HageOyaji通信

進路指導ガイダンスの一環として、高校生が≪生き切る力≫を持った自立型人間へのアドバイス、サジェッション・・・になれば

第849話≪溜池通信 vol.442「日本企業とモノづくりの現在」双日総合研究所 吉崎達彦≫

2010年05月12日 | 引用伝授
 高校生のみなさん、(^◇^)ノ お~ぃ~ゲンキか!

 みなさん、特に「ものづくり教育」を受けているみなさん、20世紀までの日本は「職人」が支えてきましたね。良くも悪くもです。
 職人の人生設計にとって、金儲けにかまけるのは評判を落とす原因、一方腕はいいのに客がつかないのは困ります。全ては、バランスが大事です。
 今、日本国全体がこのジレンマに直面していませんか?

 この問題を解くカギに双日総合研究所 吉崎達彦氏の「日本企業とモノづくりの現在」エッセイが記載されていますので、下記に抜粋しておきますので、時間があります時にお読みください。


    溜池通信 vol.442 Biweekly Newsletter April 30. 2010
           双日総合研究所 吉崎達彦

        特集:日本企業とモノづくりの現在

 ●日本人は「職人」が大好き
 「モノづくり」というテーマを考えているうちに、ふと思い浮かんだのはその昔、当社の某役員氏から聞いたエピソードである。
 戦中派の某役員氏は、仕事も遊びも徹底する人だった。趣味のバイオリンのために、ン百万円の名器を買った人といえば、分かる人にはすぐ分かってしまうだろう。麻雀も大好きであった役員氏は、ある日、自宅用の麻雀卓を買おうと思い立った。もちろん買うからには一流品でなければならず、早速その道のプロを探し当てた。

 噂の職人を訪ねて下町に行くと、まるで日本テレビ系列『沿線ぶらり旅』に出てくるような町工場が現れた。門を叩くと、これまた絵に描いたような偏屈オヤジが現れた。このオヤジがあまりに傲慢な態度を示すものだから、役員氏は半分呆れながら、柄にもなく低姿勢になってしまった。
 「麻雀卓を作っていただきたいのですが、いつ頃できますでしょうか」
 「ふん、気が向いたら、作ってやるわさ」
 
 これは話にならんと、役員氏は早々に退散したのであった。しばらくたってから、職人から「おい、出来たぞ」という電話があった。早速、仕事場に参上すると、限りなく芸術作品に近い木製工芸品が出来上がっていた。単に麻雀をするだけの道具とはとても思えない。点棒箱を開けるとカチンという綺麗な音がする。あまりの出来栄えに惚れぼれとして、役員氏はまたまた低姿勢になってしまった。

 「いかほどお支払いすればよろしいでしょうか」
 「ふん、値段は適当に決めればいいわさ」

 役員氏は、百万円を置いて立ち去ったそうである。

 このような話、おそらくこの国では昔から、いろんな場所で繰り返されてきたに違いない。「仕事一筋で、人間関係には横柄で、カネには関心の薄い職人」というのは、古くからの美しい日本人の一つの典型ではないかと思う。左甚五郎からイチロー外野手まで、いつの時代でもこういうタイプの職人がいて、得てして歴史に残るような仕事をしてくれる。そして彼らは、概して世の中からは愛されていたのである。
 よく、「日本社会は変人を排除する」などという人がいるけれども、あれは断じて間違いであろう。学者であれ、スポーツマンであれ、板前であれ、プロフェッショナルでありさえすれば、この国は変人を大胆に許容してくれる。もちろん尊敬すべき仕事をしていることが条件だが、「あの人は職人だから」となれば大概のワガママは許してもらえる。
 日本史上のどの時代を振り返ってみても、奇人変人は枚挙に暇がない。彼らが思う存分腕をふるうから、この国の歴史には画期的な発明やイノベーションが尽きないのだろう(日本人がそのことに対して無自覚なほどに!)日本の歴史を切り拓いてきたのは、あるいは日本経済をここまで押し上げてきたのは、偉大なる変人パワーであったと思うのである。

