指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『東京の合唱』

2010年10月30日 | 映画
小津安二郎のサイレント時代の代表作の一つ『東京の合唱』が、活弁付きで上映されるというので、久しぶりに門前仲町まで行く。
ここへは、品川に住んでいた頃は、路線バスがあったので、よく遊びに来たことがある。

小津の戦前の映画、殊にサイレント作品は、なるべくなら活弁付きで見るようにしている。
本来、弁士が付き、音楽の演奏も付いた作品を、「映像だけで鑑賞しろ」と言うのは少々乱暴で、映画の半分くらいしか味わったことにならないからである。別にマツダ映画社の宣伝をするわけではないが。

今回は、無声映画鑑賞会の上映で、活弁は澤登翠、会場は門天ホール。
ここは、戦後すぐは日雇労働者の溜り場、江戸時代で言えば人足寄場だったところだそうだ。
となると今井正の、日雇労働者、当時で言えばニコヨンの河原崎長十郎らを主人公にした映画『どっこい生きている』も、この辺をロケしているのかもしれない。この辺と、確か千住辺りが映画の舞台だったように思うが。
ビルを建てるとき、組合が最上階にホールを作り、ビルの最上階の天井なので、門前仲町天井ホールで、門天ホールなのだそうだ。

井上正夫主演の『己が罪』が終わり、澤登が語る『東京の合唱』。
合唱ではなく、コーラスだそうだ。
話は、中学生の岡田時彦と教師斉藤達夫との交流を描くもの。
大学を出て生命保険会社のサラリーマンの岡田は、社長の横暴に怒り、首になってしまい失業者になる。1931年、昭和6年は大変な不況で、町には失業者、ルンペンがあふれていたそうだ。
妻は八雲恵美子、長男は菅原英雄,長女は7歳の高峰秀子で、可愛い。

求職活動中に岡田は、偶然恩師の斉藤に会う。
彼は、教師を辞め、妻の飯田蝶子と洋食屋「カロリー軒」をやっている。
洋食といっても、メニューはカレー・ライスのみ。
岡田は、斉藤に頼まれ店の宣伝の幟旗を持って町を歩いているところを、偶然市電に乗っていた高峰に発見され、八雲も驚く。

家に帰ってきた岡田に、八雲は言う。
「世間に顔向けできないことはしないで下さい」
当時、まだ広告・宣伝業の社会的地位は低かった。今日の電通の興隆を見ると、隔世の感がある。
だが、斉藤には岡田の「就職先を斡旋してもらう義理もあり、店を手伝うことした」との説明に八雲も納得し、
「私も一緒にそこで働こうかしら」と決心する。

ある日、中学の同窓会が斉藤の店で開かれる。
メニューは、ビールで乾杯し、カレーライス1皿で、15銭。これが、戦前の宴会だったのだろうか。
そこに、岡田の勤め先の通知が来る。
栃木県の女学校の英語教師。
岡田と八雲は、東京を離れる寂しさと職を得た喜びに浸り、同級生は寮歌を歌って祝す。
合唱ではなく、斉唱であり、ユニゾンに過ぎないが、まあそれは良い。

これを見て、私には小津の遺作『秋刀魚の味』への疑問が解けた。
『秋刀魚の味』は、笠智衆らが、中学の恩師東野英治郎が学校を退職後、娘の杉村春子とラーメン屋(映画ではチャンそば屋と言っている)をやっているのを見て、笠が婚期を逃さぬように娘の岩下志麻を結婚させようとするものである。
だが、『秋刀魚の味』が作られた昭和37年当時、年金制度はすでに整備されていたので、「教師の笠が、退職後の生活のためにラーメン屋をする必要がないのに、なぜやっているのか」見るたびに不思議に思っていた。
だが、『秋刀魚の味』は、実は戦前の『東京の合唱』の再映画化だったのだ。

戦前は、公務員以外は年金制度も不十分で、映画の斉藤達夫のように第二の人生を自分の手で営む必要があった。
と言うより、戦前の平均寿命は50歳半ばくらいだから、多くの人は退職即死去で、年金生活の必要もなかった。
小津は、『秋刀魚の味』を『東京の合唱』の再映画化で作ったので、そこには時代のズレが生じたのだ。
そのほかにも、小津安二郎の戦後の作品には、「これは戦後ではなく、戦前の風俗では」と思われるシーンが結構ある。
それは、多分再映画化によるものだろう。

ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』ではないが、日本の社会は、戦前と戦後は戦争によって分断されているのではなく、むしろ継続している箇所も多いのだから、それも正しいのかもしれないが。

岡田時彦を見ていて、その痩身で面長で知的な顔つきは、岡田時彦の実娘岡田茉莉子の夫である、監督吉田喜重にそっくりなことを発見した。
私は、オイディプス・コンプレックスを全面的に肯定すろもではないが、こういう実例を見るとうなってしまう。
門前仲町 門天ホール