孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

独裁者、危篤。

2015年03月21日 | 日記
日本のタクシーは恐らく世界一安全で快適な交通手段ではないかと思ったのは、シンガポールに赴任していたときのことだった。日本では私は一度も経験したことがない、「乗車拒否」を一体何度されたことか分からない。

特に、運転手たちのシフトが変わる時間帯は、家に帰りたい運転手が行き先を選ぶため、帰宅方向でない乗客はまず断るそうだ。カミさんがシンガポールに旅行に来るというので、飛行場に迎えにいったときのことだった。到着時間が午後4時ころだったので、少し早めに飛行場に着いていようと、2時半頃通りに出て、タクシー乗り場に行った。

飛行場までタクシーで30分もかからないだろうから、十分間に合うと考えてのことだったが、この考えが甘かった。タクシーは通るのだが、こちらが手を上げても無視して通過していく。たまにスピードを落として近寄って来ても、運転席の窓を開けて行き先を聞いてくる。

チャンギ空港まで、と伝えると首を横に振って窓を閉め行ってしまうのだ。何台も何台も同じことを繰り返し、時間だけが過ぎていった。場所が悪いのかと思い、50mほど先にある別のタクシー乗り場に移動してみたが、結果は同じで、そこでも3台ほどに乗車拒否された。

一体この国はどうなってるんだ!!怒りばかりがこみ上げてきて、やりきれない気持ちになってきた。私のほかにもタクシーを待つ人は後ろに並び始め、タクシーが近づいてきて、運転手が窓を開けると、一斉に行き先を告げるようになってきた。

結局タクシーを拾うのに1時間以上費やし、なんとか「親切でありがたい」タクシーにめぐり合えた時は、私の背中は汗でびっしょりだった。悪いことは重なるもので、カミさんの乗った飛行機は予定より15分ほど早く到着して、到着ロビーに私が着いたときは、カミさんが一人ポツンと座って不安そうな顔で私を待っていた。

何でも便利で、快適な暮らしを味わえるシンガポールというイメージを抱く人が多いと思うが、どうも私にはソリが合わなかった国だ。昼休みにヤフーのニュースを見ていて、「シンガポールの建国の父が危篤状態」という速報を見ていて、当時のタクシーの乗車拒否経験を思い出してしまった。

危険が一杯、無人販売

2015年03月21日 | 日記
今日もヒヤッとしたが、交通量の多い道路沿いの無人販売の危険性をマスコミは取り上げて報道してくれないかと思う。私の自宅から車で幹線道路に出て、1分と走らないうちに、幅60~70cm、高さ1.5mほどの木製屋根付き無人販売用簡易施設が4箇所並んでいる。

その間隔は20m~30mほどで、すぐ近くの主婦たちが自分の畑で自家製に栽培した余りを毎朝旦那さん手製の無人販売所に並べて、小遣い稼ぎをしているのだ。

問題は、特に週末の交通量が比較的多いとき、前を走る車が急に減速したので、こちらもハッとして減速すると、前の車は無人販売の小屋の前で停車して、ドアが開くのだ。大抵が中高年の女性で、反対車線を走っている自動車を運転する人もきっとハッとしているに違いない。

中には、無人販売所とは反対側の車線に車を停車させて車を降り、販売所の野菜を手にしながら品定めしているオバサンもいる。そういう時は、速度をグーンと落とし、すぐに急停車できるレベルで、ノロノロと販売所の前を通過するのだ。

天候の関係で野菜が高騰したときなど、特に売れ行きがいいようで、こういう状況は必ず見られる。私はそのうち大事故が起きるのではないかと心配なのだが、売る方も買う方も道路を通行する他のドライバーに及ぼす迷惑など、まったく関心はない様子である。

家庭菜園の醍醐味

2015年03月21日 | 日記
昨日の夕方、菜園のキャベツを収穫して早速焼きそばに入れて食べたが、おいしかったなあ。そのキャベツは虫に食われて見るからに無残な姿で、商品としての価値としては、まったくないものでしょう。

昨年の秋に苗を買ってきて、それを自分の手で植えて、水遣りをして見守ってきたので、農薬をかけたわけでもなく、まったくほったらかしで、自然に任せた野菜です。

さっと水洗いして包丁で適当に切って鍋に放り込んで炒めるだけですが、キャベツ独特の風味と春キャベツの歯ごたえが、たまりません。栽培農家の方なら外側の葉はむしって捨てるのでしょうが、私は青々とした葉が特に好みなので、なるべく捨てないようにします。

