当ブログでは
中国のありのままを率直に述べてはおりますが、かといって、中国を嫌って述べているのではありません。誤解のないようにお願いしておきます。
ですから
- 「いつから中国が嫌いになったのですか」などと言わないで下さいね(笑)。
- そんな質問をするかたが、「事実を述べること自体が、嫌っている証拠」と決め込んでいるように思われ、当方としては大いに戸惑ってしまうのです(笑)。
多くの人が言います。
- 「好き」ならば、事実を言うはずがない
- 「好き」ならば、欠点を言うはずがない
- 「嫌い」だからこそ事実を言うのだろう
- 「嫌い」だからこそ欠点を言うのだろう
はたして、そんなものでしょうか(笑)。
誰でも最初は
白か黒か、賛成か反対か、敵か味方か、好きか嫌いか、「わかりやすく判断」しがちですが、徐々に細かいことまでわかってくるようになると、「一言では言えなくなる」ものなんですね。
たとえば三味線を例に挙げると
何も知らない段階では、津軽・長唄・京・地歌・沖縄などの三味線が、みな同じように聞こえてくるものです。
しかし関心の度合いが深まるにつれ、少しずつそれら楽器が違った楽器のように響いてくるはずです。
さらに、そこで大きく2通りに別れます。
- 1つに没頭しようとする(必然性がある)
- 全体的に深めようとする(必然性がない)
どちらも正しいでしょうが、前者はしばしば「専門家」と呼ばれ、多くは営利や名誉を求めて何かを「専攻」しますが、後者の場合そんな縛りはありません。
日常のことや国際関係でも、「専門家」はしばしば何らかの「利益」を求めて行動するものですが、そうではない立場の方が自然で気楽なんです。
中国に関して言うならば、もちろん先日の「仲裁裁判所の判断」を取りあげなければなりません。
- それぞれフィルタを通して報道されることを、しっかりと自分の目で見つめ直す必要があります。ただし、「報道のフィルタ」に気づいている人は、もうそれで立派です。
- 「報道のフィルタ」とは、うぬぼれ過多の中国共産党の見方、そしてそのうぬぼれを嫌う反中国共産党の見方、のことです。
- いや現実は逆であり、各人が自分の考えを築くために、色の違った各紙報道や各局番組がある、のかも知れません。ここまで言えるなら、すばらしいですね。
そして「言論の自由」は
自分の考えを築くために、最初に必要です。
国や地域によっては、報道が一色に染まっていることがあります。
「異論がないのはおかしい」と考えて、できるだけたくさんの情報源を得て、自分の力で判断し、自分なりの考えをまとめていきたいものです。
その意味では
- 「言論の自由」が満たされていると思っている人こそ、そこに安住してしまう危険があり
- 「言論の自由」がない環境にいる人のほうに、切実で崇高な視点がある、のかも知れません。
つまり、
- 環境が悪いほう:まだマシで
- 環境がいいほう:腐敗しがち
ということになります。たしかにそういう面もあると、納得するしだいです。
- ▲総選挙なるものが存在せず選挙権がない中国の香港で、若者が自分たちの代表を自分たちで選びたいとして、選挙権を求めて激しく行動しています。しかしそれは許さない、中国の全ては中国共産党がしきるのだとして、中国共産党による弾圧が、繰り広げられます。
- ▲一方では、住民票と共に一定年齢以上の人に選挙権が発生し、選挙前には自動的にお知らせが来るのに、自らその選挙権を放棄する人が半分くらいいる日本。
これらから、何かが、見えてきそうですね。
さてさて、皆様はどう思われますか。