浅間の煙

じいさんの気ままな独り言

今井清夫さんの葬儀

2007-10-31 06:11:25 | Weblog
10月29日(月)。晴れ。・・・・・5236歩
 悪友は今日も午前中マレットゴルフを楽しんで帰るというが、俺は葬儀もあるし午後の会議もあるので、朝食が済んだら、みんなと別れて帰る。帰宅途中で老人センターへより、局長のガイドバスツアーへの参加を確認し、ガイドブルボンをYさんに出してもらい、トラベルしなのへ寄ってガイド参加者数が46人に確定したことをつげと帰宅。早い昼食を済ませて礼服を着、野方の笹井吉翁さんのお葬式に参列できなかったので、お線香を上げさしてもらいに伺う。幸い息子さん夫婦とお孫さんのお嫁さん、曾孫さんも居られて挨拶でき、ご焼香の後お茶を頂いて老大時代の思い出を話すことができた。笹井産のお宅を辞してカームしらかばの葬祭場に行く。
 今井清夫さんは74歳。まだまだこれからと言う年齢だ。俺の従兄弟のゆきさんの長男である。27日の朝病院で目を落とされたという。あまり突然だったので、お見舞いにもいけなかったので、香典と一緒にお見舞いも差し上げる。ご焼香が始まるまで約20分ほど待っていた。参列者の先頭でお悔やみを申し上げ、ご焼香を済ませて帰る。着替えて急いで佐久教育会館へ行く。来年度の退教互佐久支部研修旅行の打ち合わせ会である。川西が当番なので、責任者として会の進行をする。旅行会社のAさんが参加して説明をしてくれたので、大変良かった。次回は12月12日に決める。

悪友会の忘年会

2007-10-31 05:28:25 | Weblog
10月28日(日)。朝の気温8℃。晴れ。・・・3993歩。
 ちょっと早い忘年会の誘いがあり、午前から佐久創造館のマレットゴルフ場で、プレーをして、午後3時ごろから一万里でと言うことであるが、昨夜急にガイドのバスツアー参加者が変わり、名簿の作り変えや資料の配布などがあり、忙しい仕事もあったので、忘年会だけに参加することにして、夕方出かけた。午前中は公民館の大掃除を部落役員と2班の合同で実施し、畳まで上げて掃除をした。お天気が良くて何よりだった。
 会場には既に9人の友達がゴルフを終わって入浴してきて、お茶を飲むところであった。俺にも入浴を勧めてくれたが、宴会の後にする。5時半からの宴会は酒よりカラオケのほうが得意と言う友もいて、3時間もみんなで歌いあう。話したり歌ったり、食べたりと楽しい時間を過ごした。

蓼科高校ジャズクラブコンサート

2007-10-28 12:13:40 | Weblog
10月27日(土)。朝の気温10℃。1日雨降り。・・・5789歩。
 台風の接近で、朝から激しい雨降りだった。昨夜仕上げたガイド資料を31日の参加者に配布する。コーモリ傘は持って歩いたのだが、車の乗り降りの度に降りかかる雨で、全町を回る頃には上着がびっしょり濡れてしまった。濡れると上着も重くなり全身が疲れてしまった。配布し終わったら丁度お昼になった。丸々半日かかってしまった。着替えてお昼を食べたら、疲れも取れたようであった。
 午後は丸子文化会館へ蓼科高校のジャズクラブのCD制作・発表記念コンサートに参加する。クラブ員総勢50人近くの生徒の演奏は大変すばらしく、感動させられた。24曲の最後の演奏の後、アンコールの拍手が止まず、それに応えてアンコールを2曲続けて演奏をした。
 夜は古文書学習会で中央公民館へ行く。

大正ロマンの森「竹久夢二」を訪ねて

2007-10-28 11:44:32 | Weblog
10月26日(金)。伊香保温泉で朝を迎える。1日中雨降り。・・4412歩。
 雨の中をホテルの車で送迎してもらって、「竹久夢二伊香保記念館」へ出かけた。紅葉に囲まれた大正ロマンの森の中に博物館があった。夢二は日本の近代芸術の先駆者として、絵画に・デザインに・詩人としても大いに活躍し、人形作家でもあった事が展示作品を見てわかった。美人画は良く知られているので、承知はしていたが、蕎麦チョコやカーテンのデザインまでも手がけて立派な作品を沢山生み出していて驚いた。かすかすの作品を時間を忘れて眺めていた。隣のオルゴール館へも足を運び、様々なオルゴールの響きに癒されて帰った。夢二の50年の生涯は「美とロマン」に溢れたものであったことだろう。
 水沢観音に参拝し、うどんを頂いて帰る。軽い沢は紅葉の真っ盛りだった。
 帰宅して31日の資料作りに取り掛かり、木掘り会も篆刻の会も欠席してコピーと製本で夜半が過ぎてしまった。

富岡製糸工場見学

2007-10-28 00:19:01 | Weblog
10月25日(木)。朝の気温4℃。・・・4344歩。
 退職教職員の会の研修で出かける。1行22名で伊香保へ行く途中、富岡製糸場の見学をする。前に何回も来ているが、今回は世界遺産に登録申請をしたことから急に脚光を浴びて、見学者が増え工場でも入館料を取って丁寧に引率説明をしてくれることになり、大変参考になった。とにかく賑やかで驚いた。今まではこんなことは無かった。説明も大事なポイントを抑えて丁寧に話してくれた。明治5年に操業を初め日本の国の外貨獲得の重要な地位を占めて、営々と発展をとげてきているのである。工場のたてものの設計はフランス人だという。しかしレンガも日本製だと言う。かわら焼き職人が研究して完成させたものだと言うことである。
 宿は「さくらい」ホテルで、風呂は6階の展望風呂だった。