猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

民主党政権時代は悪夢だったか、安倍政権の7年半こそ悪夢なのか

2020-09-12 23:37:28 | 安倍晋三批判
 
安倍晋三は、民主党政権の3年間は悪夢だったという。誰にとって悪夢なのか。利権を貪っていた人たちにとって、悪夢だったのではないか。
 
安倍晋三が総理大臣の辞意を表明してから、いろいろな裏話が吹き出てくる。安倍を担いでいたのは、官房長官菅義偉のグループと経済産業省出身の今井尚哉首相補佐官のグループとがある。
 
きょう(9月12日)の朝日新聞の《オピニオン&フォーラム》で取り上げていたのは菅義偉の犯罪だ。
 
今井尚哉のグループがやってきたことは、神輿の安倍が沈みこまないように、すなわち、支持率が落ち込まないように、つぎつぎキャッチコピーと政策をつくってきたことだ。ところが、菅義偉はやってきたことは、党内政敵を排除すること、官僚幹部の人事権を把握すること、すなわち、権力闘争で安倍が勝つように支えることであった。したがって、菅は裏の仕事人で、よりワルである。
 
『《オピニオン&フォーラム》変わるか「政と官」』でインタビューを受けているのは平嶋彰英である。彼は総務官僚だったとき、菅の「ふるさと納税」に異を唱え、左遷された人物である。
 
国としてとった税を地方に分配するのが地方交付金である。これは、地方自治体が実際の福祉やインフラ整備などの行政サービスを行うが、税は利益を上げた企業や高収入の人たちから得られるから、国が税の再分配をしないと、行政サービスがとまってしまう。すべきことは、税の再分配、地方交付金のルールを明確にし、不公平を排除し、国民が納得できるものにすることである。ところが、地方交付金のあり方の改善ではなく、税をどこに納めるかは個人の自由であるとしたのが、菅の「ふるさと納税」である。起きたことは、地方自治体が「高価な返礼品」で争うことになった。
 
税は行政サービスに対する料金である。「ふるさと納税」は、本来の税の意味を曖昧にするとともに、地方交付金のもっていた再分配の機能を否定するものである。国民のことを思う官僚は、とうぜん、「ふるさと納税」のもつ危険性を指摘する。そして、菅は、国民のことを思う官僚を排除したのである。
 
菅は、行政サービスにはまったく無知で、「ふるさと納税」とか「カジノ合法化(IR)」とか、弱者切り捨ての政策しか思いつかない。そして、自民党総裁選の抱負として、「自助、共助、公助」をかかげる。すなわち、自分は「競争に勝った人間である」という誇りから、官僚に強権を振るい、政敵を排除してきたのである。
 
さて、平嶋はインタビューにつぎのように答える。
 
〈官僚支配打破を国民にアピールしていた民主党ですが、人事で意に添わぬ官僚を飛ばすようなことはほとんどなく、官僚からの問題点の指摘にも比較的耳を傾けていました。〉
 
〈(安倍政権下の菅義偉による)こうした『異例人事』は私だけではありません。だから、いまの霞が関はすっかり委縮しています。官邸が進めようとする政策の問題点を指摘すれば、『官邸からにらまれる』『人事で飛ばされる』と多くの役人は恐怖を感じている。どの省庁も、政策の問題点や課題を官邸に上げようとしなくなっています〉
 
おぼっちゃまの安倍が辞めて、叩き上げの菅が総理になったからといって、何も良いことはない。自由と平等が民主主義の基本である。競争と自助を求め、弱者を切り捨てることは、求める政治ではない。
 
縁故に頼らず独力で自分の地位を確保したと菅は自慢するが、私のように地方から出てきた者は、縁故に頼ることがなく、新しい仲間を作り、パートナーを見つけるのはあたりまえのことで、自慢することではない。
 
民主党政権は決して悪夢ではない。悪夢は腐敗を招いた安倍政権の7年半である。そして、それをささえた菅が、どうどうと「自助、共助、公助」を唱え、弱者切り捨てと恐怖の政治を続けるのを黙認できない。

人は何のために生きるのか、人は何のために造られたのか

2020-09-11 22:32:08 | 聖書物語


人間は何のために生きるのか、あるいは、何のために造られたのか、この問いは昔からある。

プロテスタントのなかのカルヴァン派は、ウエストミンスター小教理問答書に、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と記す。ここは、「神が、神の栄光をたたえるために人間を造った」と よく誤解されるが、小教理問答書の真意は私にはわからない。なお、聖書のどこにもそのようなことは書いてない。