 ●「職人」が生き残るための作法
 と、ここで話は麻雀卓づくりの達人に戻る。百万円という報酬が妥当なものであったかどうかは不明だが、おそらくこの偏屈オヤジは、そのような些事には関心がなかったのであろう。金儲けや栄達にはもとより興味はない。この役員氏のように酔狂な客が、評判を聞きつけて次々やってくるから食うには困らない。納期未定で引き受け、気が向いたら仕事をする。自分が満足できる作品が出来れば、それが最高の報酬である。

 このように考えると、この偏屈オヤジはある意味、最高の生き方をしている。自分は価値のある人間であることを知っていて、自分が最高だと思うものだけを作っていればいい。自分の仕事のクオリティを、いちいち他人が支払うカネの多寡で図る必要はない。ここまで来ると職人というよりは芸術家の域に近い。そもそもこの麻雀卓も、工業製品というよりは工芸作品と受け止めるべきであろう。
 その一方で、この偏屈オヤジは幾多のリスクを抱えている。全自動卓が流行して、木製の麻雀卓など誰も見向きもしなくなるかもしれない。麻雀自体が廃れてしまう恐れだってある。自分が怪我をするなどして、満足できる作品が作れなくなる危険だってあるだろう。
 もっともそんなことを気にするようでは、芸術家としては失格である。芸術家たるもの、末路哀れは覚悟の上でなければならない。
 この場合、個人としての最適解は、職人と芸術家の中間で人生を設計することであろう。
 つまり、「食うための仕事」と「仕事のための仕事」のバランスを考えることである。

 前者は口を糊するためであるから、Customer satisfaction を重視する仕事となる。営業力やマーケティング力が必要となる。かの偏屈オヤジのように、「ふん、気が向いたら、作ってやるわさ」といった態度は禁物である。ときには、客の好みに合わせて作品のレベルを下げることだってあるだろう。「ふん、値段は適当に決めればいいわさ」も論外で、プライシングは重要な行為である。作り手は、客の懐具合に無関心であってはならない。

 後者は自分の腕を磨くための真剣勝負であって、そこは限りなく Self-satisfaction の世界となる。もちろん、この手の仕事を成立させるためには、見る目のある金持ち客が一定数以上いなければならない。芸術家が生きていくためにはパトロンが必要なのだ。そしてこういう仕事こそが、作り手の品質力を向上させることになる。
 どちらかに偏ると、金儲けにかまけて評判が落ちてしまったり、腕はいいのに客がつかなかったりという状況を招いてしまう。プロフェッショナルという人種は、誰でも多かれ少なかれこの辺のことを意識しているのではないかと思う。

 ●職人国家・日本が陥った罠
 とまあ、以上は言わずもがなの話である。なぜこんなことを長々と書いてきたかと言うと、最近の日本企業、特に製造業が、この偏屈オヤジの「なれの果ての姿」に近づいているように思うからである。
 オヤジが作っている製品は確かに高品質であるが、以前に比べて腕が落ちている気配がある。 以前はそんなことはなかったのに、最近は客にはっきりと「お宅は高い」と言われるようになった。数少ないQuality Conscious な金持ちだけを相手にしているうちに、世間の大多数を占めるPrice Conscious な消費者の気持ちが分からなくなってきた。オヤジは相変わらず自分の仕事ぶりに自信を持っているのだが、実入りは確実に減少していて、内心では不安を感じ始めている。実は後継ぎが育っていないという問題もあったりする。

 心に不安を抱えていると、人はつい「強がり」を口にするようになるものだ。最近、「日本の未来はけっして暗くない」と強調する意見の中に、単純な事実誤認や手前勝手な理屈が混じっていることが増えたような気がする。最近では以下のような言説を聞くたびに、首をかしげている次第である。