わずかな面積ですが、去年の夏から、そこで採れたオクラ、ナス、カリフラワー、サツマイモ、大根、ブロッコリなどを食してきました。そして今は玉ねぎがぐんぐん育っています。去年は玉ねぎの苗を200本ほど植えましたから、収穫が楽しみです。

採れたての春玉ねぎを半分に切って、レンジでチンするだけで、自分で言うのも何ですが、見事な一品料理になります。おいしくておいしくて、時期には朝昼晩三食とも玉ねぎを食べます。

家庭菜園の醍醐味は、採れたての野菜が食べられるということではないでしょうか?採算を考えれば、買った方が安い場合もありますが、見た目を気にしないので、できた野菜を形が悪かろうが、虫に食われていようがすべて収穫して料理に使います。

野菜は虫に食われるものと知っていますから、スーパーに並んだきれいな野菜がどのように作られているかも凡そ想像がつきます。だから、私は余計の頑なに自然に任せるわけですが、カミさんに言わせると、ただの横着なのだそうです。

髪を染めるなんて・・・

2015年03月21日 | 日記
一体いつ頃から今のようになったのか、思い出せないのですが、少なくとも私が高校生の頃は今のように女性が髪を染めるようなことはしませんでした。プロの歌手や水商売の女性は染める人はいましたが、普通の女性が髪を染めるなんてことはありませんでした。

私が暮らす田舎町などでは、若い女性が髪を染めていると非常に目立つわけで、、「あの子はバーにでも勤め始めたのかねぇ・・・。」などと噂したものです。今、女性が髪を染めることがここまで一般的になると、染めていない女性が珍しく、たまにそういう女性を見ると、胸がときめくような感覚を覚えることがあります。私だけでしょうか?

以前、何かの本で読んだと思うのですが、女性はファッションショーでモデルが着ている洋服を見ると、自分をそのモデルに投影することが男よりも、容易に迷うことなくできてしまうそうです。つまり、自分もあの洋服を着れば、あのモデルのように見えるのだと、簡単に勘違いしてしまう性質を備えているそうです。

自分もあの洋服を着れば、ああいったスタイルの女性に見られると思い込んでしまうから、ファッションショーのモデルはみなスタイルが良く、デパートのマネキンは足が細くて八頭身な訳です。そして、顔かたちは、その顔かたちは堀が深くて鼻が高い西洋人顔で、髪の色は金髪が多いのではないでしょうか。

日本の女性がごく普通に髪を染めるようになってから、フィリピンに赴任したとき、向こうはまだ女性が髪を染めるということはなく、みんな女性は黒髪でした。少し色黒の顔に黒髪は良く似合っていて、その見栄えは実に新鮮でエキゾチックでした。

数年前、シンガポールに赴任したとき、初めて目にしましたが、女性は歳を取ると頭のてっぺんから白髪に変化していくものなんですね。エレベーターで降りるとき前の女性の頭のてっぺんが直径10cmくらいの円状に真っ白で、最初私はそういうのが、ファッションなのかと勘違いしましたが、よく見ると他にもそういう年配の女性が多く、やがてアレは要するに白髪に変化しているのだと分かりました。

女性が黒髪を染めるのは、白髪隠しの意味もあるのだと知って、少し納得しましたが、やはり女性の黒髪はいいものです。日本人というか、モンゴロイドの顔には黒髪が一番似合うと思います。

美人の形容に、「髪はカラスの濡れ羽色」という言い方をしますが、この言葉を思わず呟きたくなるようなきれいな黒髪の女性に街で出会うと、わくがムネムネ・・・じゃなかった、胸がわくわくしてしまいます。

あの歯科医は今・・・

2015年03月21日 | 日記
家の近くの剣道沿いの畑が整備され始めたなあと思っていたら、いつの間にかしゃれた家が建ち始めて、いつの間にか入り口に看板が立って、気がついたら○○歯科と読めるようになり、ようやくああ、歯医者さんが新しくできたんだなあ、と理解できました。

私の住む小さな田舎町でも歯医者さんは3つか4つあります。子供の頃は、歯医者さんは夏休みに行くもので、朝日の出前から順番を取るために、玄関の前に並んだものでした。それでも治療が終わるのは昼近くになり、帰りに近くの中華そば屋で、ラーメンを食べて帰るのが、ささやかな楽しみでした。

いつの頃か、歯医者さんは予約制になり、その時間に行けば、少しの待ち時間で治療してもらえるようになりました。海外赴任の前には、「悪い歯はすべて治療して下さい。」と言って、何日も通ったものですが、数年の海外赴任でまた私の歯はボロボロになってしまうのでした。

