ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

受け容れるということ

2010-06-01 22:37:50 | カトリックの信仰
 鳩山首相退陣を求める構図は、自民党が1年毎に投手が変わった図式を思い出す。確かに、頼りないです、鳩山さん。確かにお坊ちゃんで、政治家に向いているというのは小沢さんタイプなのかもしれません。リーダーシップないのか、あるのか…摩訶不思議な存在です。今までの自民党の党首なら投げ出していても不思議じゃないところだと思うけれど、これで本当に続投してこれからの普天間問題の決着まで責任を果たしていく「気概」を「決意」を見せることができたら、この鳩山さんかなりタフな政治家なのかもしれない。ご自分の理想を言葉に載せたら、そのことの実現にむかう、でも全部実現できるとは限らないのは首相の身でなくても、どこにでも体感できる。

 先日、去年公開された「ダウト」という映画を見た。その映画の中で、厳格なシスターが「悪魔を退けるためには、ときに神のまなざしから遠ざかるときも必要!」と、司祭に「疑いをもつ」司祭は「疑惑(doubt)は不寛容をうむ」と説教で語る。疑いをかけられる側と疑いをかける側にどれだけの違いがあるのだろうか。

 聖書の中で、姦淫を犯した女に処罰を希望する人々にイエスが「あなたたちの中で、罪を犯したことがないと者がまず石を投げよ」という場面で、ひとり去り、二人去り、石を投げる者がいなくなった。イエスは女に「あなたの罪は許された。もう罪を犯さないように…」といわれた。

 互いの物事に対する対処の違い、価値観の違いに気付いたときに、排除するか非難するか、理解しようとするか受け容れるか…寛容であることは本当に難しい。今日は、鳩山さんに対する「沖縄に対する裏切り、国民の期待に対する裏切り…」という言葉が行き交うたびに、ひとりの人に責任を負わせる多くの意見の持つ怖さ、世論の怖さを思った。辻本さんが「政権側に一緒にいたものとして、あのような結論に至ってしまった責任は私にもある」という趣旨のことを発言していたのが今日の私には救いの言葉であった。

 今日、職場での、この言葉の切っ先は私に向かっている?? 数日前、体調が芳しくなかった方へ「お大事に、ご無理なさらないように」と連絡ノートに書いた欄外にご自身から「こういうことは書かない方がいいです!」とコメントを見たときに,さ~っと血の気がひいたときに似ていた。 受け取り方は様々だから、そういうこともありかとすでに納得済みだったけれど、自分はここにいられなくなるかもという予感に似た思いが瞬間湧いた。でも、今は明日は何もなかったように仕事に向かおうと思っている。いろんな人がいるんですもの。

5月31日

2010-06-01 06:38:30 | 大切な人 家族・友人
 父が亡くなったのは2004年5月31日夕方でした。

 その一年はは、2003年3月に長女、5月31日に次女、2004年4月に長男と我が家は慶事が続いていた。19年飼っていた犬が老衰で逝ったのが2003年12月24日、父が緊急入院したのがその夕方、年が明けて告知があってから、自宅に帰って穏やかに過ごすこと約半年。私の人生の中でも、こんなに色々なことが次から次へ起きた年もなかったような気がする。
 
 あの濃密な看取りの日々は奇跡に似て、特別な日々として今も胸の中に畳まれていることが多い。

 そして、大切な友人の誕生日が5月31日、友人の父上の命日も同じと聞いている。いくつもの記念日が重なっている一日はいつも色々な思いの交差する私にとっての特異日となっている。