  1. 日本製品の品質は世界一。新幹線やウォシュレットを海外に売り込もう。
  2. これからはアジアの時代。アジアで日本製品に対する需要が増えるはず。
  3. これからは環境重視。環境技術に優れた日本製品に対する需要が増えるはず。
  4. 世界は新重商主義の時代だ。日本が得意な官民連携で難局を乗り切ろう。

 もちろん、これらの議論が間違っているわけではない。というより、是非、このようにありたいものである。が、これらを実践するのであれば、下記のような点にも十分に思慮をめぐらす必要があるだろう。

 * 品質:われわれが消費者としてモノを買うときは、かならずQuality とPrice を天秤にかけて考えるはず。ところが日本企業は、Quality という単一の物差しでモノづくりをしていないか。例えば、新幹線の売り物は「40 数年間死者ゼロ」の安全性だが、おそらく新興国における交通インフラのニーズは、「ときどき事故や遅延が起きてもいいから、もっと安い方がいい」であろう。「いいものだから買ってもらえるに違いない」という思い込みは、ときには傲慢な勘違いとなる。どんなに多機能であっても、1 台6万円以上もする携帯電話を買ってくれる国は、日本以外にはあり得ない。

 * アジア:「今のアジアで不景気なのは日本と北朝鮮だけ」などと言われる。しかしそもそも日本は本当にアジアなのか。あるいはわれわれはどの程度、アジアを知っているといえるのか。世界経済を先進国と新興国に分けるなら、今の日本は明らかに沈滞ムードの先進国側であり、元気のいい韓国や台湾企業が属する新興国側にはいない。リーマンショック以前の日本の製造業は、先進国向けのハイエンド商品である程度潤ったものの、今は大胆なシフトチェンジが必要になっているのではないか。

 * 環境技術:エコカー減税やエコポイント制は、買い替え促進を行うことによって、かえって環境負荷を高めているかもしれない。ことほど左様に、環境技術の問題はスタンダード作りが重要になる。ところが国際的な環境保護のルール作りに対して、日本はどの程度参加していると言えるのか。

 * 官民連携:『官僚たちの夏』や『不毛地帯』の時代は遠くなり、今や「官」は公務員倫理規程に縛られ、「民」は怖くてお上を頼れなくなっている。そもそも国際商談において他国が挙国一致体制を作れるのは、国内の有力企業が絞り込まれているから。総合電機が9 社もあり、原発の方式も東京電力と関西電力で違うこの国で、どうやって「オールジャパン」体制を作れるのだろうか。

 ●ガラパゴス化する日本経済
 日本企業のこれら問題点に対し、最近は「ガラパゴス化」というキーワードが与えられている。確かに「下町の偏屈オヤジ」よりは、その方が聞こえはよさそうだ。以下、吉川尚宏氏の『ガラパゴス化する日本』(講談社現代新書)の説明をお借りしよう。

 ガラパゴス諸島とは、南米エクアドルの西方 900 キロにある島々で、ガラパゴス・イグアナなど、独自の進化を遂げた動物が生息することで知られている。大陸から離れているために、外来種の生き物は滅多にこの島には辿り着かない。その大半は草食動物であり、陸にすむ哺乳類はほとんどいない。そのために互いに捕食しあって絶滅することはなく、長期間にわたって独自進化が可能になった。

 この状況が「今の日本」と似ているのではないだろうか。
  ① 製品:日本企業が作り出すモノやサービスが他国で通用しない。
  ② 国 :日本という国が孤立し、鎖国状態になるリスクがある。
  ③ 人 :若い世代を中心に、外に出たがらない「草食系」のおとなしい日本人が増えている。

