチャな神)で[父]のような存在。
F-3 女性の読者の皆さんへの言葉:「セックスしている時は相手の目を見よう、相手の名前を呼ぼう。」(代々木監督)

G 男性の読者の皆さんへの言葉:「おまんことは『ありがとうの心』でございます。」(村西監督)
G-2 「モテようがモテまいが、男なら、この言葉を胸にきざんで生きてゆけ。おれもそうする。ときどき忘れるけど、忘れるたびに痛い目にあうのだ。」(二村氏)

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『寝ながら学べる構造主義』内田樹(タツル)(1950生れ)、文春新書、2002年

2016-07-21 11:50:20 | Weblog
まえがき
A 入門書は「根源的な問い」を扱う。死、性、共同体、貨幣、記号、交換、欲望とは何かなど。
《評者の感想》:「心or他我とは何か?」が、「根源的な問い」に、例として挙げられていないのが、考えられない!「共同体とは何か?」の問いに、含まれるというのか?

第1章 構造主義前史
(1)構造主義の発想法に「みんなが飽きる」時代が来るだろう
A 私たちはいまだ「構造主義が常識である時代」にとどまっている。(19頁)
A-2 私たちは「偏見の時代を生きている」という構造主義の発想法から、逃れることはできない。(19頁)

B みんなが「マルクス主義的にしゃべるのに飽きた」ので、マルクス主義が常識の時代は終わった。(21頁)
《評者の感想》:連合赤軍リンチ殺人事件(1971-72)で、マルクス主義が、国内的に見捨てられたのが第1。そして第2に、1991年、ソ連邦が崩壊し、マルクス主義は世界的に捨て去られた。「マルクス主義的にしゃべるのに飽きた」から、マルクス主義が常識の時代が終わったわけではない。

C 構造主義特有の用語、システム、差異、記号などの言葉に、「みんなが飽きる」時代が来るだろう。(21頁)

(2)構造主義のポイント
D アメリカ人の立場とアフガン人の立場の「違い」について語りうるのは、比較的最近、ほんのこの20年の常識である。(22頁)
D-2 アルジェリア戦争当時、フランスとアルジェリアの言い分について、「どちらにも一理ある」と言ったのはアルベール・カミュのみで孤立無援だった。(24頁)

E 構造主義のポイント(25頁)
①自分の属する社会集団が受けいれたものだけを、選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。
②私たちが、判断や行動の「自律的な主体」であるのは、限定的である。自由や自律性は、限定的。

《評者の感想》
(1)だからと言って私たちは、社会によって全面的に拘束され、何の自由・自律的な判断・行動もできない奴隷ではない。
(2)私達は、自分が、社会的に拘束されていることに、批判的に対応できる。つまり私たちには、「理性」がある。
(3)現に、すべての人が、自分自身の言動として、自分に執着してしゃべり、他者を批判し競争し勝利し、金を稼ぎ、地位を得、自身の自尊心などの感情を保持し、生きている。この本の著者にも当然、当てはまる。私たちは、自分勝手で、自分中心な「主体」である。
(4)「自律的」ということが、「自分ですべて決められる」という意味なら、そのような「自律的な」主体など、これまで、どこにもない。
(4)-2 あなたの行動の源である気分・欲望・衝動・希望・情動・感情・情緒等が、「社会的に限定されている」からと言って、それらが、あなたという「主体」のものでなくなることはない。そもそも、「あなた」とは、気分・欲望・衝動・希望・情動・感情・情緒等そのものことである。
(4)-3 しかも、もちろん、あなたという「主体」は、あなた自身に属する・あるいはあなた自身であるそれらのものに、批判的に(=理性的に)対する自由・自律性を、保持する。
(4)-4 そもそも私なる主体は、身体という物理的条件に制約されている。死なねばならず、精神(=心)は身体という牢獄&道具の内にある。その限りで、私は完全な自由も自律性も、原理的に持たない。
(4)-5 私の自由・自律性は、身体、物理的世界だけでなく、さらに、社会的・文化的諸制度(これらは物理的世界・他我として現れる)によっても、制約される。
(5)繰り返しになるが、社会的・文化的諸制度(これらは物理的世界・他我として現れる)によって拘束・制約され、選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」ことに、私は、気づくことができ、批判することができる。私(=主体)がもつ「理性」、あるいは思考の「自由」は、偉大である。

(3)マルクス:主体性の起源は、「存在」にでなく、「行動」のうちにある。生産=労働のネットワークの「効果」として、様々のリンクの結び目として、主体が「何ものであるか」が決定される。
F マルクスは、帰属階級によって違ってくる「ものの見え方」を、「階級意識」と呼ぶ。
F-2 普遍的人間性、「人間」一般は、ない。(27頁)
F-3 人間の個別性は、「何ごとをなすか」(「行動すること」)で決まる。「存在すること」、「静止していること」としての普遍的人間性など、ない。(27頁)あるとしても「存在すること、行動しないこと」=「現状肯定」を正当化するイデオロギーである。(28頁)

G これを、マルクスは、ヘーゲルから受け継ぐ。ヘーゲルは、「自分のありのままにある」ことへの満足を否定。「命がけの跳躍」を試み「自分がそうありたいと願うものになること」、これこそが人間を動物から区別すると、ヘーゲルは述べる。(28頁)
G-2 人間は「彼によって創造された世界の中で、自己自身を直観する」。(マルクス)
G-3 「人間が人間として客観的に実現されるのは、(※「作り出す」活動としての)労働によって、ただ労働によってだけである」。(ヘーゲル)(29頁)
G-4 人間が「(※動物のような)自然的存在者以上のもの」であるのは、「人為的対象を作り出した後」だけ。(ヘーゲル)(29頁)
G-5 「動物は、単に直接的な肉体的欲求に支配されて生産するだけ」である。(マルクス)(28頁)

H そして「私を直観する」のは、他者とのかかわりとしての生産=労働の中に身を投じることによって、「他者の視線」になって「自己」を鳥瞰できることによってである。(30-31頁)

I 主体性の起源は、主体の「存在」にでなく、主体の「行動」のうちにある。これが構造主義の根本にある。ヘーゲルとマルクスから継承したもの。(32頁)
I-2 私が「何ものであるか」は、生産=労働のネットワークのどの地点にいるかで決まる。(ヘーゲル&マルクス)(31頁)
I-3 ネットワークの中心に主権的・自己決定的な主体がいるのでない。ネットワークの「効果」として、様々のリンクの結び目として、主体が「何ものであるか」が決定される。この構造主義の考え方は、「脱-中心化」、「非-中心化」と呼ばれる。(32頁)