さて、新しくオープンした近くの歯医者さんは、平屋建てのおとぎの家風のデザインで、経営者の趣味かと思うのですが、その名前もカタカナのハイカラなネーミングで新規の患者をゲットしよう、という魂胆が垣間見えていました。

そのうち、ローカル新聞にその歯科医院の新規オープンの折り込みチラシが入り、いよいよ営業開始ということになりました。住居を兼ねた歯科医院のようで、駐車場の一番奥に、歯科医家族の自家用車らしき車がいつも2台見えました。

2ヶ月経ち、半年が経ち、1年半ほど経過した頃でしょうか、ふと入り口の看板をみると、ビフォー・アフターのナレーション風に言うと、「なんと言うことでしょう!看板が歯科医院から△△整体治療院に変わっているではありませんか!」

近所の情報通のおばさんに聞くと、「ああ、あの歯医者はつぶれたよ。あの自宅で整体やってた××さんが買い取ったみたいだよ。歯医者は他にもいっぱいあるからネエ。」との事。

歯医者が多いという話は、耳にしたことはありましたが、まさかこんな身近でその現実を目の当たりにするとは思いませんでした。車で5分かからないところにコンビニが3軒ありますが、数年前の多いときは5軒あったようです。歯科医施設は全国で約7万箇所弱あるそうです。雨後の筍のようにいっぱいあるコンビニは、全国で約5万弱だそうですから、そう比較するといかに歯医者が多いかが理解できます。

医者になれば誰でも大金持ちになれるかと思っていたら、こういう厳しい現実もあるんだなあと、認識を新たにしました。アメリカでは医者の自殺率が非常に高いということも最近本で読みました。

そういえば、街で見かける精神科とか心療内科の看板を掲げた医院が増えたようで、ああ、この業界も需要と供給で成り立っているのかと、妙な感心をしてしまいました。

三男の名前に「紘」の字・・・文句あるか?

2015年03月20日 | 日記
最近はどうなのか知りませんが、私が結婚した頃は、妻が出産の時に夫がその場に立ち会うということが、一種の流行だったようで、知り合いにもそれを実行した者がいました。女性の出産時の苦労を共感する意義があり、生まれてくる我が子に対する愛情が増すのだそうです。

しかし、私は初めから出産に立ち会う気はありませんでした。妻も嫌がっていましたし、夫婦でひーひー、ふーふー呼吸を合わせて練習するのをテレビで見て、単純にあんなことはしたくないと思ったからでした。

その代わり、男は妻の出産を迎えてやるべきことがあると考えていました。それは、生まれてくる子のために、いい名前をつけてやることです。私はどちらかと言えば晩婚でしたので、先に結婚して子を持つ友人たちに、どうやって名前を付けたのか、事前にさりげなく聞いてみました。

すると、神社の宮司に付けて貰ったとか、おじいちゃんが考えたとか、酷いのはお寺の坊さんに頼んだ奴もいました。戒名じゃないんだから、酷いことをするものだと思いましたが、実態は大体そんなものでした。

長男・次男と立て続けに生まれ、三番目も男だと予想して、三人に共通する漢字を一字名前の下に付け、上の漢字は三者三様の由来を考えました。分厚い漢和辞典と首っ引きで考えました。

三番目は、上の二人とは少し事情が違う点がありました。それは、妊娠したのが昭和で、生まれたのが年号が新しく変わった、平成でした。私は、名前には昭和を表す漢字を考えていました。だからと言って、「昭」とか「和」という字はありふれています。

昭和の出来事をあれこれ思い巡らしました。何度考えても、行き着くのが「大東亜戦争」でした。戦いには負けたとはいえ、数百年にも及ぶ西欧列強による悲惨な植民地支配から東南アジア諸国を解放するという、大貢献ををした誇るべき一大イベントであると私は考えています。

そして、このイベントを漢字一字で表すとしたら・・・。私はこう考えて、数日間色々悩みました。そうして出した結論が、日本書紀が原点の、「掩八紘而為宇」(八紘をおおいて、宇となさん)子の中の一字、「紘」でした。

昭和の日本人なら恐らく誰でも知っている、「八紘一宇」の「紘」です。

男のような女性?女性のような男?

