指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『川田晴久物語』

2017年09月24日 | 大衆芸能

墨田区千歳にある渡辺信夫さんの私立図書館の眺花亭では、毎月映画会をやっていて、この日は皆大好きな川田晴久の物語。

30年位前のテレビ朝日の番組で、小堺一樹の案内で、関係者の話を聴いていくもの。

私も、もちろん同時代的に川田を見たのは、美空ひばりの時代劇映画で、大抵は瓦版売りなどだった。

その後、彼や「あきれたぼういず」のことを知り、LP、CDも持っているが、大変な才能、企画力、センスのあった芸人だったと思う。

                                       

彼は、もともとは本郷の生まれで、浅草の芸能が好きになり、浅草オペラの団に入ったのち、吉本の東京の浅草花月で、あきぼすを結成して大人気になる。

中では、当時まだ生きていた坊屋三郎が出てきて、「今のジャニーズなんか問題じゃないよ」と自慢しているが、嘘ではない。

今と違い当時の劇場は、定員制ではなく客をいくらでも入れたので、劇場の二階から落ちたなどという話もあったくらいなのだから、客の入り方が違う。

灘康次、田端義男、はかまみつ緒ら、実際に仕事をした人間が証言しているが、「この連中もみな死んだな・・・」と思う。

中でおかしいのは、皆ギターは下手だったと証言していることで、実際はそうだったのだろう。

彼は、戦前のメンバーの引き抜き、脊髄カリエス、再結成など非常に波乱に富んだ人生を送った。

戦後の一番の功績は、言うまでもなく美空ひばりを発見して引き上げたことで、むしろ晩年にはひばりに着くことで芸能界を生きていたように見える。

1957年に死んだが、よく考えれば彼は、やはり実演、映画、ラジオ時代の人気者で、テレビ時代ではなかった。

その意味では、彼の後を継ぎ、テレビを中心に大活躍するのがクレージー・キャッツだったといえるだろう。

この二つは、非常によく似ていると私は思う。

どちらも洋楽の心得があるが、日本的な音楽も会得していたこと。

クレージーも、メンバーのほとんどは東京生まれで、育ちも中流の家の出だったことなど。

どちらも、今テレビ界を席巻している関西の芸人とは異なる、ある種の含羞を持っていたことであると思う。

 



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