孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

サンチャゴ要塞の水牢

2015年03月15日 | 日記
マニラに赴任する前は、フィリピン人の対日感情はかなり酷いのではないかという先入観があった。少しフィリピン関連の本を読むと、大東亜戦争中に、日本軍がアメリカ兵の捕虜たちを移動のため長いこと歩かせたという、「バターン死の行進」と呼ばれる過去があると書かれていた。

直接フィリピン人をどうした、こうしたというわけではないようだが、ただ何となく日本軍は酷いことをしたようだという印象があった。なぜなら、私の赴任先が、そのバターン半島先端にある工業団地だったからだ。

しかし、実際に赴任してみると、私の不安は単なる杞憂に終わった。先輩たちに聞いても、特に反日感情など感じないというものだった。確かにDeath March と彫られた小さな石碑が建ってたが、草茫々でまったく目立たなかったので、地元の住民はまったく関心はないようだった。

たまに、休みをもらって、マニラに買出しに出たとき、海岸近くにあるサンチャゴ要塞跡に行ったときのことだ。スペイン統治時代の要塞跡で、石で造られた要塞には珍しい水牢があった。半地下に造られた牢獄で、満潮になると海水が徐々に流れ込み、捕虜や罪人は溺死する。

見ればその構造で何なのかは大体分かるが、小さな白い看板が立っていて、説明が書かれていたので読んでみた。水牢の説明が書かれていて、その末尾には「日本軍は戦時中この水牢で多くのアメリカ兵捕虜を溺死させた・・・」という内容の一文があった。

直感で、私はこの最後の一文は、あり得ないことだと思った。当時軍律の厳しさでは世界でも定評のあった帝国陸軍がそのようなことをするはずはない。赴任する前に読んだ本には、現地の戦争体験者のエピソードとして、空腹の日本軍が村に忍び込んで家禽を盗んだが、その後には棒切れが立ててあって、先端に軍票(戦時のお札)が何枚か挟まっていた。直接その紙幣が使えるわけではないが、当時の日本兵は悪者ではなかったという印象だったそうだ。

サンチャゴ要塞の立て看板は、アメリカの入れ知恵で立てられたのだと思う。アメリカはスペインからフィリピンを奪い取ろうと計画し、フィリピン人たちにスペインを追い出せば、お前たちは独立できると、耳打ちした。だからアメリカに協力しろというわけだ。そして、スペインが降参した後、アメリカはちゃっかりと自分のものにしたのだった。文句を言って逆らう多くのフィリピン人をアメリカ軍は容赦なく殺したという。

そういう史実を私は、他にもいろいろアメリカ軍の腹黒さを物語るエピソードと共に赴任前に仕入れていた。しかし、悲しいかな、悔しいかな、ほとんどの日本人観光客たちには英文の看板は意味不明なただの板でしかないだろう。

日曜が待ち遠しかった番組

2015年03月15日 | 日記
今思い出すと、自分が小学校高学年の頃か、もしかすると中学生だったかもしれないが、毎週日曜日の昼前頃に欠かさず見ていたテレビ番組があった。どんなことがあっても、この番組だけは見逃したくなかったほど一週間楽しみにしていた、お気に入りの番組だった。

当時は1ドル=360円の時代で、海外旅行など夢のまた夢の時代だったせいもあるが、番組が紹介するのは海外の観光地だけではなく、そこでの文化や人の暮らしを見せてくれて、観る者をぐいぐい引き込んでいった。しかも、そこに行った張本人が語る解説は、興味深い話ばかりで、できるならその場ですぐにでも飛んで行って、自分の目で見たくなるような作りだった。

兼高かおるさんは、世界中を飛び回るジャーナリストで、荒削りで男勝りの女性かと思いきや、番組進行のパートナーである芥川隆行さんとの会話を聞くと、なんともお上品で、教養豊かな女性だとわかる。ちょっととぼけた芥川さんのツッコミにも、「そーなんですの・・・ホホホ。」と軽くいなすユーモアのセンスもあり、私は映像だけでなく、そういった普段耳にすることのない、息の合った大人の会話を楽しんで聞いていた。