2015年03月20日 | 日記
少し前から、テレビのバラエティー番組に、ちょくちょく性別がはっきりしない連中が顔を出すようになっている。どういう意図であの種の人間を登場させるのか、テレビ局の考えが良く理解できないでいるが、私はどうもアレが好きになれない。

生まれながらに、体は男でも精神は女性という人がいるそうだが、神様の手違いにしては随分悲しい出来事だと思う。作り直すことはできないだろうから、そういう人も何とかして生きて行く方策を見つけなければならないし、回りもその辺りを理解してあげなければならないだろうが、私は生理的に嫌悪感を払拭できないタチだ。

アメリカにで、一緒に行った仲間二人がサンフランシスコに遊びに行ったとき体験した話しを聞いて、笑い転げたことがあった。グレイハウンドのバスで市内に到着した彼らは、別に目的地があったわけではないので、ブラブラと繁華街を歩き回っていたそうだ。

ふと往来を行き来する人達を見ると、どうも男同士の二人連れがやたらと目に付いたそうだ。しかも、どのカップルも妙に仲が良さそうで、手をつないだりしている二人もいたそうだ。道路の反対側の歩道を見ても、同じ光景だった。二人は、ほぼ同時にハッと気がついたそうだ。

「そうか、この街はゲイの本場なんだ。」

お互い顔を見合わせて、その瞬間磁石の同じ極同士が反発するように、並んで歩いていた二人は左右にパッと離れたそうだ。

フィリピンに赴任したての頃、髪を短く刈り上げて赴任したにも関わらず、二ヶ月も放っておけばかなり髪は伸びて、鬱陶しくなってくる。先輩に散髪はどうしてるのか聞いたら、マニラに出たとき、ホテルの中にある外国人相手の理髪店に行くという話だった。

赴任先の田舎町にも何件か床屋はあったが、フィリピンの床屋はどこもオカマが散髪するものだそうだ。試しに覗いてみると、中からどぎつい化粧をして、真っ赤な口紅を引いた背の高いオカマが店先に出てきて、「ハーイ!」と声をかけてきた。

私は、顔が引きつって返事ができず、その場を足早に退散したのだった。同時に、あまりのショックに、とてもこういう所で散髪してもらう気にはなれないと確信したのだった。それ以来、ほとんど私はシャワーを浴びながら、慣れない手つきで鏡を見ながら自分で散髪することにした。

同僚は、ああいう人種を何とも思わず、面白がっていたが、私は神経質すぎるのか、生理的に受け付けなかった。現地の床屋をみんな『ローカル』と呼んで、マニラの外国人相手の床屋と区別していたが、散髪料金は、ローカルが日本円で100円程度なのに対して、マニラのまともな床屋では1500円~2000円ほどしただそうだ。

帰国してから、テレビで化粧をして女装をしている男性タレントを見るたびに、当時のフィリピンの床屋を思い出して、私は鳥肌が立つ二の腕をゴシゴシするのだった。

米国の広くてきれいな台所

2015年03月19日 | 日記
アメリカにいた時、3ヶ月ほどアメリカ人家庭にホームステイしたことがある。夫婦と子供三人の家族で、下の二人は人形のようにかわいい女の双子だった。住み込みではなかったが、メキシコ人のメイドさんがいて、掃除や洗濯を任されていたようだ。奥さんが病院に勤める小児科医で、旦那さんは定職を持たない主夫だった。

家には、テレビドラマで見たような、広いキッチンと大きな冷蔵庫があったが、奥さんや旦那さんが買い物に行くことはなかったので、多分メイドさんに必要なものを伝えて、買い物を頼むのだろう。そう言えば、夕食もいつの間にかできていたから、昼の内にメイドさんが用意するようだった。

一緒に渡米した仲間たち同様、私もアメリカ人家庭の食事には、かなり期待するものがあった。「分厚いビフテキ」とか「鶏丸ごと一羽」とか、ボリューム満点だろうなあ・・などと言う話で、勝手に盛り上がったものだ。

さて、いよいよ期待の晩御飯という時がきて、私は腹はペコペコだったが、期待に胸が膨らんでいた。

テーブルに着いて、食前のお祈りをする習慣のようで、小学校高学年の長男がうつむいて何かモゴモゴ呟き、最後に「エーメン」と言って終わった。各自の前には大きなお皿とナイフとフォーク、それに水の注がれたグラスがあるだけで、料理は大きなボウルやタッパウェアのような入れ物に入れて中央に並んでいた。

旦那さんがまず手始めにボウルを取り、自分の皿にマカロニサラダみたいな料理を適当に載せて、隣の息子に渡し、同時に奥さんは、スパゲティの入ったボウルを引き寄せ、自分の皿に分けて隣の娘に廻した。そうやって、順番に料理を廻していって大体ひと回りしたところで、食事が始った。

