浅間の煙

じいさんの気ままな独り言

立科コーラスの復活

2007-01-31 23:34:23 | Weblog
1月31日(水)。朝の気温ー2℃。今日もまた暖かい日となり、春が来た様だ。
 中学へジャガイモを納入して、局へ葉書を出し、帰りにYさんのところへ寄って、「ほっとステイ」の打合せをし、パンフを200部預かってくる。
 ベトナムの旅の記録をようやく書き込み,簡単ではあるが見て歩いた様子だけは綴る事ができた。
 昨年コーラスの指導者であるK先生が栄転されて遠くへ行かれてから、約一年ぶりに練習をした。Y先生が伴奏をしてくださるので、会長のUさんが指揮を取り、2月20日の高齢者学級を目指して復活したのである。大きな声を出して歌う事は、健康にも大変良いようにおもう。久し振りなので大勢集って、用意した楽譜が足りなくなった。みんな元気で集まれて良かった。

山宣について

2007-01-30 23:37:36 | Weblog
1月30日(火)。朝の気温ー7℃。朝は厳しい寒さであったが、日中は3月下旬の気温となり、役場へ行くのに外套は要らなかった。序に郵便局により、社協へも寄って、老人クラブの支部長研修会の参加申し込み書を提出する。25日のボランテイア代表者会の連絡を貰ったが、都合つかないことを伝える。
 午後は2月の中学校給食野菜の納入準備をし、大根は洗って乾かし保温をして置く。

 昨日山宣に付いて、ブログに詳しく書いたのに、どうした弾みか全部消えてしまったので、今日改めて書き直しておく事にした。
 山本宣治(1889~1929)は戦前の生物学者で、社会運動家でもあった。京都出身で、1922年に産児制限運動から労働運動に接近し、27年労働農民党・京都府連委員長となり、翌年普通選挙にもとづく第一回総選挙に立候補して当選。治安維持法の改悪に反対して帝国議会で孤軍奮闘し、29年3月右翼のテロにたおれた。
 葬儀は労農葬で、京都の花屋敷山本家の墓地に眠っている。3月5日が命日で、今年は78回忌の墓前祭が行なわれる。
 映画「武器無き闘い」(山本薩夫監督)は山宣の生きた証を良く現していて感動的である。山宣の娘さんが、井出孫六氏の兄,井出武三郎氏(元共同通信社論説委員長)の妻である。
 山宣と上田との関わりは1921年に上小の青年たちによって、上田自由大学が
開校され、講師としてタカクラ・テル氏が招聘された。タカクラ・テル氏は別所温泉に居を移しこの地方の労働者や農民の運動に強く共感し、とうとう彼の中心の仕事となった。山宣はタカクラ・テルの夫人つうと従兄弟の関係も有り、昭和4年3月1日、上小農民組合連合会第2回総会に講師として招かれ、2時間にわたって演説をし、満場を熱狂させた。その4日後3月5日夜神田の旅館で、右翼の手によって刺殺された。
 山宣追悼大会で記念碑建設が決まり、斉藤房雄(柏屋別荘の主人)の好意でテルの屋敷内に建てた。碑の上部には、警察の許しを得て「人生は短く、科学は長し」(宣治の座右の銘)をラテン語で刻んだ。
 昭和8年、2・4事件の後警察は、地主の斉藤房雄に山宣の碑の破壊を命じた。
斉藤は「碑を守り抜かねば」と、夜ひそかに、碑石を自分の家の庭に伏せ、警察へは「壊した。」と報告した。
 斉藤房雄の機知と勇気によって守られた山宣の記念碑は、38年ぶりに掘り起こされて、昭和46年に再建された。昭和63年に山宣と深い関係にあるタカクラ・テルの顕彰碑を、山宣の傍らに建立した。
 昨年斉藤房雄氏の顕彰碑を募金によって、山宣碑の隣に建立したので、三つの碑がハの字配置されて、面目を一新した。
 記念碑の建立されている所は、別所の安楽寺の寺域で、参道の黒門をくぐった右手に立っている。

山宣碑再建35周年記念事業実行委員会

2007-01-29 23:59:27 | Weblog
1月29日(月)。朝の気温ー2℃。北海道は大雪だと言うが、こちらはからからで、春のような暖かさだった。外套もいらないほどだった。
 今日は上田で、山本宣治の記念碑再建35周年記念事業実行委員会があり、出席した。会が終わって懇親会が有り参加して帰りは夜となる。コーラスは欠席する。

女性を「生む機械」とは?

2007-01-29 13:05:15 | Weblog
1月28日(日)。朝の気温ー4℃。新聞を見たら、厚生労働大臣が27日に松江市で講演をして、「女性は生む機械、十五~五十歳の女性の装置の数は決まっているから、あとは1人頭で頑張ってもらうしかない。」と述べたと言う。あきれた者だ。人間を何だと思っているのか。しかも厚労相という立場である。今の政府にはろくなものがいないようだ。困ったものである。
 退公連の新聞を会員の家に届け、宅配で東京の孫に荷物を送り、軽トラに燃料を入れる。Hさんからキノコの冷凍したのを沢山戴く。Iさんからはキウイフルーツをミカン箱に一杯戴く。
 年賀状の整理をした。受信数は717枚。喪中挨拶は57枚。住所不明で帰ってきたのが2枚.お年玉当選は3等が12枚有った。
 夜は茶のみ友達が集って新年お茶会をする。盛り上がって、解散したのは10時40分だった。

ミミズとアリと兵隊と

2007-01-27 23:55:43 | Weblog
1月27日(土》。朝の気温ー4℃。今日は裏の家の加奈さんのご結婚である。ご招待されたのだが、長野へ講演を頼まれて行かなくては成らない。長男に代わってもらおうと思ったらアメリカ出張で駄目。小諸の次男にたのんだら都合つけてくれて、軽井沢のホテルへ直行してくれた。 
 長野へ昼までに来て欲しいと依頼されたので、10時半に家を出る。ゆとりを持って走ると言う事はとても大事な事である。対向車が中々右折できないで、後続車が渋滞しているのを見ると、1時停止して『どうぞ』と通してあげたり、わき道から出られない車には、まえにわりこませて上げたり、ドライバーがにっこり感謝の意を現して会釈でもしてくれれば、こちらもいい気分になって、心が癒されいらいらもしない。少しの時間なのだが、こんなに楽しい走りが出来る。長野に着いたのは12時一寸すぎ、何時もと余り変わらない。会館の地下駐車場に入れたら、Mさんが来ていて「佐久から車で来られたの?」と言うからそうだと言うと吃驚していた。
 共済制度の学習の後1時間半講演をする。講演の後「ミミズとアリと兵隊と」の、故松田先生の書き残された文の紹介する時間を戴けたのは、大変有りがたかった。戦争が如何にむごたらしく、悲しいものか。軍隊がばかばかしい無意味なものかが、事実に基づいて書かれているから、共感できるのである。講演の後の質疑討論でも幾人かの発言が有り、実りある話し合いが出来たのは大変良かった。
 長野から帰宅したら6時半だった。7時からの古文書学習会に、H先生を乗せて中央公民館へ出かけた。