孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

したたかな華僑の末裔

2015年03月29日 | 日記
シンガポールのリー元首相が他界して、テレビでは涙を拭きながら会見をする姿を繰り返し流していた。それは先に独立を果たしたマレーシア連邦の仲間に入り、イギリスからやっと独立できたと思ったら、マレー人たちと対立した上に、マレー半島の先端の小さな島に事実上追放されてしまったからだった。

テレビでは彼のリーダーシップと経済成長の偉業を称えてばかりいたが、一体マレー連邦からなぜ追放されることになったのか、その背景にはどういったことがあったのかと言う点には、まったく触れていなかった。

シンガポールは多民族国家と言われるが、人口の75%弱は支那人で、その他、マレー人が13%、インド人が8%という構成で、政治経済は支那人が牛耳っている。

マレー半島は19世紀に入って英連邦の植民地となり、貿易を一手に支配し、ゴム園や錫鉱山など搾取の限りを尽くしましたが、そんな時重宝したのが華僑でした。マレー人に課税してその徴収を一手に華僑に任せ、労働者には疲労を麻痺させる阿片を売り付け、その担当も華僑にやらせたのです。

英国人の下で甘い汁を吸い続けていた華僑を、苦々しく見ていたマレー人たちには支那人にいい感情を抱いてはいなかったのです。リー元首相の自叙伝でも、日本の統治を反感を持って見ていた。イギリス人による統治の方をずっと高く評価している、と書いています。

そう言えば、ベトナム戦争が終結したときも、華僑たちが迫害を恐れて次々とベトナムを離れる「ボートピープル」が報道されました。華僑は、ジャングルの中でも人が住むところには必ずいて、多くは食べ物屋を営んでいます。日銭が稼げることと、元手が掛からないからだそうです。

そして、小金が貯まると金の指輪など、身につける装飾品に替え、一旦乱が起きればサッサとその土地を捨てて、別の土地に移っていくのです。

以前シンガポールで1年弱暮らしてみて、華僑のこういう独特な性質が、何となく理解できる感じがしたものです。

山桜が美しい

2015年03月29日 | 日記
急に暖かくなってきて、庭に植えておいたチューリップがもうすぐ咲き出しそうな気配である。近くの県立公園には毎年、これでもかと言うくらいのチューリップが咲き誇り多くの人を呼び込むが、それに比べれば我が家のチューリップ畑は、球根の数にして20個くらいで実にこじんまりしたものだ。

しかし、花が咲くと殺風景な我が家にも彩を添えてくれるので、暫し明るい気分になる。今朝のんびりしながら遅い朝食をとっていると、テレビで桜の見どころ情報や、連休に見どころとなるお花畑などの情報を映像を交えて伝えていた。

我が家の近くにもお花見スポットが何箇所もあるが、桜トンネルとか、本数を自慢にする名所などが多いようだ。本居宣長が詠んだ歌に、『敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花 』という一句があるが、昔から桜は日本人の美的感覚にピッタリする花である。

それは単に花の持つ美しさだけでなく、蕾が膨らみ始め一斉に満開になったかと思ったら、さっと散って今度は新緑の葉が伸びた葉桜で楽しませてくれる。バラなどの洋花は見ごろを過ぎても、まだ茎に残ったまま朽ちていく。花の色の美しさはかなわないかもしれないが、風に舞う桜の花びらを花吹雪と呼んだり、散った後も葉桜と呼んで鑑賞の対象とする情緒は、日本人の自然に対する畏敬の念が表れていると思う。

テレビでは、桜の後は芝桜がお勧めだと、各地の観光花畑を映像と共に紹介していた。ピンク色の芝桜は確かにきれいだが、どうも日本人の美的感覚とは少し違うんじゃないかと感ずるのは、私だけだろうか。

同じように、北海道のラベンダー畑なども、スケールは大きいし、絵に描いたように美しいのは確かだが、なぜか行って見たいという心情にはならない。それは、大袈裟かもしれないが、私の中に存在する、「侘び」「寂び」あるいは、「おつ」「粋」といった日本人独特の美的感受性とは程遠い所為かもしれない。

自由の女神のプレゼント??