(4)フロイト:「抑圧」のメカニズム(番人)により「無意識の部屋」から「意識の部屋」に入れないものがあるという(心的過程における)構造的な「無知」(34-35頁)
J 人間は、自分が何ものであるかを熟知し、その上で自由に考え、行動、欲望しているわけでない。(39頁)
①マルクス:人間主体は、自分が何ものであるかを、生産=労働関係のネットワークの中での「ふるまい」を通じて、事後的に知ることしかできない。(40頁)
②フロイト:人間主体は、「“自分は何か”を、意識化したがっていない(※抑圧)」という事実を、意識化できない。(40頁)
K かくて、人間的自由や主権性の範囲は、どんどん狭まっていく(①②)。(40頁)

(5)ニーチェ:「みんなと同じ」を善とし普遍妥当と信じる畜群・「笑うべきサル」
L 人間の思考は自由でない。外在的な規範の「奴隷」にすぎない。私たちに自明なことは、時代や地域に固有の「偏見」である。これらを、ニーチェは語る。(40頁)
L-2 「われわれは、われわれ自身を理解していない。」(ニーチェ『道徳の系譜』)動物と同じレベル。(41頁)
L-3 「いまの自分」から逃れ出て、想像的に措定された異他的な視座から自分を見るという「自己意識」(Cf.ヘーゲル)の欠如。(45頁)
L-4 同時代人は「臆断」の虜囚である。(45頁)19世紀ドイツのブルジョワは自らの偏見・予断を普遍的に妥当すると信じる愚物。(46頁)
M いかにして現代人はこんなにバカになったか?ニーチェの「系譜学的」思考。(46頁)
M-2 ニーチェ『道徳の系譜』:「善悪という価値判断」を人間は案出したが、人間の進展に役立ったか?(47頁)
M-3 功利主義者(ホッブズ、ロック、ベンサム)は、私権の保全のために、私権の一部を制限する善悪の規範(道徳)が成立したと言う。(47-50頁)
M-4 ニーチェは「大衆社会」の畜群(Herde)、つまり非主体的な群衆を、憎む。畜群における自己の「偏見」の絶対化。「畜群道徳」は「みんなと同じ」、「平等」、「同情」を善とする。(50-51頁)
M-5 他人と同じことをするのが「善」「幸福」「快楽」:畜群道徳!彼らは「奴隷」的存在者である。(53頁)
N 「畜群」「奴隷」の対極に「貴族」がいる。その極限が「超人」。(53-56頁)
N-2 「笑うべきサル」、忌まわしい永遠の「畜群」、「永遠の」をめぐるニーチェの超人思想は、暴力的反ユダヤ主義プロパガンダに帰結する。(57頁)


第2章 構造主義の始祖ソシュールと『一般言語学講義』
(1)「名づけられる前からすでに、ものはあった」のではない!
A 「ことばとは『ものの名前』ではない」(ソシュール)(61頁)
A-2 「名称目録的言語観」(「カタログ言語観」)をソシュールは否定する。(62頁)
A-3 ソシュールによれば、「名づけられる前からすでに、ものはあった」とするのは誤り!(62頁)

(2)概念(※もの)は、システム内の他の項との関係によって、欠性的に定義される
B 「概念(※もの)は、それが実定的に含む内容によってではなく、システム内の他の項との関係によって、欠性的に定義される。・・・・ある概念(※もの)の特性とは、『他の概念(※もの)ではない』ということに他ならない。」(『一般言語学講義』)(63頁)
《評者の感想》:ここでは、概念、意味は、「もの」と同義に使われている。

(1)-2 ことばがないと、概念(※もの)がない
C「ことばがないということは、概念(※もの)がないということ。」(高島俊男)(65頁)

(2)-2 語の「価値」(「意味の幅」)とは、言語システム中で、ある語と隣接する他の語との「差異」である
D 「語に含まれている意味(※もの)の厚みや奥行き」のことをソシュールは「価値」valeurと呼ぶ。いわば「意味の幅」。(65頁)
C-2 「語義」signification :“several”と「五、六」は「語義」としてはだいたい重なるが、「価値」は微妙に変わる。(65-66頁)
C-3 「価値」(「意味の幅」)は、その言語システムの中で、あることばと隣接する他のことばとの「差異」によって規定される。(66頁)

(1)-3 「ことば」と「もの」は同時に誕生する
C-4 ことばの「意味の幅」にぴたりと一致するものを「もの」と呼ぶなら、「ことば」と「もの」は同時に誕生する。(66頁)
D 非定型的な星々を星座に分かつように、ある観念(※もの)があらかじめ存在し、それに名前がつくのでない。名前がつくことで、ある観念(※もの)が存在するようになる。(67頁)

(2)-3 システム中の「ポジション」で事後的に決定されるもの&そのもの自体の生得的・本質的なもの
E 性質・意味・機能は、システムの中の「ポジション」で、事後的に決定される。そのもの自体の生得的・本質的な性質・意味は存在しない。(71頁)
E-2 すでに古典派経済学は、商品の「有用性」と区別し、“商品の「価値」が市場の需給関係で決まる”と述べた。(72頁)

(1)-4 私の中で語っているのは、私ではなく、ことばそのものが語る
F 「心の中にある思い」は、ことばで「表現される」と同時に生じた。心の中で独白する場合も同様。(73-74頁)
F-2 「心」「内面」「意識」は言語運用によって事後的に得られたもの。(73頁)
《評者の感想》:これは、内容の分節化のことを言っている。分節化されない「心」「内面」「意識」は、言語運用以前にも存在する。

G 詩人の「詩神」、ソクラテスの「ダイモン」!「ことばを語っているときに、私の中で語っているのは私ではない」。ことばそのものが語る。これこそ、言語運用の本質である!(73頁)

(1)-5 「私が語る」内容は、「他人のことば」の受け売り
H さらに言えば、私が確信をもってことばで語るとき、その意見は、「私が誰かから聞かされたこと」(私が習得した言語規則、語彙、聞きなれた言い回し、読んだ本の一部など)である。(73頁)
H-2 「私が語る」とき、語られている内容は「他人のことば」の受け売り。
H-3 純正オリジナルの自分の意見は、普通、ぐるぐる循環し、矛盾し、主語が途中から変わり、何を言っているのか分からなくなったりする。(74頁)

(3) 「自我中心主義」批判
I 「私のアイデンティ」は「私が語ったことば」を通じて事後的に知られる。そして、語られている内容さえ「他人のことば」の受け売り。(75頁)
I-2 「私のアイデンティ」、「自分の心の中にある思い」などあるのか?(75頁)

J 「自我中心主義」は、致命的にダメージを与えられる。(75頁)
①「自我」「コギト」「意識」が世界経験の中枢?そうではない!
②すべてが「私」という主体を中心に回っている?そうではない!
③経験とは「私」が外部に出かけ、いろいろなデータを取り集めること?そうではない!
④表現とは「私」が自分の内部に蔵した「思い」をあれこれの媒体を経由して表出すること?そうではない!

