September 20, 2015
トルーマン・カポーティ『遠い声 遠い部屋』を読んだ。村上春樹訳の『真夏の航海』を読んだ時に同時に買ってあったのだが、読みたいと思いながら、図書館からの本を優先してしまうので、遅くなってしまった。1948年に、ランダムハウスから出版されるとすぐ、読書界に大きな波紋を投げかけたという。大作家になってからの『テイファニーで朝食を』も好きな作品だが、読書会でも読んだ『誕生日の子どもたち』など、1940年代の作品は、どれも、天才の感性にひきつけられる。登場する少年も少女も、ハチャメチャにその時代を生きているようでありながら、悲しみが漂う。成長するにつれて、大人になるにつれて失われてしまうであろう無垢なもの、老年になって、それでも自分の奥深くに眠るそんな感情を懐かしく追い求める自分の姿があったりする。本を読む楽しみは、私にはそんなところにある。文庫とはいえ、かなり読みでのある本だった。いたるところに引き付けられる言葉がちりばめられているが、その中の一節を次に引用させていただく。訳者は、河野一郎氏、素晴らしい訳だった。
生まれる前。そうだ、それはどんな時だったのだろう? それは今のような時だったのだ、そしてわれわれが死んでも、なお今のままの時がつづくだろう―これらの木や、あの大地、あのどんぐりの実、太陽や風は、変わることがない、ただ土にかえる心を持つわれわれのみが変わるのだ。今ジョエルは十三という歳で、将来のどの時期におけるよりも死を理解していた―彼の内部では一輪の花が開きつつあった、やがて堅くむすんだ花弁がすっかりひろがり、青春の正午がひときわ赤々と燃えさかるとき、彼もまた他の者たちのようにふり返り、ほかの扉の出口を捜し求めるのであろう。・・・(トルーマン・カポーティ『遠い声 遠い部屋』新潮文庫)
午後から、CDの棚を整理していたら、点訳で知り合った若い友人から作ってもらった、ピアニスト・辻井伸行のCD、「神様のカルテ~辻井伸行自作集」と「Mozart Albam」が目に付いたので、何回も聞いて楽しんだ。数日前の新聞にあった、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団日本公演の紹介記事の中でも、辻井伸行さんの独奏の日の分は完売と出ていた。相変わらず人気があるのだと思った。よく分らないが、聴く人誰の心の中にもすっと入ってくる演奏だからなのだろう。厳しい音楽の世界だとは思うが、邪念のない一筋の道を歩むこのピアニストの姿が、演奏に出ているのだろうか。
画像は、妹のメールから、「女郎花としじみ蝶」。