私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

良質な本を読む

2015-11-08 15:09:20 | 日記

November 8, 2015

新聞の書評の中の言葉、「遠くに何かが見えることを感じながら、ひとは「最低」を生きる」(朝日新聞、評者・宮沢章夫)に興味を覚えて図書館に予約した本、滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』(新潮社)が届いたので、読んだ。良質な読みものだった。著者は、1982年生まれとのことで、若い。作品の中では、遠景として、ニューヨークのテロや福島の原子力発電所が描かれ、中年になってからの回想ではあるが、近景として、東北をバイクで走る途中で出会う出来事、人、また記憶の中に登場する人物が語られる。近景は、若者のいい加減さと刹那的な感情のままに暮らす生活が描かれていて、それが、「最低」という言葉でも語られる。私の孫といってもいい年齢の作家の本ではあるが、妙に自分の20代の頃の生活感覚がよみがえってくる。同時に、もちろんこれは小説の中での話であるが、冒頭に引用した評者の言葉が胸に突き刺さる。遠景を感じながら「最低」を生きるという点では、年代に関係なく現代の私たちが抱えている状況などだと思う。ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスは聞こえてこないが、主人公の高校時代の美術の教室の描写が、油絵を習っていた頃の記憶をよみがえらせてくれた。時は過ぎていく。次に、少し引用させていただく。

 房子が迷わず、最高、好き、と応えたのはゴーギャンだった。私はその画集を家に持って帰った。我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか。という変な題名の絵を見ながら、私は絵のことよりもその題名のことを考えた。その頃の私の世界は、私と房子と新之助がほとんどすべてだったから、我々と言えばその三人で、その三人がそれぞれに違うと言っても、そんなにたいして違いはなくて、同じところから来て、同じところに行く、同じ者だと思っていた。あとから考えればそんなのは浅はかだけれど、あとから考えてどう思うかはその時には関係ないし、当たり前だけどわからなかった。浅はかだったならその浅はかさがその時で、それが哀れなら哀れなのがその時だったが、浅はかとも哀れとも気づかずに、いやそんなことは全然考えもせずに、その時自分は不足や不満を抱えながら満ち満ちに満ちていた。(滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』新潮社)

同じように活字を追いかけてはいても、読書は点訳とは違う。上等な小説を読んだ後は、最近ふと感じるわけのわからない不安が消えていくように思える。本書と同時に図書館で借りてきた岩城けい『さようならオレンジ』(筑摩書房)を読んでいる。これは、今世界が抱えている難民問題を扱った物語だ。この本についても書きたかったが、いつも日曜日に見ているNHKテレビのミステリ「刑事フォイル」が始まりそうなので、別の機会にしよう。

画像は、妹のメールから、「野葡萄」。


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