私も自分の皿に、マカロニ、スパゲッティ、ブロッコリ、コーン、を適当に取ったが、腹にたまりそうなスパゲッティを多めにした。

空腹は最大の料理人、と言う言葉があるが、肉類はまったくない夕食に期待はずれだったが、たくさん食べたせいで、空腹は満たされた。しかも、野菜はすべて缶詰の野菜で、電気自動缶切器を奥さんが自慢してた理由が、よく理解できた。

一体あんなに大きな冷蔵庫には、何が入っているのだろう、と不思議に思ったのだが、あるときちょっと中を覗いて驚いた。何と、缶ジュースや缶コーラがびっしりと並んでいたのだ。家族全員が少し肥満気味だったのは、このせいだったのか、と疑問は氷解した。

炭水化物は麻薬だと言った人がいるが、麻薬はなかなか止められないようで、その後も似たような夕食が続いた私のホームステイ経験だった。

今こそ 別れめ・・・

2015年03月19日 | 日記
この時期になると、どの局のニュースでも各地の卒業式を扱って、涙を流しながら歌を歌う映像を流す。映像だけなので、歌っている歌が何の歌なのか分からないが、我々の時代は「仰げば尊し」が卒業式の定番だった。

不思議なもので、誰に歌詞の意味を解説してもらったわけではないのに、時が経つと次第に分かってくるものだ。文語の歌詞が難解だからという理由で、この歌を避けたがる教師がいるようだが、だったら意味を教えてやればよいではないか。

「身を立て 名をあげ やよ励めよ」の部分が立身出世主義だ、民主主義的でない、と言って拒否する教師がいるそうだが、そういう教師は「君が代」を歌いたがらない、子供達に歌わせたがらない教師たちに違いない。

私は、昭和の映画全盛期の頃の邦画を観るのが好きだが、高峰秀子主演の「二十四の瞳」は中でも一番好きな映画だ。戦闘シーンなどまったくないが、見事な反戦映画だと言ってよいだろう。そして、この映画では、「仰げば尊し」が何度も流れ、涙を誘う。

古い映画だが、デジタル加工されてきれいな画面で見ることができるDVDを購入したので、私はいつでも好きなときにこの映画を観ることができる。

哀愁のあるメロディーと、威厳を感じる歌詞は、この歌を歌った頃に私をタイムスリップさせてくれるだけでなく、改めて日本語の美しさを再認識させてくれる。ぜひ孫の代までこの歌を歌い続けて欲しいものだ。

学校で「二十四の瞳」の鑑賞会でもやれば、歌の良さも味わえるし、教える方にもいい影響を及ぼすかもしれないですね。

テレビや新聞を疑え

2015年03月17日 | マスゴミ関連
勤め先では、各グループごとに朝礼をやり持ち回りで一人ずつ一分間スピーチをすることになっています。話題は各自自由で、趣味の話しをしたり、家族の話をしたりいろいろです。

その中で、よくNHKでこう言ってたたと話題にするのが癖のような青年がいます。先日も、「NHKで、日本では一時期政府の命令で、銀行に預けたお金が引き出せないことが起きて、それがまた起こるかもしれないと言ってました。みなさん、注意してください。」とのことだった。

私は、NHKはほとんど見ないので何を言ってるのかまったく分からなかったが、話しの内容よりも彼がいつもNHKのことを話題のソースにすることが奇異に感じたのだった。

NHKに限ったことではない。およそどのテレビ局も、公正中立の立場に立って番組作りをしているとは思えない。ある民放局の日曜日の朝の報道番組など、実に偏った内容で、世論を思い通りの方向に誘導しようとしている意図がアリアリで、見るのもおぞましいが、話の種になりそうなので、つい見てしまう。

マスメディアに対する信頼度の調査が数年前に行われたが、その時の結果は予想をはるかに上回ったものだった。アメリカ、イギリス、イタリア、オーストラリアなどの先進国の場合、信頼度は20~30%位なのに対して、日本は70%を越えていたのだ。

つまり、テレビや新聞雑誌が報道することを信じているいる人は、日本の場合10人中7人いるのに対して、欧米の先進国ではそれが2~3人しかないという結果でした。

数十人のデモ行進のニュースを朝昼晩のニュースで報道することがあるかと思えば、数千人のデモ行進があっても、まったく一言も伝えないこともあります。つまり、テレビ局や新聞社が国民に知らせたくないことは、意図的に報道しないのです。

