猫じじいのブログ

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助言と命令と要請、ホッブスがパチンコ休業にもの申す

2020-04-28 22:45:38 | 思想

きょう、ぶらっと寝ころびながら手にした本は、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン 2』(光文社古典新訳文庫)だった。開いたページは、たまたま、「第25章 助言」だっだ。

〈日常的な、意味の揺らぐ言葉を用いることによって物事の本質を判断すると、どれほどはなはだしい誤りを犯すことになるか。そのことを何よりも如実に示すのは、助言と命令の混同である。それは、動詞の命令形が助言と命令の双方、さらにはその他のさまざまな場合に用いられることから起こる。〉

ここで、「助言と命令の混同」は “the confusion of Counsels, and Commands”の訳である。

この部分の翻訳は、もちろん、意訳だが、原文で読むのと、印象がかなり異なる。文法の話しをしているのではない。ホッブスは、助言を与えているのか、命令しているのか、言葉だけで判断していけない、と言っているのである。

「日常的な、意味の揺らぐ言葉を用いること」は“the ordinary and inconstant use of words”の訳である。「日常的な、意味の揺らぐ」は「用い方(use)」にかかっている。

では、ホッブスは、どうすれば良いと言っているのか。話し手と聞き手の置かれている状況を考えよ、と助言している。ホッブスの考えを要約すると、つぎのようになる。

「命令」は話し手の意思である。すなわち、話し手が自分の利益を貫徹しようとするために、こうしろとか、こうするな、ということである。

これに対して、「助言」は、相手の利益を思って、話し手がする行為である。そして、求められて助言をするのがふつうである。しかし、下心があって、「助言」するかもしれないが、それは、助言者の義務に反する。

助言と命令と同じく、あいまいな使い方の言葉に、「要請」がある。この言葉は、相手のことを思ってなのか、話し手に下心があってなのか。

新型コロナ感染で外出要請、休業要請が乱発されている。政府や自治体は、国民や住民のサービス機関である。お客である国民や住民に向かって、「命令」できるような存在ではない。政府や自治体は、お客に対して奉仕する存在である。

「要請」は「お願い」であって、国民や住民のことを思って、専門家として「助言」するのである。

しかし、現実は、政府や自治体は既得権益者のためにしか、動いていない。そして、選挙を意識して、国民や住民をだまかすようなことしか、していない。もちろん、選挙を意識することは、民主主義がまだ生きていることを示すが、民主主義が機能していることにならない。

換気が悪く混んでいるところに行くと新型コロナに感染するかもしれないから、パチンコに行かないほうが良いよ、というのは、「助言」である。

現実は、近所のパチンコ屋は、緊急事態宣言の前、どこもガラガラであった。パチンコはパチンコ台と対面で、しかも、密集もしていない。換気だけがパチンコ屋に求められることだ。

パチンコ屋に休業を求めるは、自治体がコロナ対策をしているポーズをしたいからだ。単に、パチンコ業界はスケープゴートに選ばれたのだ。パチンコ屋だったら、擁護する人もいないだろうと、軽く見たのだろう。

しようもない粗悪マスクに460億円の予算をつけ、医療機関の物資が足りないのを放置する政府や自治体は何ものだ。

PCR検査がいまだに進まないのは、政府や自治体の誰かが自分の保身をはかっているからだ。

専門家会議が議論の内容をあきらかにしないのは、低レベルの「多かれ少なかれ」の話をしているからだ。西浦博教授はいまだに自分の仮説を説明しておらず、「8割接触を減らす」と「風邪の症状や37.5度以上の発熱が4日以上続く方」とが、ひとり歩きしている。根拠がしめされなければ、サービス機関が下心をもって、要請しているだけである。


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