指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

「遠野凪子だった 『ファミリー・トゥリー』」 

2020年12月31日 | 音楽
YouTubeで、武満徹の『ファミリー・トゥリー』があり、画面に出ている少女が気になっていて、見るとそれは遠野凪子だった。


                                   

武満は昔から好きだったが、20世紀末からは、やや武満から離れていた。それは、武満らしさが失われてきたように思えたからだ。

武満もそうだが、20世紀の現代音楽は、簡単に言えば「不安の音楽」だった。
シェーンベルグに始まる「現代音楽」は、それまでの古典派からロマン派にいたる社会から、19世紀までの欧州の貴族社会の崩壊、戦争と革命の時代へのインテリ等中間層の不安の表現だったと思う。
武満も、そうで戦後の日本の不安、混乱の表現だったと私は思う。
だから、武満の音楽は、松竹や東宝、日活でも多くの秀作を作りだした。
それは、恋愛映画や青春映画が、不安の表現だからだ。
東宝の藤本真澄が、武満の起用に不安を抱いたとき、武満は
「私の音楽は、メロデアスなんですけれど・・・」と言ったそうだ。
内藤洋子の『伊豆の踊子』なども実に武満的で、繊細で不安な音楽だった。

だが、1989年にベルリンの壁がなくなり、東西冷戦が終わり、続いてソ連が崩壊し、戦後の世界をおおっていた核戦争という地球最大の不安が一応消えた。
そして、武満の音楽も、方向を見失ったように私には見えた。
だが、この彼の晩年の作品は、非常によいと思えた。
谷川俊太郎の詩に基づき、自分から祖父、祖母、父、母、そして現在の自分の戻ってくる。
それはまさに「家系」であり、マルクス的に言えば、「個として死に、類として生きる」である。
そういえば、遠野凪子は、内藤洋子のようにもみえる。今では、テレビ・バラエティで、暴走女優になっている彼女だが、そこでは指揮のシャルル・デュトワの演出で、的確に詩を読み、少女の演技しているように見える。

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