指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

慶応のプールがなくなっていた

2018年11月25日 | 音楽

昨日は、日本ポピュラー音楽学会の大会が開催されたので、日吉の慶応大学に行く。

ここに行くのは、たぶん1966年春の文学部受験以来で、大きく変わっていたのに驚く。その前に、中学受験でも来ているが、これももちろん落ちたのである。

一番変わったのは、入口の街路樹脇にあった屋外プールがなくなっていたこと。

1960年代前半、東京都城南地区にはプールは少なく、公営で安いのは神宮プールで、高いのが後楽園プールだった。中で日吉の慶応大プールは値段も安く、きれいで快適だった。

本当にそんなものがあったのかと思うなら、石原裕次郎、芦川いづみの『あいつと私』を見るとよい。

この中平康がまだ良かった時の娯楽作は、1960年安保を背景にしていて、その冒頭で裕次郎は慶応プールに突き飛ばされ、女装してキャンパスを歩き、服装を変えるために芦川いづみの家に行く。

                               

ここが凄い美女家族で、母は轟夕起子、長女は芦川、次女は吉永小百合、三女は酒井和歌子なのだ。

ついでに言うと、祖母は細川ちか子で、女装の裕次郎を見て

「おや、これがおカマやサンですか!」と言う。 在学生に聞いたら、屋内にプールはあるそうだ。

初日なので、個人発表を聞く。

最初は、中国の研究者劉さんの「戦前の大連放送局の流行歌放送」で、戦前、満州電電のケーブルを使って国内放送も中継されていた他、大連の放送も作られていたとのこと。森繁久弥のことはご存じなかったので、彼の伝記について話しておく。

2本目は、金沢区在住の島倉さんの、「太平洋航路における「船の学士」の軽音楽受容」で、東洋汽船、日本郵船の客船の中での楽師の音楽曲目についてで、非常に面白かった。特に驚いたのは、東洋音楽学校、現在の東京音楽大学の卒業生を日本郵船の船は多く採用していた。その理由は、当時東洋音楽学校を出ても、学校の音楽教師にはなれなかったので、その就職先として船の楽師があったというのだ。

音楽教師になるには、東洋音楽学校を出た後、東京芸大を出る必要があり、言わば予備校的な存在でもあったというのだ。

これは、黒澤明の父黒澤勇氏がいた日本体育学校でも起きていたことだった。日本体育学校は、その趣旨は強壮な兵隊を作るものだったので、教師などは関係なかったのだ。だが、これでは生徒が来ないとのことで、二代目の経営者は非常に頑張って教師になれる道を開き、生徒を多く集めることに成功したのだ。

3本目は、東京芸大の加藤さんの「1970年代以降のジャズフェスティバル」で、戦前からの日本のジャズフェスティバルを辿る有意義な発表。私は、高校生と時、行った「1964年の世界ジャズフェスティが日本に於けるポピュラー音楽のフェスティバルの嚆矢だろう」と言っておく。

そこでは、専門家によるジャズについての議論の場も開かれるなどもあり、この時録音された『マイルス・イン・トーキョー』は、1960年代にジャズ喫茶に行くと、一日1回はリクエストがあり、かかったものだ。

最後は、同じく芸大の澤田さんによる、「本土復帰前後の沖縄のロック」で、喜屋武マリー、ジョージ・紫、宮永英一らの軌跡を辿るもの。沖縄の音楽の独自性をよく描いたものだった。こうした沖縄の音楽の試行錯誤の上に、1980年代の喜納昌吉以降の沖縄音楽の大成功だったと思う。

書くことはいろいろあるが、時間がないのでまた書く。



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