「兼高かおる世界の旅」は当時、「世界の翼」だった航空会社PANAM の協力で製作された番組で、1990年まで続いていたそうだ。渋いナレーションで活躍した芥川隆行さんはすでに亡くなってしまったが、当の兼高かおるさんは、87歳で今でも御健在のようだ。

どことなく見た目が日本人離れしていると思ったら、彼女はお父さんがインド人で、本名はローズというそうだ。東京のミッションスクールを卒業してからアメリカの大学に留学しているので、英語はもちろん不自由なく話せるし、それだけに通訳を介せずに自らがレポーターとなって、堂々とした態度で体験取材ができたのだろう。自分の足で南極点や北極点にも行っているというから、まさに正真正銘のスーパーレディだったのだ。

番組は地球規模で、未知の世界は地球上に無限に存在するかのような気分にさせてくれた。少なからず、自分の人生に影響をしたテレビ番組だったのではないかと思う。当時としては傑出した内容だった。

『テレビで見た人』崇拝します。

2015年03月15日 | 日記
3局あるテレビのローカル局の、夕方のワイドショー番組を見ていると、どの局の番組にも、すでに賞味期限が切れた芸人さんがゲストやレポーターとして出演しているという不思議な共通点があることに気がつく。いわゆるお笑い芸人であったり、俳優であったりするのだが、なるほどこういうのが、「ドサまわり」と呼ばれる現象かと納得する。

言ってみれば、全国区というか、中央のテレビ局からはまったくお呼びがかからなくなった「タレントさん」「芸人さん」も、田舎のテレビ局ならば、まだまだ客扱いされるし、有り難がられる存在なのだ。実際、ワイドショーの進行係の人や、そのアシスタントというか、ホステスのような女性ほか番組の出演者たちは、世紀の大スターが登場したようなもてなし振りで番組が進行していく。

彼らは、偉そうに県内で起きた出来事について評論家よろしくコメントしたり、駅前の商店街で、街案内やお店紹介をそのテレビ局のキャピキャピした新人女性アナウンサーと一緒にやったりしている。

例え売れなくなった人でも、田舎町をテレビカメラを伴って歩けば、街行く人たちは、大騒ぎとなり買い物中のオバサンたちは、往年の大スターとであったような反応をするところが、滑稽だ。さらに面白いのは、その「大スター」たちの態度で、何とも偉そうで傍若無人なのが共通している。

打ち合わせ済みなのだろうが、夕方の買い物で混みあうスーパーに入って行き、店長に時間制限で特定商品を割り引く交渉をしたりする。店長も、「じゃあ、番組を見たと言う方だけに、今から30分に限りこの商品を3割引で・・・」などと口裏を合わせて番組とその「大スター」の顔を立てるのである。

街行く人の中には、「テレビに出ている人だ」と言って握手を求めたり、着ているTシャツにサインを求めたりする変わり者もいる。そういう人達にとっては、例え売れなくなったとはいえ、「テレビに出る人」と握手したとかサインをしてもらったということが、自慢の種になるのだろう。

田舎の国道沿いのラーメン屋に入ると、壁一面にサインの色紙が貼られていることがある。ラーメン屋の主人の自慢なのだろうが、「○○さん江、とてもおいしかったです。」と隅っこに小さく書かれ、中央に何百回と練習して覚えたであろう見事なサインが書かれた色紙が往年の売れっ子振りを彷彿とさせるのだが、「一体、何でこんな店に立ち寄ったのだろう?」という疑問を抱かせてくれ、それはそれで少しは時間つぶしにはなるものだ。

演歌歌手は、一曲でもヒット曲を持つことができれば、当分食いっぱぐれることはないそうだが、タレントさんについても似たようなことが言えるんだろうなあと、業界を垣間見たような気分になる。同時に、テレビに出るということは、それほど偉いことなんだろうかと少し首を傾げたくなるのも事実だ。