孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

欧米礼賛はほどほどに・・・。

2015年03月22日 | 日記
22歳のとき、渡米する前は、アメリカという国に対する私の印象は、繁栄と自由の象徴、世界一の先進国、といった感じで非の打ち所がありませんでしたが、渡米前に読んだアメリカの歴史に関する数冊の本や、実際に渡米して見聞き体験したことで、徐々に印象が変化してきました。

中でもアメリカの黒人奴隷の実態を知った時は、それまで抱いていた正義の国というイメージが音を立てて瓦解し、当時でもKKKという人種差別結社が歴然と存在することは、俄かに信じられませんでした。

また、東海岸に入植してから、西へ西へと進出していく上で、先住民族の「インディアン」を次々と皆殺しにしていき、その数は1千万人から25万人程度まで激減したそうです。その殺し方も直接戦って虐殺していくというより、インディアンが衣食住の拠り所としていた、バイソンを殺すことで、彼らの糧道を断つという、極めて卑怯なやり方を採ったといいます。

バイソンを殺して殺して殺し続けた結果、6000万頭いたバイソンが何とわずか750頭までほぼ全滅したようで、殺したバイソンの頭蓋骨が山のように積まれた写真をウィキペディアで見る事ができます。(「アメリカバイソン」で検索すれば見られます)

このやり方は、大東亜戦争のときも採用されたやり方で、東京大空襲などで、銃後の民間人を一網打尽で虐殺したのと共通しています。いかに効率よく東京の民間人を虐殺するかを検討するために、ハワイにわざわざ日系人を本土から連れてきて、日本家屋を造らせ、その燃え方などを研究した結果をもとに作った焼夷弾をB29に積んだといいます。

帰国してからも、戦史に関する書籍を通して、実は当時のルーズベルト大統領は日本に最初の一撃を攻撃させることで、アメリカ国民を戦争に巻き込ませることができると考え、そのように計画を練って実行したことが明らかになってきています。

他にも様々な真実が暴かれていますが、それを知ってアメリカ人を憎もうとか、謝罪を要求しようということではなく、こういう歴史のあらましを知った上でアメリカ他の国々と関わっていくことは意義深いことだと思います。何でもかんでもアメリカや西洋礼賛ではなく、彼らの腹黒さを知っておいて、損はありません。

異文化は時には理解しがたい。

2015年03月22日 | 日記
フィリピンには、勤務で9年弱駐在したが、フィリピン料理はとうとう好きにはなれなかった。日本から来た方を民族料理を看板に掲げたレストランに何度かお連れしたことがあるが、そこは小さな舞台があって、民族舞踊などを楽しめる所として便利なところだったので行っただけであって、おいしい料理を堪能するためではなかった。

テーブルに着く前に店内にある手洗い場で手をよく洗うのは、出された料理を地元の人と同じように、手で食べるからであった。もちろん、希望すればフォークでも箸でも持って来て貰えるから、手で食べることは強制ではない。

私も初めてそのレストランに行ったときは、出された料理を手で食べたが、途中からはスプーンとフォークを頼んだ。特にパサパサのタイ米を右手の三本指でつまんで、口に入れるとき、指の間や口元からポロポロ落ちて、ほんの数粒しか口に残らないというのでは、とても食べた気になれなかったからだ。

勤め先で毎年あった従業員によるクリスマスパーティーでも、必ずフィリピン料理が並んでいたが、見ても食べたいと思わせるような料理はなく、食材が何かも分からなかったので、敬遠した方だった。ただパンシット・カントンとかいう焼きそばは食べた。しかしこれは名前で分かるように、支那料理だろう。

あるとき幹部の一人が「日本人は犬の肉を食べますか?」と聞いてきたことがあった。日本でもかつては赤犬を食べる習慣があった、と聞いたことがあったので、「私は食べないが・・・」と前置きした上で、そのように返事をすると、今度一度食べてみないかと誘われた。あまり、気乗りはしなかったが、社交辞令として、機会があれば誘ってくれ、と言った。

そんなことがあってからすぐだった。「次の週末にジャンの家でちょっとした飲み会があるから、来ませんか?ジャンが犬を料理するんです。」と誘われた。ジャンとは、機械の保全を担当している体幹部の一人で、John と書くのでジョンかと思いきや、彼らの発音はなぜかジャンだった。彼らの飲み会は食べて飲んで喋って、飲んで・・・酔いつぶれるまで続く。

犬の料理はどうでもよかったが、言われた時間にジャンの家に行ってみると、みんな集まっていたが肝心のジャンの姿がない。尋ねると、彼は奥の台所で料理を作っているという。「犬か?」と言うと、ニコニコして「もちろん!」との返事だった。

