指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『吾輩は猫である』

2010年10月25日 | 映画
市川崑監督で作られた夏目漱石のあまりにも有名な小説、と言っても原作は物語性は薄く、今日的に言えばエッセイ的な小説である。
主人公のくしゃみ先生は、仲代達矢、妻は波野久里子で、悪妻ぶりがぴったり。
親友のめいていは、伊丹十三で、これも適役。
むしろ仲代は、あまりにも悠然としていて立派過ぎる気がする。
漱石は、もっと神経質な線の細い人だったと思う。
そうでないと、盗品を受け取りに警察に行き、その夜を家に戻らず、姪の島田陽子の家に泊まってしまう気弱さの理由の説明がつかない。
この後、泥棒と刑事が家に挨拶に来るが、辻萬長と海野かつおで、辻の方が立派なヤクザ、海野が怪し気な男で、漱石が取り違えてしまうのがおかしい。海野かつおなど、失礼だが、大して有名でない喜劇人をよく使ったと思う。彼の代表作に違いない。

寒月の岡本信人、金貸しの三波伸介の金田、その高慢な妻岡田茉莉子、美人の娘篠ひろ子、さらに仲代の仲間の前田武彦、中学の校長の岡田英次など、多彩で適役はさすが市川崑である。
彼によれば、脚本と配役で映画の70%は決まってしまうのだそうだから。

この作品は、東宝配給だが、製作は芸苑社。
1970年代、東宝は、東宝映画の他、東宝映像、芸苑社、青灯社、東京映画等の製作プロを配置し、製作と配給の分離を図った。
東京映画で、文芸映画を多数作ってきた佐藤一郎の芸苑社は、『華麗なる一族』等で大成功したが、佐藤の死で終焉になる。
さらに、青灯社に至っては、「社長の堀場伸生が、『レイテ戦記』の企画で資本金を使ってしまうような大失態で、潰れた」と葛井欣四郎の『遺書』にあった。
分社化は、責任分担の明確化とリストラには意味があるが、全体の管理や統制も余程きちんとやらないと、これまた無責任体制になってしまうようだ。
1980年代以降、内部製作機構ではなく、外部プロダクションからいくらでも作品が来るようになったので、東宝は、東宝映画と特撮の東宝映像にしてしまう。なんとも懐かしい気がした。
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『牝犬』

2010年10月25日 | 映画
志村喬特集、1951年の大映作品。
監督は木村恵吾、女優は京マチ子、久我美子、北林谷栄など。
保険会社の重役でまじめ一方の志村喬は、部下の使い込みを調らべに浅草のキャバレーに行く。
そこで京マチ子と出会い、京の兄でヤクザな加東大介に鞄を詐取されかけたことから、逆に会社の金300万円を持ち逃げし、京マチ子の愛人になってしまう。
木村恵吾監督と京マチ子と言えば、前年の谷崎潤一郎原作の『痴人の愛』がヒットしていて、ここでも京マチ子は、肉体的魅力で周囲の男を破滅させる女を演じている。

二人は、東京から逃亡して港町に行き、横領した金でキャバレーをやっている。
志村が、真面目な男から悪役に変わるのが面白いが、その原因は、京の肉体にあり、志村は京マチ子の体から逃れられない。
木村恵吾は、エロい映画が得意で、文芸エロ路線である。

キャバレーの楽団に二枚目の根上淳が来て、彼に京マチ子は惚れてしまい、執拗に迫る。
だが、クラシックの楽団に入ることになり、東京に行ってしまう。

その夜、流しのストリッパーが踊り、楽屋で休んだとき、志村は慰労に彼女に自分で淹れたコーヒーを出す。
と女は、志村の娘でバレリーナを目指していたが、志村の不行跡に絶望した母親北林の死でストリッパーに落ちぶれた久我美子だった。
この辺の因果物劇は、脚本の成沢昌成のセンスである。
最後、根上を追って行く京マチ子を刺殺した志村喬は、港の防波堤を歩み、自死することが暗示されて終わる。

この題名の『牝犬』だが、以前は野川由美子主演で『三匹の牝猫』や『賭場の牝猫』など、性的欲望に駆られる女を、犬、猫にたとえる題名があったが、近年は見ない。確かに野川由美子は、猫のような目だったが。
やはり、人間のごとく、「犬権」や「猫権」の尊重から来たものか。

キャバレーの前の通りの鉄道の踏切のセット撮影が上手い。
この映画も、当時の作品の常で、ほとんどが撮影所のセットで撮影されていた。
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