逆に、どうでもいいようなことでも、大袈裟に何度も何度も報道して、明らかに印象操作をしていることもあるのです。メディアの報道することを見抜く能力を、メディア・リテラシーと呼ぶそうです。英語教育などより、子供の頃からこういうことこそ学校で教えていくべきだと思います。

因みに、メディアに対する信頼度が日本と同じレベルにある国は、中国や韓国でした。

瞬間、一目惚れ・・・

2015年03月17日 | 日記
確かオリンピック誘致のプレゼンの時、誰かが言っていたと思うが、「日本は何か落としても、ちゃんと戻ってくる」という、世界でも珍しい国なのです。

もちろん、必ずそうなるということではないでしょうが、確かに戻ってくるケースは多いのではないでしょうか。最近も、アメリカから輸入した小麦の中からスマホが見つかり、スマホの中の情報から持ち主を何とか特定して、返送したら受け取った持ち主がまさか・・・と仰天したという、微笑ましいニュースが報道されていた。

きっと、そういう体験をした人は、それだけで日本に対する好感度が一気に上がったに違いないでしょう。なくなった物が返ってくれば、こんなに嬉しいことはないからです。

富士山で、外国人登山客の登山指導をしていたときに、下山した青年三人が、オドオドした様子で臨時派出所に立ち寄ったことがあります。日本語があまり流暢ではなかったので、若いおまわりさんに通訳頼まれました。すると、彼らは下山途中で、財布を拾ったといって届けにきたインドネシア人たちでした。

財布には、何種類かのカードと数千円の現金が入っていました。おまわりさんは、手馴れた様子で、落とした場所と状況を確認し、落とし主が名乗り出てきた場合のために、彼らの名前と住所、連絡先を尋ねました。すると、彼らはお礼など要らないからと、それを辞退して帰って行きました。

インドネシアの青年たちもなかなk捨てたものじゃないなあ・・・と感心して言うと、おまわりさんは、「何か名乗れないヤバイ事情があったんすかネェ。」と、妙に職務に忠実で少し拍子抜けしました。

4年ほど前にマレーシアのクアラルンプールで博物館に行ったとき、私はポケットにデジカメがないことに気がつきました。一通り博物館を見学して、中で何度か動画を撮ったので、博物館の中でデジカメをなくしたのは明らかでした。面倒でしたが、入り口からもう一度廻った通りのコースを辿りました。

ウィークデーだったせいか、見学者はまばらでした。急ぎ足で、途中立ち寄ったトイレとか、休憩のために腰掛けたベンチなどを注意深く探しましたが、私の愛用のデジカメは見つかりませんでした。

私はデジカメ本体より、その中に保存されていたたくさんの写真と動画が惜しくて、失意に暮れて帰ろうとしたとき、入り口に案内嬢が立っていたのを思い出しました。そこで、急ぎ入り口に戻り、その案内嬢に事情を話しました。

若い彼女は、注意深く私の話を聞くと、そのデジカメは何色だったか、大きさはどのくらいでカメラのブランドはなんだったか、と矢継ぎ早に聞いてきました。私は曖昧な記憶を辿りながら、何とか答えると、彼女は、残念ですがそういうカメラはここには届けられてはいませんねぇ・・・と、済まなそうに言いました。

でも・・・と彼女は続けて、「こういうカメラならさっき届けてくれた人がいましたよ。」と、カメラについている紐の先をつまんでぶら下げたカメラを、机の中から出して見せてくれました。いたずらっぽい笑顔で、ちょっと首をすくめながら・・・。

そのカメラこそ、まさしく私が通販で買った中古の愛用のデジカメでした。私はその瞬間、一気に彼女に一目ぼれ・・・じゃなかった、マレーシアという国が大好きになったのでした。

体重は増える、身長は減る・・・。

2015年03月16日 | 日記
健康診断に行ってきた。

この歳になると、どこかが基準値をオーバーしている方が普通で、私はそのくらいが丁度いいと思っている。一病息災という言葉があるが、皮下脂肪がほとんどないマラソン愛好者が倒れると、意外にあっけなくコロッと死んでしまうと何かの本で読んだことがある。少しくらいメタボの人がもっとも長生きするという統計データもあるそうだ。

私は喫煙しなくなって、かれこれ15年になるが、タバコと肺癌の因果関係も100%信じることができない。なぜなら、刻みタバコを愛用のキセルでプカプカ吸っていた明治生まれの祖父は同年代の平均寿命をはるかに上回る84歳まで生きたのだ。死因は老衰で呼吸器に何ら問題はなかった。