《評者の感想》
①分節されない「心」「内面」「意識」は、言語運用以前にも存在する。
①-2 1次世界一般における「他我」の出現or構成とともに、1次世界は分裂し一方で客観的物理世界、他方で「心」「内面」「意識」が、必然的に出現or構成されざるを得ない。現象学的知見における「他我」構成の問題領域を参照。
①-3 世界=有は出現する。しかも構造化されて出現する。それが超越論的主観性と呼ばれる世界=有の出現である。
②「心」「内面」「意識」には、一定の働き方がある。現象学がそれを本質的形式として叙述する。
③「私のアイデンティ」とは、気分・欲望・衝動・希望・情動・感情・情緒等である。
③-2 それらは、連続的時間的出現、蓄積、分節化=類型化(ことばによるもの、注視・意図など能動性によるもの、あるいは受動的なもの)、混乱、相互作用、習慣化=構造化等をこうむる全体として、存在する。

(4)構造主義の前史、第1、第2、第3世代(76-77頁)
K 構造主義前史:マルクス(システムの結び目としての人間)、フロイト(人間主体への構造的疑い)、ニーチェ(自由などウソ、外在的規範の奴隷・畜群としての人間)
K-2 第1世代:ソシュール(①ことばがないと、概念(※もの)がない、②概念(※もの)は、システム内の他の項との関係によって、欠性的に定義される、③「自我中心主義」批判)
K-3 第2世代:1920-30年代の東欧・ロシアの「ニューウェーブ」。プラハ学派(ローマン・ヤコブソンら)そしてロシア・フォルマリスム、未来派、フッサール現象学との異種配合。プラハ学派が「構造主義」と命名。
K-4 第3世代:1940-60年代フランス。「構造主義の4銃士」。
(1)文化人類学のクロード・レヴィ=ストロース(1908-2009):(a)親族関係は2ビット、(b)人間の本性としての贈与
(2)精神分析のジャック・ラカン(1901-81):(a)幼児と鏡、(b)ことばの贈与と嘉納による「共生」
(3)記号論のロラン・バルト(1915-80):(a)「零度の記号」or無垢のエクリチュール(ことばづかい)、(b)作者の死
(4)社会史のミシェル・フーコ―(1926-84):(a)系譜学的思考、 (b)社会制度としての身体


第3章 フーコーと系譜学的思考
(1)世界は別のものになる無限の可能性に満たされている&歴史を「生成の現場」にまで遡行する:『知の考古学』
A フーコーの仕事は、「今あるもの」が、「昔からあったもの」だとの思い込みを粉砕すること。『監獄の誕生』、『狂気の歴史』、『知の考古学』。(79頁)
A-2 制度や意味が「生成した」現場にさかのぼる。(80頁)
A-3 Cf. 「生成した瞬間の現場」=「零度」(ロラン・バルト)。(80頁)
A-4 構造主義とは、人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)について、「零度の探求」である。(80頁)
B フーコーは人間主義的進歩史観に異を唱える。「いま・ここ・私」が歴史の進化の最高到達点とする「人間主義」(一種の「自我中心主義」)批判。(80-81頁)
B-2 進化でなく退化でも、いずれにせよ「歴史の直線的推移」は幻想。(81-82頁)
C 世界は私たちが知っているものとは別のものになる無限の可能性に満たされている。(85頁)
C-2 「これらの出来事はどのように語られずにきたか?」(86頁)

(2)狂気の「生成の現場」:『狂気の歴史』
D 「歴史から排除され、理性から忘れ去られたもの――狂気――」(87頁)
D-2 正気と狂気の分離は17-18世紀の近代的都市・家族・国家の成立とともに始まった。(87頁)
D-3 近代以前においては、狂人が「人間的秩序」の内部に、正当な構成員として受容されていた。西欧中世では、信仰の重要性を証しする「生きた教訓」としての狂人が教化的機能を担った。(88頁)また「別世界から到来するもの」として歓待された。(90頁)
D-4 日本では「ものぐるひ」は、世俗と霊界を結ぶ「リンク」。(88-89頁)

E 17世紀になって狂人は非神聖化される。(90頁)
E-2 「理性」による狂気の排除。(91頁)Cf. 理性の時代における「魔術からの解放」(M.ウェーバー)
E-3 医師による治療の対象として、狂人を隔離。「知と権力」の結託。(91頁)

(3)一個の社会制度としての身体or「意味によって編まれた身体」(〈例①〉・・・・〈例⑤〉):『監獄の誕生』
F 知と権力は、近代において人間の「標準化」をめざす。その一つが、「身体」の標準化。
F-2 身体は、「意味によって編まれた」一個の社会制度である。「意味によって編まれた身体」!(92頁)
F-3 〈例①〉「肩凝り」は日本語話者に固有である。(93頁)
F-4 〈例②〉日本の伝統的な歩行法は「ナンバ」(右足前・右半身前、左足前・左半身前)で深田耕作に適す。明治維新後、軍隊行進のヨーロッパ化のため、学校教育で「ナンバ」廃止。(93-94頁)

(4)〈例③〉「国王二体論」:王は自然的身体と「政治的身体」を持つ
G 〈例③〉前近代の身体刑が残忍だったのは、刑罰が目指していたのが、「自然的身体」でなく「政治的身体」だったため。(96頁)
G-2 絶対王政期の「国王二体論」。王は自然的身体と「政治的身体」を持つ。王の政治的身体は政治組織・統治機構からなり、人民を指導し公共の福利を図る。(これもまた「意味によって編まれた身体」である。)(96頁)
G-3 大逆罪を犯した者が毀損した「王の政治的身体」の対極に、不死にして不壊の「弑逆者の政治的身体」を想定し、大掛かりな身体刑でそれを破壊する。それとともに国王の「政治的身体」の不可侵性を奉祝する。いわば「負の戴冠式」。(97-98頁)
H 〈例④〉騎士や殉教者が、戦場や火刑台で、恐るべき身体的苦痛を、ときに強烈な宗教的法悦や陶酔感とともに経験した。(98頁)
H-2 〈例⑤〉「フランス革命の大義」について徹底的イデオロギー教育をうけた兵士は、「苦痛を感じない身体」を持つ兵士となりうる。手足切断の手術を受けてすぐに戦場に戻った兵士!(99頁)

