猫じじいのブログ

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カウツキーの『中世の共産主義』がなぜ読みづらいのか

2019-11-06 00:26:05 | 民主主義、共産主義、社会主義

3日前から、カール・カウツキーの『中世の共産主義』(法政大学出版局)を読もうとしているが、なかなか読み進めることができない。扱っている題材は興味を引くのだが、教科書的な網羅的で、語り口が面白くない。カウツキーに光るものを感じられない。

この本は、最初はシリーズ“Die Vorläufer des neueren Sozialismus”の第1巻と第2巻として1894年出版された。しかし、このシリーズは続かず、カウツキーは、第1巻、第2巻、第3巻の前半を合わせて、1905年に再出版した。Vorläuferは「先駆者」、あるいは、「先駆体」という意味で、シリーズタイトル名は『近代社会主義のさきがけ』というところだろう。

本書のタイトル『中世の共産主義』は、原著の副題の“Kommunistische Bewegungen im Mittelalter”からくる。直訳すれば『中世の共産主義的動き』で、共産主義が中世にもうあったというものではない。北ヨーロッパの中世末における貧民の反乱の思想を取り上げているのだ。

フョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に「ドイツ北部に恐ろしい新しい異端が現われたのはまさにそのときだった」というセリフがある。この「恐ろしい異端」こそが、カウツキーの取り上げようとするものである。

だからこそ、私の興味を引くのだ。

カウツキーは、本文の冒頭をつぎで始める。

《現代の生産様式は自然科学と機械工学との応用を基盤としているが、この生産様式と現代社会のひときわ目に付く特徴の1つは、休みなく新発明と新発見にむけていそぐことである。》

ちょっと驚く書き出しだが、いそがしい現代人とちがって、中世のひとは、自分の考えが新しいものではなく、昔からあったとすることで、自分の正しさを証明する、とカウツキーは考えているのだ。したがって、彼は、プラトンや原始キリスト教から、中世の共産主義的動き、すなわち、先駆的反乱を解釈しようとする。

しかし、私は、そのまえに中世の貧民が文字を読めたか、を疑う。彼らは、プラトンや聖書を読んだことがなく、話しをひとづてに聞いた というのが 本当のところだろう。個々の反乱指導者は、プラトンの『ポリテイア』や聖書のちがった理解で動いていたはずである。

じっさい、紀元後間もないころのキリスト教徒は文字の読めない書けない貧民だったので、新約聖書の福音書の、旧約聖書からの引用はほとんど間違っていた。キリスト教徒は旧約聖書にそう書いてあるはずだという思い込みだけで、自分の思いを語る。そして、書いてあるはずだ、と思うことが、自分に権威を与える。

聖書研究者のバート・D.アーマンも、現代のアメリカの田舎町のキリスト教徒の多くは、聖書を読んだことがないのに、聖書の教えはよく知っていると思っていると言う。

さて、カウツキーは本書で次のように言う。

プラトンは、自由市民を守護者、軍人、商人・職人の三種類に分け、支配秩序のトップの守護者たちが互いに争わないために、富、女、子どもの共同所有を唱えた。これをカウツキーは「消費の共産主義」(ein Kommunismus des Konsums)と言う。

支配構造のなかで、人間をモノのように所有することを抜きにして、共同所有をもって、共産主義とするには私はついていけない。私のようなアナーキーのものにとっては、人間社会に支配や所有というものがあるから、問題が起きると考える。共同所有にしても、支配秩序は残るのである。

カウツキーはプラトンのなかに優生思想を見る。優秀な者どうしを掛け合わせることで優秀な子孫をつくり、優秀でない子どもを排除する。

また、カウツキーは、原始キリスト教の根本思想を絶対的な力をもつ救世主による神の国の実現とする。そして、新約聖書の『ヨハネの黙示録』こそ、原始キリスト教を表わすものだとする。

これだと、アドルフ・ヒトラーのナチズム(国民社会主義)、総統への絶対服従によるドイツ千年王国思想も共産主義になってしまう。

生産手段の国家所有だけを共産主義とするよりも、マシかもしれないが、支配秩序の廃止こそが 共産主義の目的でないのなら、私は共産主義に賛成できない。
優生思想も間違っているし、女や子供はモノでなく、ひとである。

新約聖書の『マルコ福音書』の10章42-43節に次のようにある。

《そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。》

(これは新共同訳だが、「異邦人」は「諸国民」と読み替えた方が元の意味に近い)

支配・被支配の関係の廃止こそ、原始キリスト教の根本思想だと私は思う。

このように、承服できないことが、『中世の共産主義』のあちこちに ちらばっているため、カウツキーのこの著作がなかなか読み進めないのである。


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