浅間の煙

じいさんの気ままな独り言

横浜市立奈良中学校の生徒さんをほっとステイで迎える

2011-05-31 12:53:54 | Weblog
5月30日(月)。朝の後味が悪い気温12℃。雨後晴れ。
 夜明けから8時ごろまでまだ雨が降って居た。畑に入れないし困ったものだと思っていたら、雨が止みほっとステイの生徒が来る頃はよい天気となっていた。それでも畑には入れないので、竹細工をすることに決めて竹とんぼ作りをした。男4人女3人計7人でまだ1年生のため無邪気である。しかし見本に見せた良く飛ぶ竹とんぼが2たつとうとう無くなってしまった。こっそり誰かが持ち去ったのかもしれない。どこを探しても見当たらない。今までにこんなことはなかった。後味が悪い。誰もが竹とんぼうまく作れて楽しく飛ばしていたのに誠に残念である。早く気が付けば注意できたのに惜しかった。午後の散策もお天気に恵まれて予定どうりにでき、二十日大根もみんなに御土産にもって行って貰った。

沖縄・辺野古のお話を聞く会

2011-05-31 11:17:01 | Weblog
5月29日(日)。朝の気温14℃。雨降り。
 朝6時から町を美しくする運動で、公民館からの連絡で作業に出た。雨がどしゃ降りの中を合羽を着て集りゴミ拾いをした。
 8時からは寿会の花一杯運動の花畑除草と花の苗うえをする予定だったが、中止の連絡があり9時から総会をすると言うので出席した。会が終わって帰宅し、居間の改修で食器棚の移動をした。同級生のYさんから宮澤文雄先生が亡くなって今日葬式だという新聞記事を見たという知らせがあり、驚いて新聞を見たらまさにそのとうりであった。早速支度をして藤澤を回りY君を車に乗せて上田市の塩田の葬儀場に行く。1時の告別式と言うことで、40分程待ちあい室で待機し焼香をした。同級生代表でも包んでいった。雨は激しく降り続いていた。帰宅して直ぐに着替えて佐久市の教育会館へ急いで行った。「沖縄・辺野古の話を聞く会」はもう始まっていた。会館がオープン以来初めてと言う人出で150人を上回ったという。もう座る席もなかった。やっと一つ見つけてもらって座る事ができた。島袋文子さん(82歳)と渡嘉敷ヨシさん(73歳)・金治明さんの3人を沖縄からお迎えし約1週間佐久に滞在していただいてお話を聞くことが出来たのである。そのためのカンパも約90人からご協力を戴き来て頂く費用をまかなう事ができて本当に良かった。沖縄戦争の話や返還運動の話など基地沖縄の抱えている苦悩が語られて、参加者に大変感動を与えてくれた。寄せ書きの大きな布も一杯に埋まって沖縄への御土産になった。会が終わってから岩村田小を卒業した生徒さんとお母さんも見えていて大変親しく挨拶をして下さった。感謝状を差し上げたのに感動したと言い、担任の先生にも見てもらったと言う。元気で中学に通っているというので安心した。帰りに明日のほっとステイの買い物をして来た。
 夜はほっとステイを迎える準備をした。
 

二十日大根の収穫

2011-05-31 10:15:11 | Weblog
5月28日(土)。朝の気温12℃。晴れ。後雨。
 昨日のほっとステイに来た生徒に二十日大根を抜いて御土産に差し上げた。大変良く成長していてびっくりした。そこで今日は沢山収穫して農ん喜村と菜ないろ畑に出荷した。洗って選別しながら袋詰めにして、バーコードを貼り店頭に並べるのであるが結構時間がかかって帰宅したら昼食に成ってしまった。
 午後は田植えの補植をした。残してもらっておいた苗箱1箱が丁度終わった。前に畦草を刈っておいたので周りは綺麗である。22日に水を入れてから掛け口を止めてあるが水は減らないでまだ掛け口を開けなくて良さそうである。
 田植えが済んでから、今晩の古文書学習会のテキストをコピーした。先月Hさんから借りた古文書と、Nさんから借りた古文書である。会員数にプラス2部印刷した。講師無しでの2回目の学習である。夜その学習をした。解読書無しの解読であるから時間がかかってよい勉強になる。修了時刻の9時に成ってもまだ取り組んでいて、公民館警備員に迷惑をかけてしまった。

横浜市都岡中学からほっとステイに来訪

2011-05-31 07:32:28 | Weblog
5月27日(金)。朝の気温14℃。雨後晴れ。
 昨夜からの雨が朝まで続き、今日のほっとステイはまた屋内かと心配していたら、朝のうちに雨が止み天気は回復した。しかし畑に入れる様子ではない。横浜市立都岡中学の2年生が男子3名女子2名の計5名が来た。そこで裏窪の畑の紫蘇を作付けするところの草むしりをして、紫蘇の苗を植えた。足元に藁を敷いて土が付かないようにしたが、矢張り土は沢山着いてしまった。さつまいもも苗が届いていたので二本ずつ植えてもらう。午後は散策で西久保池の周辺を一回りして来た。3時半に生徒を送り、さつまいも苗を植えに行く。雨の後なので水は少なくで済んだ。全部で100本植わった。
 夜は農事組合法人蓼科農ん喜村の第9回通常総会が交流促進センターで開催されて出席した。