(5)〈例⑥〉国家は身体を操作する:身体の政治技術
I 〈例⑥〉-1 フランス近代における兵士の造型(100頁)
I-2 〈例⑥〉-2 山県有朋:農民兵の身体を「練習数月」で軍事的に「標準化」し、中央権力にに服さない士族兵の身体を「統御」する。西南戦争を勝利させた軍事的身体加工の成功。(101頁)
I-3 〈例⑥〉-3 森有礼の「兵式体操」の学校教育への導入(M19)。(102頁)
J〈例⑥〉-4 身体の政治技術が、「監視され、訓練され、矯正される人々」に適用される。「狂人、子ども、生徒、植民地先住民、生産装置に縛りつけられる人々」!(103頁)
J-2 身体の支配を通じて、精神を支配する。統御されていることを感知しない。(103頁)
J-3 〈例⑥〉-5 1958年から文部省が導入した「体育坐り」or「三角坐り」。(104-5頁)

(6)「カタログ化し一覧的に位置づける」ものとしての「権力=知」が産みだす「標準化の圧力」:『性の歴史』
K 19世紀になると、性的逸脱が「治療」の対象となり性的異常のカテゴリー産出。性的逸脱を「カタログ化し、一覧的に位置づける」情熱!(109頁)
K-2 さらに、もろもろの「性の言説化」(110頁)
K-3 「権力」とは、あらゆる水準の人間的活動を、分類・命名・標準化し、公共の文化財として知のカタログに登録しようとする「ストック趨向性」である。「カタログ化し、一覧的に位置づける」ことは、すでに「権力」である。(110-111頁)
L 「権力=知」の産みだす「標準化の圧力」。おのれの「疑い」そのものが「制度的な知」へと回収されていく。それへの不快を真骨頂とするフーコーの批評性。(111-112頁)


第4章 バルトの記号学:① 覇権を握った語法(エクリチュール)=「価値中立的な語法」の内に社会集団のイデオロギーがひそむ&②「作者の死」と「読者の誕生」
(1)徴候(自然的因果関係に基づく)、象徴(事実的連想に基づく)、記号(取り決めに基づく)
A しるし①徴候(indice):しるしと意味が自然的因果関係を持つ。Ex. 黒雲は嵐のしるし。(113-4頁)
A-2 しるし②象徴(symbole):しるしと意味が、事実的な連想で結ばれている。Ex. 天秤は裁判の公正のしるし。(114頁)
A-3 しるし③記号(signe): しるしと意味が、社会集団の制度的・人為的取り決め(「集合的な記号解読ルール」)で、結び付けられている。しるしは「意味するもの(signifiant、シニフィアン)」、意味は「意味されるもの(signifié、シニフィエ)」と呼ばれる。(114-6頁)
B ロラン・バルトは、あらゆる文化現象を、「記号」として読み解く。(117頁)
B-2 バルトについて(a)「エクリチュール」の概念、および(b)「作者の死」の概念について、以下、述べる。(117頁)

(1)-2 覇権を握った語法(エクリチュール)こそ「客観的ことばづかい」である&この「価値中立的な語法」の内にその社会集団の全員が共有するイデオロギーがひそむ
C 1960年代、バルトの「エクリチュール」の概念が、大流行する。(117頁)
C-2 言語の規則には①「ラング(langue)」と②「スティル(style)」がある。(118頁)さらに③「エクリチュール」(écriture)がある。(120頁)
C-3 ①ラング:「ある時代の書き手全員に共有されている規則と習慣の集合体」。「国語」にあたる。「言語共同体」はラングを共有する。ことばづかいの「外側からの」規制。(118-9頁)
C-4 ②スティル:個人個人の言語感受性、言語感覚。話すときの速度、リズム感、音感、韻律、息づかい等。書くときの文字のグラフィックな印象、比喩、文の息の長さ等。ことばづかいの「内側からの」規制。個人的な好み。(119-120頁)
C-5 ③エクリチュール:ことばづかいの第三の規制。集団的に選択され、実践されることばづかいの「好み」。「エクリチュールとは、書き手がおのれの語法の『自然』を位置づけるべき社会的な場を、選び取ることである。」(バルト)ことばづかいが、その人の生き方全体を、ひそかに統御する。Ex. 中学生男子のエクリチュール、おじさんのエクリチュール、教師のエクリチュール、やくざのエクリチュール、営業マンのエクリチュール(120-122頁)

D すべての語法(エクリチュール)は、覇権を争う闘争である。ある語法が覇権を手に入れると、それは社会生活の全域に広がり、無徴候的な偏見(doxa)となる。(121頁)
D-2 「価値中立的な語法」の内にこそ、その社会集団の全員が共有するイデオロギーがひそむ。Ex. 「覇権を握った性イデオロギー」(123頁)

E 読む「主体」は、簡単に「テクストを支配している主人公の見方」に同一化してしまう。(124頁)
E-2 テクストが、「主体」を変える。ものの見方の変化。(125頁)
E-3 テクストと読者の双方向的なダイナミズム。(126頁)(次節(2)読者の誕生と「作者の死」参照!)

(2)近代批評:(1)作者の「底意」(真に「言いたいこと」)を捜すことから、(2)「それと気づかずに語ってしまったこと」に照準を合わせ「作者に書くことを動機づけた初期条件」(=作品の「秘密」)を探すことへ
F 「作者」に「言いたいこと」があって、それが、作品を「媒介」として、読者に「伝達」されるという単線的図式。これをバルトは否定する。(126-7頁)
F-2 近代批評は、「行間」を読み、作者の「底意」(真に「言いたいこと」)を捜した。作者は、「この作品を通して、何を意味し、何を表現し、何を伝達したかったのか」を、批評家が問う。(127頁)
F-3 ところが、作者たちは「自分が何を書いているのか」、はっきり理解しているわけでない。(128頁)
《評者の感想》
①言葉が並べられている限りで、「言葉」&「その組み合わせ(=作品)」は、類型性(=一般性)を持つ。かくてそれら、が取り込む事象・感情には、一定の幅がある。その幅から、全く自由に、読み解けるとは思えない。
②「言葉」&「その組み合わせ(=作品)」が作者によって選び取られ、産出されたのだから、その選び取る行為を動機づけた「意図・感情」は存在する。意図・感情が「並べられた言葉」(=作品)を産みだした。「意図・感情」を問うことはできる。ただし、この「意図・感情」が、作者にとって「言いたいこと」として明確に把握されていたかどうかは、不分明である。