5000年前のシュメール人は、「神様は働きたくないから、働かすために人間を造った」と考えた。

旧約聖書にも、このシュメール人の神話の痕跡がある。旧約聖書の『創世記』1章26節に、

〈我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。〉(新共同訳)

とある。すなわち、神様は先に人間以外の生き物を作ったが、その管理が面倒だと気づいて、上のように言ったのである。中間管理職として「人間」を作ったのである。

なお、ここで、「我々」と神様が言ったのは、多神教の神話をパクった痕跡だと多くの研究者によって指摘されている。

ところで、『創世記』2章5節は、

〈地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。〉(新共同訳)

と、それまでと矛盾する記述となっている。神様が、先に人間を造り、後で生き物を造ったことになる。

しかし、人間の造り方にシュメール神話の痕跡がある。『創世記』2章7節には、

〈主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。〉(新共同訳)

とある。この「泥から人間を造った」が、シュメール神話の痕跡である。さらに、『創世記』2章15節に、

〈主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。〉(新共同訳) 

とあるから、神様は小作農として人間を造ったことになる。1章26節より、人間の位置は下位になる。エデンの園は決して、楽園ではない。人間は、不在地主である神の農園の、従順な農業労働者であったというのが『創世記』の記述である。

なお、お気づきであると思うが、『創世記』には、世界の始めの2つの伝承があり、2章4節の中央がその境目にある。

〈これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき〉(新共同訳)

2章4節以前では、「天と地(השמים והארץ)」の順が守られ、以降では、「地と天(ארץ ושמים)」の順となる。単に天と地の順だけでなく、前者には定冠詞「ה」がついている。

神の名も変わる。2章4節以前は、神をエローヒーム(אלהים)と呼び、以降では、しばらく、ヤハウェ・エローヒーム(יהוה אלהים)を使っている。エローヒームは神の一般名詞で、ヤハウェはイスラエルの民が信じる神の固有名詞である。

それだけではない。前者のエローヒームという用法は、定冠詞も所有格もなく、旧約聖書のなかの他では見ない。普通は、定冠詞をつけるか、「あなたの神」「あなたがたの神」「私の神」「私たちの神」という使い方をする。

後者の用法も、旧約聖書のなかの他では見ない。ヤハウェとエローヒームを単純にならべない。日本人の感覚では「神であるヤハウェ」に違和感がないが、旧約聖書では、こういう用法はここだけである。「あなたの神、ヤハウェ」などのように、所有格や定冠詞が「神」につく。

とにかく、『創世記』の前半は、いろいろな部族の伝承を切り貼りしたもののようで、整合性は取れていない。

さて、本論に戻ると、私は「生きる目的」が不要だと思うし、「生きる目的」が言葉にされるとき、その人は、そして、社会は不幸な状態にあると思う。「目的」がなくても「生きる」のが健全な人間である、と私は思う。

「民族」は「人種」と同じく人間集団を差別するための言葉

2020-09-10 20:55:40 | 思想

小熊英二が、きょうの朝日新聞のインタビューで、「民族」という言葉は英語に翻訳しにくい、明治期中盤に日本で発明された概念だ、と答えていた。《オピニオン&フォラム》の『「有色の帝国」の呪縛』である。

昔、といっても5年前のことであるが、戦後70年安倍談話のなかで、安倍晋三は「民族」という言葉を2度使っている。一度目は、

〈世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました〉

の「民族自決」で、2度目は

〈植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない〉

の「民族の自決」である。

日本語の「民族」は他言語にない概念で訳しにくい。外務省は、これを、どう英語に翻訳するか、私は興味津々であった。外務省が作った英語版の談話は「民族自決の動き」を“the movement for self-determination”と訳し、「すべての民族の自決の権利」を外務省は“the right of self-determination of all peoples”と訳した。

一番目の用例の訳では、意識的に「民族」という言葉は訳していないのである。2番目は複数形のpeoplesを使うことで、民族主義 (nationalism) の匂いを消している。

日本語の「民族」とは独特のニュアンスをもった語で、かつて、西洋(イギリス・フランス・ドイツ・アメリカ)に対抗する大和民族、日本民族という形で使われたものである。しかし、けっして、「イギリス民族」とか「フランス民族」とか「ドイツ民族」とか「アメリカ民族」とはいわない。西洋に対しては、イギリス人、フランス人、ドイツ人、アメリカ人というのがふつうである。

