4月24日(水)。朝の気温4℃。曇りのち雨。
朝歩いている時時雨はじめて家に着いたらだんだん春雨のような降りになってきた。濡れないで帰れて何よりであった。
雨降りとなって畑仕事が出来ないので、有線放送の五月の詩の話の原稿をパソコンで書いていた。妻は山部のKさんに用事で出かけて昼食をご馳走になって帰ってきた。
午後新田の市川仁子さんのお葬式で、協和のカームしらかば葬儀場へ出かけた。市川仁子さんは79歳だと言う。としえさんの従兄弟である。喪主はお兄さんの正志さんであり葬儀委員長は市川圭三さんであった。桐原のSさん達も行っていて、挨拶を交わした。仁子さんのお父さんは桐原のS家から新田の市川家にお婿さんで行かれたのである。としえさんのお父さんの実兄だ。仁子さんの若い頃三都和の青年たちのかわず会の学習会によく顔を出されて、話し合ったことなどが懐かしく思い出される。あれ以来お会いする事もなかった。学校の先生をされておられたが独身で通されて、退職後はお母さんと一緒に暮らされていたとお聞きした。お母さんがなくなってからは一人暮らしで過ごされていたそうである。まだまだお若いのに残念である。ご冥福をお祈り申し上げる。
帰宅して山部のKさん宅へ届け物を依頼され置いて来た。その後物置の片づけをした。
朝歩いている時時雨はじめて家に着いたらだんだん春雨のような降りになってきた。濡れないで帰れて何よりであった。
雨降りとなって畑仕事が出来ないので、有線放送の五月の詩の話の原稿をパソコンで書いていた。妻は山部のKさんに用事で出かけて昼食をご馳走になって帰ってきた。
午後新田の市川仁子さんのお葬式で、協和のカームしらかば葬儀場へ出かけた。市川仁子さんは79歳だと言う。としえさんの従兄弟である。喪主はお兄さんの正志さんであり葬儀委員長は市川圭三さんであった。桐原のSさん達も行っていて、挨拶を交わした。仁子さんのお父さんは桐原のS家から新田の市川家にお婿さんで行かれたのである。としえさんのお父さんの実兄だ。仁子さんの若い頃三都和の青年たちのかわず会の学習会によく顔を出されて、話し合ったことなどが懐かしく思い出される。あれ以来お会いする事もなかった。学校の先生をされておられたが独身で通されて、退職後はお母さんと一緒に暮らされていたとお聞きした。お母さんがなくなってからは一人暮らしで過ごされていたそうである。まだまだお若いのに残念である。ご冥福をお祈り申し上げる。
帰宅して山部のKさん宅へ届け物を依頼され置いて来た。その後物置の片づけをした。
市川仁子さん、市川先生は佐久市志賀の小学校の教師をしてた方でしょうか?
もしそうなら知ってる事を教えて頂きたくブログにコメントしました。
私は佐久市志賀小学校の生徒で、市川仁子先生と言うお名前の方が恩師でした。
市川仁子さん、市川先生は佐久市志賀の小学校の教師をしてた方でしょうか?
もしそうなら知ってる事を教えて頂きたくブログにコメントしました。
私は佐久市志賀小学校の生徒で、市川仁子先生と言うお名前の方が恩師でした。