庭というか、テラスのような場所があったので、そこに出てタバコを一服吸っていたら、地面に点々とシミがあるのが気になった。これはもしかして・・・と思って聞いたら、思い通り血痕だった。料理する犬の血痕だった。急に食欲がなくなって、家に帰りたくなったが、もう後戻りはできないと腹をくくった。

暫く待つと、料理が出来上がり、粗末なテーブルに並べられたが、何種類もあって、一体どれが犬の肉料理なのかは判別できなかった。パーティーは始まり各自紙の皿を手に、料理とご飯を盛り始めた。彼らはいつも飲む前にしっかりと腹ごしらえすることは分かっていたので、私も続いた。

親切に、これが犬の料理ですよと教えてくれる者がいた。ミンチした肉を何かの野菜と煮込んだような黒っぽい料理で、言われなければおいしく食べられたかもしれなかった。

私は物心ついた頃から家にはいつも犬と猫がいて、犬の餌やりと散歩は子供の私が担当していた。大の犬好きだっった。その犬を食べることなど・・・。しかし、大柄のジャンがニコニコしながら私を見ていたので、勇気を出してスプーン一杯だけ皿の隅の方に載せた。立食形式で和気藹々というより、みんな黙々と腹ごしらえしている感じだった。

私は、犬の肉料理をスプーンの先端に少しだけ載せて食べてみた。ご飯と混ぜて食べたせいか、味など分からなかった。二度ほど噛んで飲み込んだので食べたとは言えないかもしれないが、それ以上は無理だった。日本の実家にいる愛犬シロの顔が脳裏に浮かんでくるのだった。

やはり、私にとっては犬は家族の一員であって、殺して食べる食材の対象ではなかった。

先日、韓国人によるテロの被害に遭った在韓アメリカ大使の入院先に犬の肉を持参してお見舞いに行った韓国人がいた、というニュース記事を読んで、忘れかけていた犬の肉料理にまつわる私の思い出が蘇ったのだった。

それにしても、愛犬家だという件のアメリカ大使は、犬の肉をもらって、どう感じたのだろう?異文化を理解するということはつらいものだ。

還暦祝いの焼肉100分食い放題ねぇ・・

2015年03月22日 | 日記
実は、私は焼肉自体は嫌いじゃないんですけど、道路沿いにニョキニョキできた焼肉店の焼肉は、どうも好きになれないんです。ああやって、肉を薄く、長方形に切るのは、早く焼けて一口でパクッと食べられるからなのでしょうが、あれが嫌なのです。

今日、家族が還暦のお祝いに焼肉を食べに行こう!と言い出したのでダシに使われたのは承知でお供してきました。予約してあったようで、着くとすぐに店員がテーブルにまで案内してくれて、100分の食べ放題コースで腹を満たしてきました。

次男夫婦一家も来てくれて、ひたすら肉や野菜を胃袋に詰め込んだのですが、小さな肉片をチマチマ焼くのは、面倒で仕方ありませんでした。うかうかしていると、初めに載せたピーマンやキャベツが、見るも無残な炭になってしまいます。

やはり、肉は厚めのステーキで食べるのが好きです。マニラにある「ゲルニカ」という小さなステーキハウスのペッパード・ステーキがおいしくて、よく通いました。豪州産の牛肉が柔らかくて、胡椒の風味が効いた一品は、値段も日本円に換算すると1000円くらいと実にリーズナブルでした。

今日連れて行かれた焼肉店は、週末ということもあってか、超満員の上に入り口には順番を待つ人が10人ほどいて、多分地元の人気店なのでしょうが、客層は20~30代がほとんどでした。中高年が落ち着いて食事する場所ではありません。

隣の人と世間話もできないほど、騒々しい上に、店内が薄暗くて、ひたすら口をパクパクさせただけの100分でした。そろそろお開きにしようかという時、次男の嫁が中座したと思ったら、花束を手に席に戻ってきて、私に手渡してくれました。還暦のお祝いだそうで、こじんまりとした花束と、孫が描いたという私の似顔絵がセロテープで留めてありました。

何とも照れくさかったのですが、大きな声でお礼を言いました。聞こえたかどうか、あの騒々しさでは分かりません。ただ、このサプライズの演出・・、実は私は知っていたのです。なぜなら、店に入るとき、孫が私の所に来て、「おじいちゃんはお花が好きだから今日買ってきたんだよ。」と小さな声で耳打ちしてくれたからです。