 かつての日本企業は、世界で最も要求水準の高い 1 億人の国内市場によって鍛えられてきた。日本で勝てるモノやサービスは、海外でも文句なしに通用した。ところが今ではむしろ、日本独自のルールや商慣習が国際化を阻んでいる。以前であれば、「世界第2 位の経済大国」のステータスはそれなりに高かったので、他国が「日本の都合に合わせてくれる」こともあった。しかし少子高齢化で国内市場が縮小し、世界経済に占める日本のシェアが漸減する中では、「異質な日本製品」はまったく通用しなくなる怖れがある。
 吉川氏は、同書の中でガラパゴス化の商品・サービスとして以下の実例をあげている。

 携帯電話端末、PHS、ディジタル放送、デビットカード、非接触型IC カード、電子マネー、お財布ケータイ、カーナビ困ったことに、これらは日本の産業界が得意だと自負している分野で生じている現象である。

 上記サービスは国内市場において、コスト面はさておき、少なくとも機能面では概ね好評を得ているはずである。ところが、「いいものだから、海外でも売れるはず」とはならない。むしろ、「良過ぎるから、海外では通用しない」となってしまう。他方、日本の消費者にとっては、国際標準のモノやサービスが「物足りない」と感じられてしまう。結果として内外の仕様の差がどんどん広がってしまう。かくして日本はガラパゴス化へまっしぐら、というわけだ。

 ●日本企業に求められるのは「地動説」
 「職人国家・日本」が不調に陥っている間に、躍進を続けているのが韓国企業である。こちらは日本のガラパゴス化とは正反対に、積極的に海外市場を目指した動きが功を奏している。以下は、本誌4 月2 日号で掲載して多くの反響をいただいた「法則」だが、「韓国に負けている」となると、日本企業には急に緊張感が働く(本気になる)ようである。

 ○日本企業が韓国企業に負ける7 つの理由
  1. 韓国企業は基礎研究にカネをかけない。日本企業は無駄な投資が多い。
  2. 韓国企業は新興国市場で大胆に動いているが、日本企業はコンプライアンス過多で自縄自
縛になっている。
  3. 韓国企業は実効税率が低く、内部留保が多いから投資額も多い。日本の法人税は高過ぎる。
  4. 韓国企業は寡占体質だが、日本企業は国内の競合相手が多く、国際的にみて規模が小さい。
  5. 韓国企業はオーナー社長の即断即決で物事が進むが、日本企業は意思決定が遅い。
  6. 韓国企業は大胆に若手社員を海外に出しているが、日本では若者が海外に行きたがらない。
  7. 韓国企業は危機感が強く官民連携も盛ん。日本は国内市場があるので国際競争に対して本
気になっていない。

 内田樹氏の『日本辺境論』(新潮新書)によれば、日本人とは「常にどこかに『世界の中心』を必要とする辺境の民」であるという。ここではその議論に深入りする紙幅はないが、おそらくその認識は正しいのではないかと思う。

 モノづくりの世界においても、かつての日本企業は「追いつき、追い越せ」であった。
自分たちは世界の中心にいるわけではなく、正しい姿、あるべき理想は常に国境の外側にあった。「日本製品の品質は世界一」などという認識が広がったのは、バブル期以降のたかだかここ20 年くらいの現象である。

 ところが今では技術やモノづくりの話になると、辺境の民であった日本人がなぜか天動説のような世界観を持っている。だから、「日本製品は海外でも売れるはず」といった発想が幅を利かせてしまう。しかし職人たるもの、もっと謙虚であるべきではないだろうか。

 冒頭に述べた比喩でいうと、職人国家・日本は「仕事のための仕事」ばかりをやって「食うための仕事」をしていない。ゆえに海外の顧客が見えなくなっている。
 品質というと、われわれはついモノやサービスという商品のクオリティばかりに目が行ってしまう。しかし本来、企業が問われているのは、マーケティング力や営業力も含めた経営全体の品質であるはず。「商品力では勝っていたんですが、商談では負けました」というのでは困ってしまう。求められているのは、「地動説」への回帰である。

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