ロードバイクで週末2時間ほど走っていた頃と比べると、体重は増え続けているが、これは承知のこと。もう少し暖かくなったらまた再開する予定だ。それよりも、今回の健康診断ですこしショックだったのが、身長の減少だった。

普段身長など気にしないのだが、今回の測定結果は前回より1.5cmほど少なかった。看護婦さんが、「身長は以前と比べてどうですか?」と聞いてきたので、どうしてそんなことを聞くのかな、と思いながら結果を見ると明らかに減っていたので驚き、「身長って歳とともに減るものなんですかね?」と言うと、「減りますよ。」と、何ともそっけない答えだった。

早速帰宅してインターネットで調べてみると、椎間板の厚みが減っていくにつれて、身長も減るものらしい。それに、猫背やO脚なども少しは影響するようだ。あの看護婦さんの聞き方では、還暦を迎える頃に減り方が顕著になるんじゃないだろうか。

「身長の減少は仕方ないとしても、体重は気にした方がいいんじゃないの?」カミさんは、嫌味たっぷりに言うのでした。

サンチャゴ要塞の水牢

2015年03月15日 | 日記
マニラに赴任する前は、フィリピン人の対日感情はかなり酷いのではないかという先入観があった。少しフィリピン関連の本を読むと、大東亜戦争中に、日本軍がアメリカ兵の捕虜たちを移動のため長いこと歩かせたという、「バターン死の行進」と呼ばれる過去があると書かれていた。

直接フィリピン人をどうした、こうしたというわけではないようだが、ただ何となく日本軍は酷いことをしたようだという印象があった。なぜなら、私の赴任先が、そのバターン半島先端にある工業団地だったからだ。

しかし、実際に赴任してみると、私の不安は単なる杞憂に終わった。先輩たちに聞いても、特に反日感情など感じないというものだった。確かにDeath March と彫られた小さな石碑が建ってたが、草茫々でまったく目立たなかったので、地元の住民はまったく関心はないようだった。

たまに、休みをもらって、マニラに買出しに出たとき、海岸近くにあるサンチャゴ要塞跡に行ったときのことだ。スペイン統治時代の要塞跡で、石で造られた要塞には珍しい水牢があった。半地下に造られた牢獄で、満潮になると海水が徐々に流れ込み、捕虜や罪人は溺死する。

見ればその構造で何なのかは大体分かるが、小さな白い看板が立っていて、説明が書かれていたので読んでみた。水牢の説明が書かれていて、その末尾には「日本軍は戦時中この水牢で多くのアメリカ兵捕虜を溺死させた・・・」という内容の一文があった。

直感で、私はこの最後の一文は、あり得ないことだと思った。当時軍律の厳しさでは世界でも定評のあった帝国陸軍がそのようなことをするはずはない。赴任する前に読んだ本には、現地の戦争体験者のエピソードとして、空腹の日本軍が村に忍び込んで家禽を盗んだが、その後には棒切れが立ててあって、先端に軍票(戦時のお札)が何枚か挟まっていた。直接その紙幣が使えるわけではないが、当時の日本兵は悪者ではなかったという印象だったそうだ。

サンチャゴ要塞の立て看板は、アメリカの入れ知恵で立てられたのだと思う。アメリカはスペインからフィリピンを奪い取ろうと計画し、フィリピン人たちにスペインを追い出せば、お前たちは独立できると、耳打ちした。だからアメリカに協力しろというわけだ。そして、スペインが降参した後、アメリカはちゃっかりと自分のものにしたのだった。文句を言って逆らう多くのフィリピン人をアメリカ軍は容赦なく殺したという。

そういう史実を私は、他にもいろいろアメリカ軍の腹黒さを物語るエピソードと共に赴任前に仕入れていた。しかし、悲しいかな、悔しいかな、ほとんどの日本人観光客たちには英文の看板は意味不明なただの板でしかないだろう。

日曜が待ち遠しかった番組

2015年03月15日 | 日記
今思い出すと、自分が小学校高学年の頃か、もしかすると中学生だったかもしれないが、毎週日曜日の昼前頃に欠かさず見ていたテレビ番組があった。どんなことがあっても、この番組だけは見逃したくなかったほど一週間楽しみにしていた、お気に入りの番組だった。

当時は1ドル=360円の時代で、海外旅行など夢のまた夢の時代だったせいもあるが、番組が紹介するのは海外の観光地だけではなく、そこでの文化や人の暮らしを見せてくれて、観る者をぐいぐい引き込んでいった。しかも、そこに行った張本人が語る解説は、興味深い話ばかりで、できるならその場ですぐにでも飛んで行って、自分の目で見たくなるような作りだった。

