猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

アメリカの平等主義はプロテスタントの教義からきたのではない

2021-03-30 23:12:14 | 宗教


昨日の私の疑問は、アメリカの平等主義はプロテスタントが生んだのか、という疑問である。というのは、プロテスタントの本流であるカルヴァン派は、人間は生まれながらにして平等でないと考えるからである。神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとする。マックス・ウェーバーは、神の偏愛を知ることができないから、不安に駆られて人は利殖のための利殖に走る、そして、それが資本主義の精神だと言う。

私は、もともとプロテスタントにいろいろな派があって、カルヴァン派のニューイングランド支配に反抗するなかで、平等主義や反知性主義がでてきたのではないかと、と思う。

森本あんりは、『反知性主義』(新潮選書)で、そうではなく、プロテスタンティズムの変質だ、プロテスタンティズムの土着化だ、アメリカ化だという。

同書のプロローグに、森本はつぎのように書く。

《はじめ大陸の改革派神学の中で語られた「契約」は、神の一方的で無条件の恵みを強調するための概念だった。人間の応答は、それに対する感謝のしるしでしかない。》

《ところが、ピューリタンを通してアメリカに渡った「契約神学」は神と人間の双方がお互いに履行すべき義務を負う、という側面を強調するようになる。》

これは、救いが神の気紛れとする「改革派(カルヴァン派)」のドグマから外れている。人が神に契約を守れと迫ることができるからだ。しかし、旧約聖書を読むと、ユダヤ教は神に契約を守れと叱っているところがある。「改革派」のドグマから脱皮するのは当然ではないか。

プロテスタントに、ルター、カルヴァン以外の系譜がいたとすれば、話しが変わる。そして、アメリカにいろいろな思いをもった人々が押し寄せ、るつぼと化して、まざりあって現在のアメリカが生まれたとした方が自然な解釈ではないか。神の重荷から脱却して、人間中心のアメリカになっただけではないか。マックス・ウェーバーも森本あんりも、保守的プロテスタント(=改革派=カルヴァン派)を過大評価していないか。

森本あんりは同書の3章でつぎのように書く。

《ルターが論じた「キリスト者の自由」は、宗教的な領域における自由であって、その自由が一直線に市民的自由へと発展を遂げたわけではない。彼の思想に共感した農民たちが領主への反乱を起こすと、ルターは容赦なく「盗み殺す農民暴徒ども」を打ち殺すよう勧めた。》

ルターは南ヨーロッパによる教会支配に逆らっただけで、王や貴族の支配に対する農民の反乱はルターによって引き起こされたのではない。無学の農民がみずから反乱を選んだのであって、トーマス・ミュンツァーなどの一部の神学者がそれを助け、殺されたのではないか。そして、抵抗し迫害された人々の子孫がアメリカに逃れたのではないか。

森本あんりは、同じ章に、つぎのように書く。

《宗教改革の中でも、ルターやカルヴァンはいわば主流派であり、その限り穏健な部類に属する。彼らは、聖書や伝統の理解に関しては大胆な改革を唱えたが、社会の中で教会の占めるべき位置については、中世的な理解をほとんどそのまま踏襲している。この点に大きな異議を突きつけたのが、宗教改革のもう一つの勢力である急進派で、その代表格が「アナバブテスト」(再洗礼派)であった。》

森本あんりは、5章に、つぎのように書く。

《もともとプロテスタントは「聖書のみ」を掲げて出発しているが、アメリカではこれが特定の教義を掲げない「神学なし」「信条なし」という意味になる。》

もともとプロテスタントは支配階級の外にいたのだから、文字は読めず、聖書が正しいのなら、こう書いてあるという思い込みから、生まれた信仰ではないか。「神学なし」「信条なし」は当然の帰結ではないか。

アメリカで、キリスト教が土着化したというより、ヨーロッパ大陸から逃げてきた人々が、旧来の王侯貴族がいないアメリカで争い、神学によらずに、平等を求めていったと考えたほうが良いのではないか。だからこそ、カトリック教徒のトクヴィルも、平等を求めるアメリカの民主主義に人類の未来を見たのではないかと思う。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