2015年03月29日 | 日記
自由の女神は、女神と言うからには女性だと思っていたが、実はそこははっきりしていないようだ。左手に独立宣言が掘られた銅版を抱え、右手にたいまつを高く掲げた銅像は、緑青で緑色に見える。

像の頭部の冠には7つの突起があるが、あれは7つの大陸と7つの海に自由が広がるようにという意味を表しているのだそうだが、あくまでも白人社会の論理であって、「自由・平等・友愛」だとかいう理念は、彼ら独特の理念であることを忘れてはいけない。

自由の女神が贈呈された当時は、アメリカは南北戦争が終わって間もないころで、奴隷制度こそ廃止されたのだが、アメリカ南部では、ジムクロー法という法律による黒人差別が1964年まで歴然と続いていたわけである。私たちが滞米中も、南部には決して行かないように、厳しく言われていた。

欧米の白人社会は、自由だの平等だの友愛だの、立派な理念を掲げながら、北米の先住民や南米大陸の先住民族を皆殺しにしてその領土を奪い取り、大航海時代にはインドからビルマからベトナム、マレー半島の東南アジアを侵略し、植民地支配して略奪の限りを尽くしてきたという事実がある。

7つの大陸と海に自由を広げるなどと、都合のいいことを言っても、それは所詮取って付けた理念であることがわかる。侵略された方にしてみれば、迷惑この上もないことだったろう。

1886年10月に自由の女神は台座も完成して、除幕式を行った。台座の中はエレベーターがあって銅像の中につくられた螺旋階段を登って、頭部の冠まで登ることができた。階段はかなり急だったが、せっかくだからと私も列に続いて登り始めた。

幅の狭い螺旋階段で、登りながら目を上に転ずると、何と女性の観光客がたくさん登っていくのが見えた。彼女たちはほとんどが、当時流行が定着していたミニスカートをはいていて、見たくなくても下着が丸見えだった。しかし、彼女たちはそれを承知で(だったと思う)、手で隠そうともせず黙々と同じリズムで登り続けていた。

思わぬ光景に、私は動悸を3倍くらい激しくしながら、少し得した気分で時々上を見ながら登って行ったものだった。

人種の博覧会みたいだった

2015年03月29日 | 日記
中学生のとき観た「猿の惑星」という映画は、ラストシーンがショッキングだった。それまでずっと、宇宙のどこかの星での出来事だと思っていたのが、海岸の砂浜に胸まで埋まった自由の女神が現れて、そこは実は地球なんだと分からせる、というプロットだった。

映画を観てからおよそ10年後に、私は渡米して自由の女神の実物を見ることになるのだが、その時はまったくそんな気配も予兆もなかったのは言うまでもない。また、前回のブログにも書いたが、「猿の惑星」が、日本人(あるいは有色人種と言ってもいいかもしれない)を猿に見立てたストーリーであったということも、まったく知らなかった。

ジャーナリストの高山正之氏は、当時アメリカに産経新聞記者として赴任していて、日本であの凝った反日映画がヒットしていると知った米国人の知り合いが、不思議そうに驚いていた、と話している。

私はアメリカに2年間滞在したが、一番アメリカらしさを肌で感じたのは、実は自由の女神のあるリバティーアイランドという島に向うボートの中だった。観光客で満席だったそのボートには、地球上のすべての人種や民族が乗っていたのではないかと思えるほど、実に様々な国の観光客を観ることができた。

白人と言っても、背が高い人、私より低い人、アジア系、中東系、それに見るからにインド人といったターバンを頭に巻いた一団、女性も丸々太ったラテン系の女性や目鼻立ちがはっきりしたロシア系の女性など、人種の博覧会のようだった。

私は、これが人種のるつぼといわれるニューヨークそのものなんだなあと、しばし見入ってしまったのだった。そして、リバティーアイランドに着いた私は、そこでもっと驚き感動する体験をすることになったのだ。