兼高かおるさんは、世界中を飛び回るジャーナリストで、荒削りで男勝りの女性かと思いきや、番組進行のパートナーである芥川隆行さんとの会話を聞くと、なんともお上品で、教養豊かな女性だとわかる。ちょっととぼけた芥川さんのツッコミにも、「そーなんですの・・・ホホホ。」と軽くいなすユーモアのセンスもあり、私は映像だけでなく、そういった普段耳にすることのない、息の合った大人の会話を楽しんで聞いていた。

「兼高かおる世界の旅」は当時、「世界の翼」だった航空会社PANAM の協力で製作された番組で、1990年まで続いていたそうだ。渋いナレーションで活躍した芥川隆行さんはすでに亡くなってしまったが、当の兼高かおるさんは、87歳で今でも御健在のようだ。

どことなく見た目が日本人離れしていると思ったら、彼女はお父さんがインド人で、本名はローズというそうだ。東京のミッションスクールを卒業してからアメリカの大学に留学しているので、英語はもちろん不自由なく話せるし、それだけに通訳を介せずに自らがレポーターとなって、堂々とした態度で体験取材ができたのだろう。自分の足で南極点や北極点にも行っているというから、まさに正真正銘のスーパーレディだったのだ。

番組は地球規模で、未知の世界は地球上に無限に存在するかのような気分にさせてくれた。少なからず、自分の人生に影響をしたテレビ番組だったのではないかと思う。当時としては傑出した内容だった。

『テレビで見た人』崇拝します。

2015年03月15日 | 日記
3局あるテレビのローカル局の、夕方のワイドショー番組を見ていると、どの局の番組にも、すでに賞味期限が切れた芸人さんがゲストやレポーターとして出演しているという不思議な共通点があることに気がつく。いわゆるお笑い芸人であったり、俳優であったりするのだが、なるほどこういうのが、「ドサまわり」と呼ばれる現象かと納得する。

言ってみれば、全国区というか、中央のテレビ局からはまったくお呼びがかからなくなった「タレントさん」「芸人さん」も、田舎のテレビ局ならば、まだまだ客扱いされるし、有り難がられる存在なのだ。実際、ワイドショーの進行係の人や、そのアシスタントというか、ホステスのような女性ほか番組の出演者たちは、世紀の大スターが登場したようなもてなし振りで番組が進行していく。

彼らは、偉そうに県内で起きた出来事について評論家よろしくコメントしたり、駅前の商店街で、街案内やお店紹介をそのテレビ局のキャピキャピした新人女性アナウンサーと一緒にやったりしている。

例え売れなくなった人でも、田舎町をテレビカメラを伴って歩けば、街行く人たちは、大騒ぎとなり買い物中のオバサンたちは、往年の大スターとであったような反応をするところが、滑稽だ。さらに面白いのは、その「大スター」たちの態度で、何とも偉そうで傍若無人なのが共通している。

打ち合わせ済みなのだろうが、夕方の買い物で混みあうスーパーに入って行き、店長に時間制限で特定商品を割り引く交渉をしたりする。店長も、「じゃあ、番組を見たと言う方だけに、今から30分に限りこの商品を3割引で・・・」などと口裏を合わせて番組とその「大スター」の顔を立てるのである。

街行く人の中には、「テレビに出ている人だ」と言って握手を求めたり、着ているTシャツにサインを求めたりする変わり者もいる。そういう人達にとっては、例え売れなくなったとはいえ、「テレビに出る人」と握手したとかサインをしてもらったということが、自慢の種になるのだろう。

田舎の国道沿いのラーメン屋に入ると、壁一面にサインの色紙が貼られていることがある。ラーメン屋の主人の自慢なのだろうが、「○○さん江、とてもおいしかったです。」と隅っこに小さく書かれ、中央に何百回と練習して覚えたであろう見事なサインが書かれた色紙が往年の売れっ子振りを彷彿とさせるのだが、「一体、何でこんな店に立ち寄ったのだろう?」という疑問を抱かせてくれ、それはそれで少しは時間つぶしにはなるものだ。

演歌歌手は、一曲でもヒット曲を持つことができれば、当分食いっぱぐれることはないそうだが、タレントさんについても似たようなことが言えるんだろうなあと、業界を垣間見たような気分になる。同時に、テレビに出るということは、それほど偉いことなんだろうかと少し首を傾げたくなるのも事実だ。