G (a)「言おうとしたこと」が声にならず、(b)「言うつもりのなかったこと」が漏れ出てしまう。(「それと気づかずに語ってしまったこと」がある。)これら(a)(b)が、人間が言語を使う時の宿命である。(128頁)
《評者の感想》
③「言葉」&「その組み合わせ(=作品)」は、類型性(=一般性)を指示する。つまり類似の(=類型的・一般的な)様々な事態を喚起する。
かくて(a)「言おうとしたこと」が声(=言葉)にならない(=言葉によって喚起・指示されない)ことがある。
あるいは(b)「言うつもりのなかったこと」(=事象・意図・感情)を、選ばれた言葉がかってに喚起・指示することがある。

H 批評家は、作者が「言おうとしたこと」の特定は、原理的に困難とわかり、かくて「それと気づかずに語ってしまったこと」に照準を合わせる。「作者に書くことを動機づけた初期条件」を探る。作品の「秘密」を探す。(128頁)
H-2 ①家庭環境、②幼児体験、③読書経験、④政治イデオロギー、⑤宗教性、⑥器質疾患、⑦性的嗜虐などが、作品誕生の「秘密」を教えてくれる。(128-9頁)
H-3 今もこれが、近代批評の基本パターンである。(129頁)
《評者の感想》:つまり選ばれた言葉(=「作品」)がかってに喚起・指示する類型的な事象・意図・感情((b))から、一方で「言おうとしたこと」を推定、他方でその「言おうとしたこと」を動機づけた類型的事態(作品誕生の「秘密」)を推定する。

(2)-2 「作者の死」と「読者の誕生」
I バルトは、「テクスト」(=「作品」)は「織り上げられたもの」・「テクスチュア」で、「その背後に何か隠された意味(真理)を潜ませている」ものではないとする。(129-130頁)
I-2 「作者は何を表現するためにこれを織り上げたのか」と問うことに、意味はない。(129-130頁)
I-3 主体は解体する。「作者の死」!(130-131頁)
《評者の感想》:バルトは作者もまた、読者の一人だと言っている。書かれた「作品」は変わらずにそこにある。「作品」の解釈において、作者の特権性は、原理的にない。(「作者の死」!)しかし「作品」を形として産出したのは作者である。

J 「テクスト(※作品)は、様々な文化的出自を持つ多様なエクリチュールによって構成されている。」(バルト) (131頁)
《評者の感想》
① バルトによれば、「作品」を形として産出した作者は、「主体」でなく、システムの結節点である。作品は、「主体」が産みだすのでなく、諸システム一般の帰結、つまり「様々な文化的出自を持つ多様なエクリチュール」一般であるとバルトは言う。
② “作者が「主体」でなく、システムの結節点である”と言ったところで、作者は作品を書き、それを売ってカネと地位を得て、いい生活ができるのなら、そしてそれを追求しているのなら、作者は「主体」であり続けるのではないのか?カネと地位と「いい生活」の快楽を感じる者こそ、「主体」である。
③ “快楽を感じる者つまり「主体」”が、システムの結節点だとして、だからと言って、“快楽を感じる者が「主体」である”という事実に何の変化もない。

J-2 「テクストの統一性は、その起源(=作者)でなく、その宛先(=読者)のうちにある。」(バルト)「作者の死」と「読者の誕生」!(131頁)
《評者の感想》
① バルトは、テクストの「解釈」(=「テクストの統一性」)について語っているにすぎない。
② すなわち、書かれた「テクスト」そのものは変わらずに、そこにある。テクストの形としての「書き換え」について、バルトは語っていない。

K “改造自由なインターネット・テクストは、上記のバルトの説そのものだ”と、内田樹氏。(131-3頁)
《評者の感想》
① インターネット・テクストは多数の作者の共同作業で、作品の「形」を変化させていく。
② しかし、バルトは、作品の「形」としての書き換えについては、語っていない。「解釈」の主体が、作者を含む読者であって、作者のみでないと言っているだけである。

(3)純粋なことば(「無垢のor白いエクリチュール」)という不可能な夢
L バルトは、「白いエクリチュール」、何も主張せず、何も否定しない、ただそこに屹立する純粋なことばという不可能な夢を持つ。(135頁)
L-2 これは、あるいは「エクリチュールの零度」、「直接法的エクリチュール」、「モードを持たないエクリチュール」、「ジャーナリストのエクリチュール」(ただし希求法、命令法などパセティックな語法を含まない)、「絶叫と判決文の中間」、「非情なエクリチュール」、「無垢なエクリチュール」とも呼ばれる。(135頁)
L-3 願望、禁止、命令、判断など主観の介入を完全に欠いた「白いエクリチュール」!バルトが生涯を賭けて追い求めた言語の夢!(135頁)

M バルトは、アルベール・カミュの『異邦人』の乾いた響の良い文体、「説明」せず「内面」に潜り込まない文体を「理想的な文体」と絶賛。(136頁)
M-2 しかしその文体が「美分の模範」として制度的語法となれば、もはや「白いエクリチュール」ではない。(136頁)硬直化し、使用者に隷従を強いる装置となる。

N バルトは、ジャーナリズムもだめ、『異邦人』もだめ、シュルレアリスムもだめ、ヌーヴォーロマンもだめ・・・・と、あらゆるエクリチュールの冒険に幻滅するが、最後に、日本の俳句と出会う。(137頁)
N-2 俳句は、「言語を欲情させる」ことがない、「言語を中断する」。(137頁)
N-3 ヨーロッパの言語は、対象を裸にして、すべてを露出させ、意味で充満させる。つまり語義を十全に解き明かすというヨーロッパ的解釈。(137頁)
N-4 俳句は解釈を自制する。(137頁)
N-5 「意味を与えて、解釈に決着をつける」ことの抑制が、「言語を中断させる」ことである。(138頁)
N-6 俳句の解釈は、禅僧が師から与えられる「公案」の解釈に似る。公案に一義的解釈はない。それを玩味し、「ついにそこから意味が剥落するまで、〈噛み〉続ける」ことが求められる。(138頁)

O 俳句は、「簡潔に語る」のではない。それは「短い形式に凝縮された豊かな思想」ではない。(138頁)
O-2 俳句は、「おのれにふさわしい形式を一気に見いだした短い出来事」である。それは「意味の根源そのものに触れる」。(138頁)
O-3 俳句こそ、「無垢のエクリチュール」への王道である。(バルト)(139頁)

P ヨーロッパ的な「意味の帝国主義」に対するバルトの激しい嫌悪。(138頁)
P-2 「みごとに説明しきること」、「何ごとについても理非曲直を明らかにすること」より、「無根拠に耐えうること」、「どこにも着地できない宙吊りになったままでいられること」を人間の成熟の指標とみなすという「民族的奇襲」を持つ日本人。(138-9頁)