小学館の『新解国語辞典』では「民族」の意味をつぎのように説明する。

〈地域的にも同一の起源を持ち、言語・生活様式・文化・宗教・歴史を共通にする同じ人種の集まり〉

「同じ人種」とはトンデモナイ解釈である。

岩波書店の『国語辞典』では「民族」の意味をつぎのように説明する。

〈人種的・地域的起源が同一であり(または同一であると信じ)、言語・宗教などの文化的伝統と、歴史的な運命を共有する人間の集団〉

これも「人種」という言葉が使われている。

理念で、すなわち、社会契約で個々人の集まりが国を作っているのではなく、地縁、血縁、運命という絆で国を作っているという、当時の現状に合わせた概念である。

小熊は、「民族」という言葉が明治期に発明された背景をつぎのように考える。

「人種」という言葉を使えば、自分たちが、人種差別のなかで、白人より劣るものの中におかれる。自分たちは西洋に負けない、しかも、他のアジアの人びとより優れている人間集団と言いたいばかりに、「民族」という概念を発明した、と説明する。人種差別を否定するのではなく、周りの国の人々を自分より差別するために、わざわざ作られた言葉である。

戦後「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳で人気を集めた英文学者伊藤整は、1941年12月8日の真珠湾攻撃に感激し、翌日の日記につぎのように書く。

〈私などは(そして日本の大部分の知識階級人は)13歳から英語を学び、それを手段にして世界と触れ合ってきた。それは勿論、英語による民族が、地球上のもっともすぐれた文化と力と富とを保有しているためであった。(中略)この認識が私たちの中にあるあいだ、大和民族が地上の優秀者だという確信はさまたげられずにいるわけには行かなかった。(中略)私たちは彼等のいわゆる「黄色民族」である。この区別された民族の優秀性を決定するために戦うのだ。〉

そろぞろ、人間集団を差別するための言葉「民族」の使用をやめる時期に来ているのではないか。

マックス・ヴェーバーの経済淘汰と人種差別と隣人愛の軽視

2020-09-09 23:36:09 | 思想


若い人にはマックス・ヴェーバー(Max Weber)とは誰のことか、もはや、わからないだろう。それでいいのだ。私の学生時代には、反マルクス主義の人たちによって読まれていたのが、Weberの著作である。

私自身は、当時、マルクスもWeberを読まなかった理系の人間である。
定年退職してはじめてWeberとエンゲルスを読んで、両人ともバカであると確信した。さらに、Weberは善人ではない。自分の正当化のために闘う人間で、ろくでもないごろつきだ。死ねと言いたいのだが、すでに死んでいるので、どうしようもない。両人ともバカだと思うのは、社会学なんて客観性がなく、あとの時代からみれば、自分に都合よく真実を捏造しているだけなのに、そのことに気づいていないからだ。

今野元の『マックス・ヴェーバー』(岩波新書)は、Weberの根本的な反人道的立場を3点指摘している。

1つは、社会に「経済淘汰」の概念を当てはめる。大塚久雄訳の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』につぎの節がある。

〈製造業者は長期間この規範に反して行動すれば、必ず経済的を受けねばならないし、労働者もこの規範に適応できず、あるいは適応しようとしない場合には、必ず失業者として街頭に投げ出されるだろう。〉

労働者のこの規範とは、安い賃金で一心不乱に精密に資本家のために働くことである。

すでにパリ革命が起きていたのに、社会主義政党ができていたのに、マルクスの著作があったのに、黙々と働く労働者しか、Weberは思い浮かべることができない。

アメリカで1913年に、ヘンリー・フォードは自動車製造工程をベルトコンベアの上に載せたことで有名であるが、それともに、彼は労働者を消費者と見たのである。労働者に車を買える給料を払うこと、また、労働者が車を買える値段に設定することを行って、彼は事業に成功したのである。

私は外資系企業にいた20年前、日本企業は中国を世界の工場とだけ見ていたが、外資系企業は、中国が巨大な市場になると見ていた。中国の人口が日本の人口の10倍あるとすれば、将来、10倍の市場になると、当時の外資系企業は見ていたのである。

労働者は働くだけの奴隷ではなく、購買意欲をもった消費者であることをWeberは気づいていない。労働者も人間であることにWeberは気づいていない。日本の財界もバカである。

2つめは人種差別である。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』には、ポーランド人や中国人への侮蔑が満ち溢れている。今野は、『宗教社会学論集』の序文でWeberがつぎのようにかいていることを指摘している。

〈西洋で、しかもそこだけで、特定の種類の合理化が発展したことに気が付くとき、ここで遺伝的資質が決定的な土台を提供しているのではないかという仮説が、当然出されることになるだろう。〉

