November 21, 2016
11月19日(土)
「寛解」という言葉を使っていいのかどうかわからないが、10月13日に患った胸椎椎体骨折について、今日病院で診察を受けて、すべての鎮痛剤と張り薬から解放された。コルセットはまだ少し装着していなければならないようだが、レントゲンの結果で、これも近いうちに取りはずすことができそうだ。残るは骨量を増やし骨を強くするという皮下注射を今後2年近く週1でで受けることだけが残っている。月をまたいでちょうど1ヵ月余、ベッドを見ると、昼でも吸い寄せられるように横になり、以前はどんなにしても寝付けなかったのがウソのように1時間近くぐっすり寝てしまうという日々だった。まだ細かい動作をしたり長く歩いたりすると背中がうずく。とはいえ点訳の校正は手元に来ているので、今までどおりにやり始めている。読書会のためのレジュメ作りもやれる意欲がわき、集中力も戻ってきた。無理をしないように1年間ぐらいは過ごし、その先は、健康教室のようなところに通ってみようかなどと思っている。
111月21日(月)
翻訳家の金原瑞人氏が、ラジオで翻訳について語ってられるのを聞いた。同じ原文を何人もの人が翻訳するのは、時代にあった言葉で表現するためだという。シェイクスピアの作品は、坪内逍遙、福田恒存、小田島雄志が、また最近では松岡和子が翻訳している。それぞれその時代を反映した言葉で翻訳されている。たしかに、もしシェクスピアの生きた時代の日本語で翻訳されても私たちには理解できないだろう。まして現代のように、20年ぐらいの単位で時代の言葉や空気が変わるとき、新翻訳がなされるのは当然のことだろう。最近私は、カポーテイやサリンジャーを村上春樹訳で読み直すことが多い。比較はできないが、新しい気持ちで読めるし、また分りやすい日本語を使う人だと思う。
さらに金原氏は、最近、若者の英語の読む能力が落ちてきていると話されていた。これは会話に重点を置くために、読むことがおろそかになってきているからだという。読む英語と話す英語は違う。話せなくても立派な翻訳はできる、と金原氏は語る。もっと読む能力を付けてほしいとも。私には、まったく納得できた言葉だった。読み、書き、話し、聞くの4拍子がそろわないと外国語をマスターしたことにならないといった固定観念があり、私自身英文を読むことには辞書さえあればあまり苦にならないのだが、話したり聞いたりする能力はどうしても越えられない壁となって立ちはだかっている。これからは、日本文、英文を読むことに、もっと楽しみを見出そう。
画像は、妹のメールから、「サフラン」。