第5章 クロード・レヴィ=ストロース:実存主義批判&贈与システム
(1)レヴィ=ストロース:構造主義の立場から実存主義(サルトル)を批判
A ソシュール直系のプラハ学派のローマン・ヤコブソンからヒントを得て、レヴィ=ストロースは、親族構造を、音韻論の理論モデルを使って、解析する。『親族の基本構造』(1949)、『悲しき熱帯』(1955)。(140頁)
B 『野生の思考』(1962)で、ジャン=ポール・サルトルの『弁証法的理性批判』を、痛烈に批判。実存主義の死亡宣告。(141-2頁)
B-2 フランス知識人は、「意識」や「主体」について語るのをやめ、「規則」と「構造」について語り始める。「構造主義の時代」が始まる。(141頁)
C 実存主義:「実存は本質に先行する」。どういう決断をしたかで、その人間が「何者であるか」(本質)が決定される。ある歴史的状況のもとで、断片的なデータと直観を頼りに決断する=「参加(アンガージュマン)」。ただし、主観的判断に基づき下した決断の責任は、粛然と引き受ける。(142-3頁)
D レヴィ=ストロース『野生の思考』によれば、世界の見方の差異は、「知的能力」によるのでなく、「関心」の持ち方の差異による。(147頁)
《評者の感想》
①人間の欲求の実現、すなわち自然の支配という点では、近代科学技術は、「野生の思考」の呪術的世界を圧倒的に凌駕する。自然の支配という「関心」は、「未開」社会でも「文明」社会でも同一。だから、この「関心」のもとでは、「文明」社会は、「未開」社会より圧倒的に優れている。
 ②しかし、人生の意味への「関心」については、「未開」社会も「文明」社会も、優劣がない。

D-2 あらゆる文明は、おのれの世界の見方こそ「客観的」である、つまり真の世界を捉えていると考える。(147頁)
D-3 近代科学技術を発展させた「文明人」は、「未開人」が、「主観的に歪められた」世界を見ているとみなす。(147頁)西欧的知性の「思い上がり」!(151頁)

E サルトルは「歴史」を、未開から文明へ、停滞から革命へ進む単線的プロセスととらえ、「歴史的に正しい決断を下す人間」と「歴史的に誤りを犯す人間」を峻別する。これに対しレヴィ=ストロースは、サルトルの見方は、「野蛮人」が自らの「物差し」で、「自分たち」の真の見方と「よそもの」の誤った見方を区別するのと、同じだと批判。サルトルの「自己中心性と愚鈍さ」!(148-9頁)
E-2 実存主義は、「歴史の名において、すべてを裁断する権力的・自己中心的な知」である。(レヴィ=ストロース)(150頁)
F サルトルは、レヴィ=ストロースの構造主義に対し、真の見方である実存主義の立場から「歴史の名において」死刑宣告を下す。サルトルは、全く、レヴィ=ストロースの批判を理解しない。かくて、実存主義の時代に、唐突な終わりが来る。(150頁)
F-2 サルトルは次のように言う。構造主義は、「ブルジョアジーがマルクスに対抗して築いた最後のイデオロギー的障壁」、「ブルジョワ・テクノクラートの秘儀的学知」、「腐敗した西欧社会」の象徴である。「ヴェトナムの稲田、南アフリカの原野、アンデスの高原」の「自由な精神」が、「暴力の血路」を切り開いて西欧に攻め寄せ、構造主義を叩き潰すだろう。(150頁)

(2)音韻論の発想法(2項対立の組み合わせとして構造(制度)を捉える)を親族制度に当てはめる:レヴィ=ストロース
G音韻論(phonology)あるいは音素論(phonemics)。(151頁)
G-2 音のアナログな連続体から、恣意的に切り取られ、集合的な同意に基づいて「同音」とみなされる言語音の単位を「音素」(phoneme)と呼ぶ。(152頁)
G-3 世界中の全言語の音素は、12種類の音響的、発声的問いを重ねると、カタログ化できる。(※《評者の注》2進法で12桁の数字、つまり12ビット(12の2項対立)、つまり2の12乗通り、計4096の音素!)(153-4頁)
H レヴィ=ストロースは、“2項対立の組み合わせで無数の「異なった状態」を表現する”という音韻論の発想法を、親族制度の分析に適用した。(154頁)

(2)-2 すべての親族構造は2項対立で表せる。(154頁)
I 2項対立①:①-1「父と息子」親密なら「母方のおじと甥」疎遠、構造①-2「父と息子」疎遠なら「甥と母方のおじ」親密。(155頁)
I-2 2項対立②:②-1「夫と妻」親密なら「妻とその兄弟」疎遠、構造②-2「夫と妻」疎遠なら「妻とその兄弟」親密。(155頁)
《評者の注》この場合の親族構造のパターンは、次の4通り:①-1②-1、①-1②-2、①-2②-1、①-2②-2
J 人間は、2項対立の組み合わせで複雑な情報を表現する。(156頁)

(3) 感情は、親族構造が作り出す 
K “人間が、社会構造を作り出す”のでなく、“社会構造が、人間を作り出す”。(157頁)
K-2 人間の「自然な感情」が親族構造を作り出すのでなく、親族構造(制度)が感情を作り出す。(157頁)
《評者の感想》
(a) “快楽の追求”、“人と人との平穏な関係の形成(戦争状態の回避)”という2目的(これらの基礎には、それら目的を肯定する感情がある)を目指す合理性は、人間にある。これらの目的・感情・合理性に基づいて人間は制度を変える。「信憑や習慣」は変え得る。
(b) そもそも制度は、繰り返される行為によってのみ、存在する。それら行為は、変わりうる。だから制度も変わる。「人間が社会構造を作り出す」ことが、当然、可能である。構造主義は、社会構造の変化の側面に言及しない。制度の静的な特性を、指摘するだけである。

(4)「贈与」とその「反対給付」(「返礼」)の制度=贈与システム
L レヴィ=ストロースは、親族構造(制度)は、「近親相姦を禁止するため」に存在すると言う。(158-9頁)
L-2 近親相姦の禁止のもとでは、「男は、別の男から、その娘またはその姉妹を譲り受けるという形式でしか、女を手に入れることができない。」(レヴィ=ストロース)(159-160頁)
L-3 「女を譲渡した男と女を受け取った男とのあいだに生じた最初の不均衡は、続く世代によって果たされる『反対給付』によってしか均衡を回復されない。」(レヴィ=ストロース)(160頁)

