浅間の煙

じいさんの気ままな独り言

嬉しい雨

2005-06-28 19:58:14 | Weblog
鴨尾の畑で草刈をしていたら、何だか背中がひんやりして来たので、これは雨かなと思う間も無く,ざざざーと降り出した。急いで車に飛び乗った。5時5分前だ。もうちょっとで作業が終わる所だが、仕方が無い。帰り道に前田を回って,水の掛け口をとめておく。
今日は午前中、寿会の事業計画・活動予定・予算書・会員名簿・補助申請書などを整理して清書し、役場町民課高齢者支援係へ提出した。
昨日(27日)は、午前中7月放送の『立科の子どもの詩』の原稿を書き上げ、午後有線本部へ録音に行ってテープに取る。この放送は、7月3日と17日である。夜はふれあい朗読会の14回例会で中央公民館へ行く。9時半までやって、終わった所へ、今井 正子県議が長野から駆けつけたので、みんなで花水月へ行ったら定休日だったので、望月の食堂へ行って、11時の閉店になるまで話を続ける。帰宅したらよくよく疲れてしまった。

中原さんを偲ぶ会

2005-06-25 22:33:43 | Weblog
「中原 信さんを偲ぶ会」が、飯山市で行われ、百人ほどの友人知人や関係者が一堂に会した。奥様から県教組時代の友人を代表して一言想い出を語って欲しいと電話を戴いていたが、中々その準備も出来ないでいた。さてと思った時には既に夜中を過ぎていた。そこで大急ぎでペンを握って想い出を詩に書いてみた。書き終わったのは午前3時である。ベットに横たわって6時半まで眠る。朝食を済ませて、8時に出発。東部・湯の丸ITから高速で飯山ITに着いたのは9時である。会場まで10分。10時開会なのでゆっくり時間があって良かった。
偲ぶ会で朗読した自作の詩を書き留めておく。
    「中原 信さんを偲んで」
              竹 花  初 雄
中原さん、
貴方は 春風の様だった。
県教組が、管理体制下におかれた時代、
自由に物も言えなかった、
厳しい冬の季節だった時、
さわやかな暖かい風となって、
北信の地 飯山から 吹き始め、
少しずつ 少しずつ 組合の中へ 吹き込んで、
民主化の風を 起してくれた。
その風は やがて 硬い扉を 一気に押し開けて、
凍った組合を溶かし、
見事に民主的な組合に変貌させた。
管理職が一般組合と分離し
その後も「マル秘文書」に見られるとおり
組合介入を続けていた1973年
その県教組本部へ書記長として当選し、
組合の中心に座る事となった。
校長・教頭と別れて6年目にして
ようやく成し遂げた快挙であった。
それは代議員投票最後の年である。
共に選ばれた同志四人。執行委員14人中の4人であった
厳しい時代はまだまだ続いていた。
執行委員会が深夜に及び、
徹夜する事も度々有った。
大会議案作りも大変だった。
多くの反対意見を 君のさわやかな弁舌で、
じわりじわりと 説き伏せ 時間をかけて、 
纏めあげていく努力は 目を見張るものがあった。
役員選挙の全員投票制
政党支持の自由
教頭の推薦基準作りの新方針や、
勤評B票の事実上の廃止。
中教審答申反対 等々・・・
闘争方針は次次と提起され、
民主教育を進める要求貫徹県民大集会を組織し、
1974年に5千人集会。
1975年も5千人集会。
1976年には1万人規模の 大集会を開催し、
その先頭に居たのは中原さんであった。
1万人集会のステージで、
SBCテレビ花形アナウンサーの岩崎さんと、
名コンビで 大会運営の進行役だった中原さんの
華やいだ姿は 今でも はっきりと眼に残っている。
この主任制度化阻止県民大会は、
県民署名37万余名分の県教委提出交渉を組織し実現した。 
これによって正に 教組と県民の提携が
名実共に大きく前進したのである。
中原さんは 常にこれ等の諸行動の先頭に居た。
中原 信さんよ、貴方は大きな仕事を成し遂げ、
春風となって、去ってしまったが、
ちょっと早すぎたでは無いか。
 
残された我々は
貴方の遺志を継ぎ、
民主教育の実現と 憲法を守り、
平和な世界実現に向かって 歩き続けます。

中原さん どうぞ 安らかに見守っていて下さい。
         (2005・6・25)