Weberにとって、「西欧」はドイツ、イギリス、フランスで、「西洋」は、「西欧」にアメリカ(USA)が加わったもので、それ以外は劣等国なのだ。

そして、Weberは優生学のブレーツが社会学者たちのコミュニティで活躍するよう後押ししていた。

アメリカ人は、奴隷解放のために1861年から1865年にかけて白人同士が殺し合ったのである。黒人も人間であるという考えがアメリカにあったのに、1904年にアメリカに渡ったWeberは黒人を「半猿」と呼んで下等な生き物としてみなしていた。

最後の3つ目は、「隣人愛」を「神の栄光」をたたえるための行動の1つで、「禁欲」や「天職概念」と違ってプロテスタンにとって本質的でないものと見ていた。今野によると
さきほどのブレーツは「生存競争が果たす生物学的機能を説き、本来行われるべき淘汰が、人間社会では「隣人愛」の精神によって妨げられてきた」と警告したという。

キリスト教にとって、「隣人愛」は本質的ものである。「隣人愛」とは「自分を愛するように他人を愛せよ」という格言で、聖書がヘブライ語からギリシア語に訳されるとき、「他人」が「隣人」に訳されただけで、カルヴァン派の教会でも「隣人」を「人間というもの(普遍的人間)」と解されて、説教に良く取り上げられる。カルヴァン派は、決して、予定説と禁欲だけの教派ではない。

Weberは、近代の資本主義が自己の利益を追求する個人にもとづくと考えるが、20世紀初頭のアメリカの企業家には、従業員の文化的向上や経済的向上に尽くしたり、世界の病人を救済しようしたり、「人類愛」を実践したものが多かった。

Weberの経済淘汰説と人種差別主義と隣人愛の軽視は、当時の平均的アメリカ人と比しても、異常である。Weberは、ブルジョアに典型的な、利己的で戦闘的な教養人であり、「精神のない知識人」といえよう。

きょうの菅義偉の総裁選共同会見はしょぼかった

2020-09-08 22:04:54 | 叩き上げの菅義偉


きょう、9月8日、自民党総裁選の公示と3人の共同会見があった。菅菅義偉は原稿をみながらの会見で、ひじょうにしょぼいという印象を与えた。

菅は、裏で動く政治家で、これまで、一般への露出度がなかった。これから、総理となると露出度が高まり、庶民出の政治家というイメージからくる期待を踏みにじるだろうと思う。

菅は私のちょうど1年下である。戦後間もない私の子ども時代は暴力こそが「正義」の時代であった。「法」とは表看板であって、誰も信じていなかった。中学校の玄関には、登校時と下校時には不良少年がずらっとならんでいて、教師たちとにらみ合っていた。菅は「暴力こそが法である」を内側に秘めているというように見える。「良い子の皆さん、先生のいうことを聞きましょう」という時代の人間ではない。

とにかく、共同会見での菅のスピーチはみすぼらしかった。おぼっちゃまの自民党議員は、菅を表の顔にして、衆議院選挙に勝てると思っているのだろうか。もっとも、私は自民党に勝ってほしくないが。

共同会見で、菅は地方出身で政治家の2世3世でないことと、官僚の掌握力を誇っているだけである。理念がないから、安倍政治の継承や愛国や憲法改正を旗印にするしかない。

菅は、森友問題でも、当時、官僚への聞き取りを直接おこなっており、事実を知ったうえで、安倍政権に波及しないよう、事件を握りつぶした。官僚の弱みを調べ、支配に利用する。暴力団のやり口である。菅は、官僚幹部の人事権を握っていた。

また、菅は横浜市にカジノをもってこようとしている中心人物である。この点でも利権政治家である。

9月8日のTBSテレビ『ひるおび』では、政治ジャーナリストの田崎史郎と柿崎明二は、菅の党内政治の陰謀を暴露していた。田崎によると、安倍晋三は昨年の9月二階俊博を幹事長から外し、岸田文雄をそのポストにつけようとした。それ以来、二階と安倍の亀裂があり、その間を取り持ったのが菅であるという。

菅は安倍の取り巻きの経産省系官邸官僚とそりが合わず、コロナ対策をめぐっての政府の右往左往はこの結果であるという。GoToトラベルは菅の企画である。アベノマスクは経産省系官邸の企画である。右往左往だけでなく互いに足を引っ張っていたのである。

8月には安倍の辞任の意思が周囲に明らかだったが、みんなで安倍を慰留していた。このとき、すでに菅は安倍後に向けて動いていた。そして、幹事長の職に固執する二階を利用したという。

ネットで他の政治ジャーナリストのコメントもみたが、田崎史郎のこのコメントを裏づけている。