M この「反対給付」の制度は、知られる限りのすべての人間集団に観察される。(160-1頁)
M-2 何か「贈り物」を受け取った者は、心理的な負債感を持ち、「お返し」をしないと気が済まないという人間に固有の「気分」に動機づけられた行為が、この「反対給付」の制度を形作る。ただし「お返し」は第3者に対して行われる。(160頁)
M-3 ポトラッチにおける贈与と返礼の往還。(161頁)

N 贈与システムの社会的「効果」
N-2 社会システムは、変化し続ける。新しい状態が作り出されることもあれば(「熱い社会」Ex. 近代社会)、ぐるぐる循環するだけのこともある。(「冷たい社会」Ex. 「野生の思考」の社会)(162-3頁)

O レヴィ=ストロースは、人間が3つの水準でコミュニケーションするという。①サーヴィスの交換(経済活動)、②メッセージの交換(言語活動)、③女の交換(親族制度)。(163-4頁)
《評者の感想》:女の交換とは、ずいぶん男中心の一般化である。
O-2 与えたものが何かを失い、受け取った者は反対給付の責務を負う。たえず不均衡を再生産するシステム。(164頁)
O-3 ただし返礼(反対給付)はピンポンのように行き来するのでなく、別の男に贈与(返礼)がなされる。(164頁)

(4)-2 人間のあらゆる社会集団に共通のルール(165頁)
P レヴィ=ストロースは、社会集団ごとに「感情」・「価値観」が多様だが、他者と共生してゆくための普遍妥当的ルールがあると、考える。(165-6頁)
①「人間社会は、同じ状態にあり続けることができない。」(165-6頁)
②「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない。」(165-6頁)
《評者の感想》
(1)人間が「他者と共生してゆく」ことは目的・価値である。それら目的・価値が定立されるのは「他者との共生」を肯定する感情があるからである。あらゆる行為(定立された目的の実現行為)の基礎には、それを支える感情がある。
(1)-2 あらゆる構造・制度は、人間に普遍妥当的な目的・価値、つまり「他者と共生してゆく」ことを前提している。そしてその目的・価値は、人間に普遍妥当的な感情、つまり「他者との共生」を肯定する感情に支えられている。


第6章 ジャック・ラカン:「鏡像段階」の理論、「偽りの記憶」の共作としての精神分析
A ラカンは、「フロイトに還れ」と言う。(168頁)
A-2 ここでは「鏡像段階」の理論と「父-の-名」の理論を紹介する。(168頁)
(1)ラカンの「鏡像段階」の理論:「鏡像」による自己の対象化
B 人間の幼児は生後6カ月位になると、鏡像に興味を抱くようになり、やがて強い喜悦の感情を持つ。(168頁)
B-2 ある種の自己同一化。主体が、鏡像を引き受け、主体内部に起きる変容。おのれの鏡像を、〈私〉の象徴として引き受ける。象徴作用の原型。(169頁)
B-3 ①「鏡像」による自己の対象化は、②「他者との同一化の弁証法を通じて〈私〉が自己を対象化すること」にも、また③「言語の習得によって〈私〉が、普遍的なもの(※言語)を介して、主体としての〈私〉の機能を回復すること」にも、先行する。(169頁)
C 生後6か月の幼児においては、身体はまだ統一されていない。「運動のざわめき」、原始的な混沌、寸断された身体という心像。「原初的不調和」!(170頁)
《評者の感想》
① 幼児においては、「身体はまだ統一されていない」とはいっても、触覚における自他の境界は常に形成されている。再帰的な、つまり自他が入れ替わる卓越した境界面が形成される。その境界面に囲まれた内側が身体である。
② “自”とは、絶えず到来する今における中心、「ここ」のことであり、また痛みがある「ここ」、触れることができる「ここ」、そして欲望に指示されて動く「ここ」物体である。“自”は、境界面で“他”に触れるが、触れられた“他”なる境界面は、普通は“他”であり続ける。ところが、その“他”が同時に“自”に転換することがある。自他が入れ替わる卓越した境界面!この境界面に囲まれた内側が身体である。
③かくて身体として“自”は、構成される。触れられるものとして対象化されつつ、触れる主体でもある特殊な物体としての身体は、自他が入れ替わる卓越した境界面に囲まれた内側として、対象化されている。主体と対象の相互転換が生じる特殊な対象が身体である。
④幼児が鏡像に興味を抱くのは、鏡像が、すでに対象化されている身体の象徴だからである。鏡像が自己を対象化するのでない。自己(“自”)は、すでに身体において対象化されている。幼児は、すでに対象化されている自己(“自”)としての身体に、類似する鏡像に興味を持つのである。

C-2 幼児の「原初的不調和」は鏡像を見て、統一的な視覚像として一挙に「私」を把持するとラカンは言う!(170頁)
《評者の感想》:これは誤りと思う。
(a)「私」=自己(“自”)は、すでに身体において対象化されている。幼児は、すでに対象化されている自己(“自”)としての身体に、類似する鏡像に興味を持つだけである。
(b)鏡像において、初めて、「私」=自己(“自”)が対象化されるのでは、断じてない。

D 自分の外部にあるもの(「鏡像」)を「自分自身」と思い込み、それに憑りつくことで、かろうじて自己同一性を立ち上げると、ラカンは言う。(172頁)
《評者の感想》:こんなことは、ありえない。
(c)ラカンは視覚の優位を主張するが、触覚こそ根源的である。触覚が、延長ある物を成立させる。視覚は触覚を補足する幻影の様なものである。
(d)また鏡像は、常に“他”としてしか存在しない。つまり鏡像は、“他”なる鏡の上に存在するだけ。“自他が入れ替わる卓越した境界面”は、鏡には、現れない。鏡&鏡像は、“他”でしかありえない。“自他が入れ替わる卓越した境界面”に囲まれた自己(“自”)である身体こそ、「私」の最初の対象化の産物である。

(2)精神分析:「偽りの記憶」を共作し、症状が消滅すれば、分析は成功
E 精神分析では「自我」は、治療の拠点にならない。(173頁)
E-2 「自我」は、「おのれが正気である」と前提する。しかし「自我」の「知」も、神経症的病因から誕生した「症候形成」かもしれない。(173頁)
E-3 精神分析が足場として選ぶのは、「ことば」の水準、「対話」の水準、あるいは「物語」の水準である。(173頁)

F 「番人」が追い返していた「抑圧された心的過程」を「意識の部屋」に連れ出せば、症候は消失する。(フロイト)(174頁)
F-2 「意識化」とは、要するに「言語化」である。(174頁)