みちのくの旅(花岡事件や啄木の故郷を訪ねる)

2011-05-28 21:34:52 | Weblog
5月24日(火)雨後晴れ。
 退職教職員の会の県外旅行で旅に出た。
 5時50分に家を出て野方を回り、Mさんを迎えて東部湯の丸サービスエリア下り線の駐車場に車を置く。妻の運転で行き、場所をⅠさんに教えて頂いて無事に着いた。定刻にバスが来て指定された佐久支部の席に座る。1号車には佐久の外に上小・更埴・長野・中高・飯水などの東北信が乗り込む。2号車は中南信である。北陸道米山SAで合流し出発式を行った。
 1日目は旧山古志村の見学である。2004年10月23日に発生した新潟県中越地震により甚大な被害を受けた山古志村の復興した様子を見れるのが楽しみであった。現地に着いたのは12時20分頃であった。先ず山古志会館(旧役場)の2階で昼食(山古志弁当)を戴きながら震災当時のDVDを視聴し、13時から宍戸末雄さん(災対連事務局長)のお話を聞き、続いて青木勝さん(元長岡市山古志支所長)からお話を聞いた。被災から3年間は現場に入ることも出来なかったが2007年4月1日に避難指示が解除され村に帰って来た。しかし地域外に生活の拠点を移した世帯も多く、域内の高齢化が深刻化しつつある。しかし青木さんはこの現象は山古志に限った事では無いといい、これを若者にとどまれといっても生活できなければどうにもならないことで、むしろ若い者に出稼ぎに行ってもらう形で、定年になったら村に戻ってもらって農業を楽しみながら趣味に生きてもらえるような村つくりをして行くことが今一番求められているのではないだろうかと言う話は大変心打たれた。休憩時間に山古志の山菜加工品や手芸品などの出張販売品を買い求め復興への支援をした。14時半から16時半までガイドの案内で現地見学をした。被災現場は想像を絶するものであった。まだまだ復興はこれからと言うところが多い。
 被災現場を見た後中山隧道(なかやまずいどう)の見学をした。山古志村の小松倉(現長岡市)と広神村水沢新田(現魚沼市)の間にある国道291号旧道のトンネルである。1933年から1949年にかけて旧山古志村小松倉集落住民の労働奉仕により作られたもので、手掘りトンネルとしては日本最長の875メートルで、2006年に土木学会選奨の土木遺産に選定されている。
 17時40分に寺泊野積の岬温泉ホテル飛鳥に到着。入浴休憩をして夕食を済ませ20時にホテルを出発、新潟港に行き21時30分新日本海フエリーに乗船1等船室で一夜を過ごした。

5月25日(水)晴れ。
 旅の2日目である。5時50分に秋田港に着いて下船、森岳温泉丸富ホテルで洗面・朝食。大館市のJR下川沿駅前の小林多喜二生誕の碑前に行く。NPO花岡平和記念会の方が3人待っていてくださりガイドをしてくれる。先ず小林多喜二の碑の話から生誕の地の家の跡をを見て、次に安藤昌益の墓をお参りをし江戸時代中期に封建制を否定した最初の人物として有名な思想家の生きた証に接した。続いて中国人強制連行をして起きた花岡事件の見学をした。先ず中国人殉難者慰霊碑に参拝し「花岡事件」記念館を見学し話を聞いた。記念館は昨年開館したばかりである。『加害の歴史事実』を記憶し、語りついで行こうという趣旨で建設されたこのような施設は、全国でも貴重である。今年6月で事件から65年。全国からの浄財で建設されたものである。花岡に連行された986名の内実に418名が祖国の地を踏む事が出来なかった。
 大館市内花善で昼食をとり十和田ICから滝沢ICを高速経由で啄木のふるさと渋民に行く。石川啄木記念館を見て母校渋民小学校の校舎に入り教室や職員室・小使い室等を見る。代用教員時代の下宿部屋なども見学した。
 宿泊は花巻温泉郷志戸平温泉のホテルで、前回と同じ宿であった。

5月26日(木)晴れ後雨。
 旅の最終日。5時起床入浴して6時50分朝食。8時15分ホテル発。8時半高村光太郎記念館に到着。記念館を見学の後高村山荘を見る。光太郎の純粋な人柄が偲ばれる粗末な小屋を現地のガイドさんの案内で見学した。光太郎は190センチもある巨人であった。記念館には昨年十和田湖で見た『裸婦像』の原型も陳列されていた。智恵子がモデルであるという。智恵子の切りぬき絵も飾られていた。『父光雲像』は堂々たる作品であった。近くに「雪白く積めり」の碑や智恵子展望台などがあった。小林節夫さんの著書「ペンと戦争」に載せられている光太郎の「報告(智恵子に)」の詩が大変心に響いてくる。戦争中多くの文学者が「日本文学報国会」に組織され、戦争推進に協力したが、戦後の風潮に順応してなし崩しに「平和」「民主主義」を口にする文学者が沢山いた中で高村光太郎は戦争協力を恥じて大田村の山林の中で小屋を建て7年間も暮らして世を去ったのである。
 高村記念館を出て花巻南ICから帰途に着いた。途中国見SAで休憩し郡山JCTから磐越道を通って北陸道を通り、米山で解散式をあげて帰宅した。