どんな「制度・仕組み」があっても、人は必ず裏をかこうとする、ものです。
「制度・仕組み」に関する最近の話題としては
何と言っても「象徴天皇の生前退位」が大きいでしょうか。皇室典範に取り決めがないまま、高齢の天皇に公務という負担を強いているのも、これまた奇妙な「公平性」と言わざるを得ません。
象徴天皇の生前退位をどのように決めるかは、確かに難しい問題ですが、難しいからと言って
- 取り決めをしないままにしておく(事実上の禁止)
- 決定を先延ばしにする
のもまた、法の抜け道を用意していると受け取られてしまいます。
「象徴天皇」とはいえ
高齢のため体調を崩したときに、その崩し具合を判断するのが「医者」ですから、いくら複数の医者の判断だとしても、医者の判断次第でどの公務を欠席するかが恣意的に決められる心配があるからです。ここでは、
- 担当医の自由意志
- 担当医師へかかる外部からの圧力
などを想定しています。これらから
- 担当医師の自由意志と見せかけた外部圧力・・・・・・これが歴史上しばしば見られる「自由意志を装った物語」。
- 外部からの圧力と見せかけた本人の演技・・・・・・上の逆と言えますが、自分で判断できずに他人の責任にしてしまうもの。これまたよく見られます。俗な表現では「責任のなすりあい」ですね。
現在の皇室典範でさえ
象徴天皇の、「生前退位」の規定がない、つまり「生前退位」を認めていないのには、様々な理由があると思われます。
過去の天皇・将軍などの場合には、全権力の問題であり、関係者の生死(失脚や出世)・富裕度が関係していますから、それはそれは血みどろの醜い争いだったことでしょう。
それらを踏まえての現在の規定なのでしょうが、時代が変われば法律にも不備が生じるものであり、絶対に変更してはならない、のではなく「誰もが納得できるような皇室典範」への改正を目指すほうがよろしかろう、と思います。
とはいえ、生前退位を認めたとしても、同じようなことが起るのではないか、と反論するかたもいらっしゃるでしょうが、しかし
①元気な時の不可抗力としての公務欠席
②元気ではない時の不可抗力としての公務欠席
を混同してはいけないと思います。外部の恣意をできるだけ排除できるような仕組みのほうがいいと思われます。
同じように私が心配しているのは
巨大与党の存在と、それを許している野党です。
- 与党が国政選挙で高い支持率を得たことによって「独裁への危険」が芽生え始めた、と同時に
- 中国の横暴に触れないまま「戦争法はんた~い」としか言えない野党の旧態依然とした危うさ
も散見されます。
皇室典範について詳しくない私ですが
- 皇位継承第1位としての皇太子についての記述がどうなっているのか、直系の男子であることの可否・善悪はどうか。
- ①「生前退位」の制度がないのに起る恣意と、②「生前退位」の制度がある場合に起る恣意、について「象徴天皇」の観点から議論する必要があろうかと思います。
- 法治国家らしく、「退位」の規定があってもいいのではないか、と思います。
想定する心配は
皇室典範の改定を隠れみのにした憲法の恣意的改変
実際に
先の参議院選挙の前には「憲法変更」に触れずにすすめ、多数を得たことがわかった選挙後に「国民の支持があった」として「憲法」に触れ始めようとしたのには、違和感があります。
堂々と憲法改正を主張して多数を得るのが、常道であり、そうでなければ物事を複雑にしてしまう心配があります。
いまのところ生前退位は難しいとする見方があるでしょうが、これを制度化する方向が必ずでてくるでしょうし、そのどさくさに紛れて憲法を改正する動きも、これまた間違いなくでてくると思われます。
念のために言っておけば
私は、憲法を「絶対に触れてはならない」とみなすのではなく、堂々と議論するほうが法治国家としては「安全」だと考えています。
これに反対する人、すなわち「憲法改正絶対反対」「憲法には絶対に触れてはいけない」「今なぜ憲法改正か」と唱える人は、現代の日本を、法治国家ではないと見なしているのでしょうか(笑)。
私には、まったく他意はなく、憲法改正についても、
- 特に積極的に進めるべきだ、とも思いませんが
- 憲法には触れてはならない、にも法治国家として違和感がある
のでした。
この私の姿勢には、何も悪びれることがありませんが、憲法改悪反対/憲法改正賛成、それぞれの陣営に属する人から見たら、きっと「もの足りない」のでしょう。
それでいいのです、私には私の、ささやかですが、自分なりの考えがあるのですから(笑)。
最後になりましたが「生前」というのも不思議な言葉ですね。
- 「死後」の世界というのがありますが、これは「死んだ」「後(あと)」の世界のことですね。
- ならば「生前」は、「生きる・生まれる」「前」のこと、前世のことなんでしょうか。
- ある人が死んだ時点を基準として、「死後」と「生前」とに区別したいのでしょうが、どうもぴったりしません。両方の言葉が同時にうまれたのではなく、日本語としての整合性を十分に考えているとは言えないように思うのです。
- こんな疑問をもつという「原理主義的」な思考がないのが、いいも悪いも、日本語の特徴なんでしょうか。
すでに
生前贈与など「生前」という言葉が定着しているとは言え、「生前」よりは「死前(しぜん)」のほうが自然(しぜん)かも(笑)。
「生前退位」に代わる「死前退位」では縁起が悪い?(笑)。
ある疑問を提起しても、関係のない自分なりの定義を持ち出すことが多く、ピンときません。できるだけわかりやすい言葉遣いを考えたいものですね。
原理主義を排除したことで、いい面があったことでしょうが、たまには挑戦してみるのもいいかと思っています。
さてさて、皆様はどう思われますか。