お寺さんぽ Ver.03

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歴史を動かした手紙 (歴史さんぽ)

2006年03月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は「歴史さんぽ」の第二回なんですが…民主党。

民主党は他愛ないメール一つで大混乱ですねぇ。
まあ、あんな不確かな情報を信じてしまったのが運のツキでしょう。
永田くんはとりあえず神妙に謝罪してましたが、その程度でいいんですか~。
まあ、自民もあまり深く調べられるのは具合悪そうですが。

先の会見から、全く裏をとっていないことが分かりました。
そんなんが議員ですよ。
人を信じるのはとおっても素敵なことですが、状況と立場をよーく考えるべきです。
雰囲気的には「宇宙人がいた」ってのを国会で発表したのと同レベルに見えます。
ほら、宇宙人って確認は誰もしてないけど、何処かにいそうではあるでしょ?
そんなん。

代表の前原さんも「党首討論おたのしみに」とか言ってませんでしたっけ。
その強気がどこから出てきたのか……正直知りたいところです。
辞める辞めないはもうどうでもいいですが、この程度中学生レベルの問題かと思う
んですけど。いっそ皆さんそこから出直されてはどうでしょう?

さて、前置きが長くなりました。
こうした手紙(メール)ですが、その影響は当然ながら昔も非常に強いものでした。
今日は歴史を知って気をつけよう!ってな話です。

戦国時代、天下統一目前の織田信長でしたが、家臣明智光秀の謀反により、
京都本能寺で横死。
光秀はすかさず空いた畿内を支配下にしつつ、仲間を募るべく方々へ伝令をだし
ました。今で言うメールの一斉送信ですね。
そのうちの一つは中国の大大名、毛利氏へ送っていました。

当時の毛利は名高い毛利元就はすでになく、孫の輝元を当主としておりました。
その勢力は九州の一部から中国地方一帯にまで拡大し、織田勢と激戦を繰り
広げていました。
派遣された織田方の総司令官は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)。
彼は三木、鳥取の各拠点を次々に陥落させ、さらに高松城まで進んでこれを水攻め
にしておりました。
毛利は大苦戦の状況だったわけです。

さて、光秀の密書を携えた伝令は闇夜に紛れ毛利の陣へ…………と思ったら、これが
なんと”間違えて”秀吉の陣へ行ってしまうんですね。
それがために秀吉はいち早く信長の悲報に接することができ、毛利と講和の後に兵を
大返しする大技を繰り出すのです。
(当然、情報の真偽は確認してますよー。おそらく現代では不可能な方法ですけど)

結果、主人の敵討ちをしたことで、それまで織田軍団ではナンバー四(注)くらいだった
秀吉は一躍トップクラスになるのでした。

この事件は秀吉による天下統一の根本なんですね。
もし、手紙がちゃんと毛利氏の元へ届いていたなら…また違う歴史が展開されていたで
あろうことは間違いありません。

と、一つの手紙が、ちょっとした手違いが後の歴史を大きく変えた実例として紹介して
みました。まぁ、手紙つながりということで。
意味的にはちょっと異なりますが…ちゃんとしようね、民主党。


(注)当時の織田軍 えらい人ランキング
①柴田勝家②明智光秀③丹羽長秀④羽柴秀吉⑤滝川一益⑥池田恒興 …かな??
一応同盟者ですが、ほぼ配下のような家康を入れるなら彼がトップ。
息子を入れるなら長男信忠(同時期に二条城で圧倒され自害)が2~3あたりでしょうか?
ここはひでるさんの考えだけなんでそのように。別案あればコメントへどうぞ。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
なるほど (京都検定ブログ人)
2006-03-03 12:54:02
 おもしろい。これこそ、歴史から学ぶですよね。光秀のメール一斉送信っていうのがいい。一つが、アドレス間違いで秀吉に行っちゃたてことですもんね。ちなみに、家康はメール大好き人間だったと・・・。(笑)ではー。
返信する
ありがとうございます (ひでる)
2006-03-04 00:39:31
京都検定ブログ人さん、コメントありがとうございます。

そう、一斉送信は会社とかでもよくやるんですが、ちゃんと確認しておかないと予想外の人にまで届いたりするんですよねー。

きをつけないと。

返信する