G 被分析者は、「〈ほんとうの自分〉についての物語」を語る。しかし、これが「真実」だというわけではない。(174-5頁)
G-2 被分析者は、自分が何ものであるかを知り、理解し、承認してくれる「聞き手」を必要とする。(175頁)
G-3 患者が「思い出したもの」が、「症状の原因」でなく「新しい症状」であることもある。(176頁)
G-4 「無意識の部屋」の「昔のまま」の記憶がよみがえるのではない。記憶とは、「思い出されながら“形成”されている過去」である。(177頁)

(2)-2 「主体」の2つの極:①絶えず逃れ去る「自我」&②語られている物語の主人公としての「私」
H いくら語っても、その「思い出したもの」で、被分析者は、おのれの中心の「あるもの」(「探しているもの」)に達することは、できない。精神分析の対話における、構造的な「満たされなさ」!(179頁)
H-2 しかし、被分析者と分析家の間で創作・承認された「物語」のなかで、「私」という登場人物のリアリティが増してゆく。(179頁)
H-3 患者の内部にわだかまる「何か」が、症状という「作品」(つくりもの)となる。被分析者と分析家が共作する「物語」(「抑圧された記憶」)も、一つの「作品」(つくりもの)である。精神分析は、「あるつくりもの」を、「別のつくりもの」に置き換え(übertragen)、病的症状を軽微にする。これが「無意識なもの」を、「意識的なもの」に翻訳する(übertragen)というフロイトの技法である。(179頁)
H-4 これは「真実を明らかにする」のではない。「偽りの記憶」を共作し、症状が消滅すれば、分析は成功である。(181頁)

I 分析家と被分析者のやり取りは、物語世界を構築するが、それは「現実の再現」、「想起」、「真実の開示」ではない。それは、象徴化作用、「創造行為」である。(183頁)
I-2 被分析者は、他者(分析家)による「承認」を目指して、過去を思い出す。(184頁)

J フロイトは、主体の2つの極を区別する。①「自我」:主体による自己規定・自己定位のことばから常に逃れさるもの、そしてことばを語ることを動機づけるもの、それが「自我」である。②「私」:相手のいる対話の中で、主体が「前未来形」(相手による承認をめざすこと)で語っている物語、その主人公が「私」である。(185-6頁)
J-2 主体は、「自我」と「私」の2極間を行きつ戻りつしながら、両者の距離を縮小しようとする。分析家は、それを支援する。(186頁)

(3)「不条理で強大なもの」(「父」)に屈服する能力を身につけること(つまり「大人」になること=「成熟」)が、エディプスというプロセスの教育的効果である
K 他者と言葉を共有し、物語を共作すること。これが人間の人間性の根本的条件。これが人間の「社会化」プロセス。すなわち、「エディプス」。(187頁)
K-2 「エディプス」とは、①子どもが言語を使用するようになること、「人間の世界には、名を持つ物だけが存在し、名を持たぬものは存在しないこと」を父から教えられること(「父の名」)。また②子どもと母親との癒着が父親によって断ち切られること(「父の否」)。(187頁)
K-3 「父の否=父の名」。癒着したものに②「切れ目を入れること」と①「名前をつけること」は同じ一つの身ぶり。(187頁)
K-4 つまり①「記号による世界の分節」(ソシュール)と②「近親相姦の禁止」は同じ一つの身ぶり。(188頁)
L 言語の習得(①)とは、「私の知らないところですでに世界は分節されているが、私はそれを受け容れる他ない」。子どもの絶対的受容性、つまり「世界に遅れて到着した」こと。(188-9頁)
L-2 どういう基準で差異化・分節がなされたか、それを「遡及的に知ることができない」という人間の根源的な無能。あるいは「不条理」。(190-191頁)
L-3 子どもは、エディプスを通過して「大人」となる。「不条理で強大なもの」(「父」)に屈服する能力を身につけること(「成熟」)が、エディプスというプロセスの教育的効果である。(193-194頁)

(3)-2 「贈与と返礼の往復運動」としてのコミュニケーション
M 「正常な大人」は二度の自己欺瞞(「詐術」)をうまくやりおおせたものの別名。(a)(1度目)鏡像段階において「私でないもの(鏡像)」を「私」と思い込み「私」を基礎づけること。(b)(2度目)エディプスにおいて、おのれの無力と無能を、「父」の威嚇的介入の結果であるとして「説明」すること。(195頁)
M-2 精神分析の治療は、(b)エディプスの通過に失敗した非分析者を対象とする。Cf. (a)鏡像段階を通過できない者は、「私」が存在しないので、そもそも精神分析に、たどり着かない。(195頁)
M-3 精神分析は、分析家を「父」と同定し、「自分についての物語」を「父」と共有し、「父」に承認してもらうプロセスである。(195頁)

N 精神分析で重要なのは、分析家における、被分析者の言説の「理解」でなく、「返事」である。(196頁)
N-2 精神分析では、ことばの贈与と嘉納が重要で、「内容はとりあえずどうでもよい」。「ことばそれ自体」に価値がある。ことばの贈与と返礼の往還の運動を、くりかえすことが重要。(196頁)
N-3 精神分析の目的は、症状の「真の原因」を突き止めることではない。「治る」ことが目的。「治る」とは、コミュニケーションの不調に陥っている非分析者を、再びコミュニケーションの回路に立ち戻らせることである。(196頁)
N-4 かくて精神分析で「治る」とは、停滞しているコミュニケ―ションを、「物語を共有すること」によって再起動させることである。これは他者との人間的「共生」において、常に採用している戦略でもある(197-8頁)
N-5 コミュニケーションとは、「他の人々とことばをかわし、愛をかわし、財貨とサービスをかわし合う贈与と返礼の往復運動」のことである。

《評者の感想》
① 一般に、コミュニケーションにおいて、内容が「どうでもよい」ということは、ありえない。パスポートの内容、身分証明書の内容、預金通帳の金額、契約書の内容、法律の内容等々が、「どうでもよい」ことは、全くありえない!
② 著者は、コミュニケーションを肯定的にとらえているが、コミュニケーションは、殺戮に終わることもある。戦争も、人と人との関係だからコミュニケーションである。この場合には、「贈与と返礼」の概念を使うなら、殺すことは「負の贈与」である、報復は「負の返礼」である。
③コミュニケーションについて、「贈与と返礼」と、特別に名付ける意味はどこにあるのか?「相互作用」一般とどこが違うのか?
④「贈与」の概念の重要な点は、贈与されたものが「退蔵」されてはならず、第3者にさらに贈与されねばならないことである。かくて社会の富の平準化が達成される。

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