猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

デモクラシーの問題、「平等」と「自由」と「同質化」

2021-08-08 23:07:27 | 民主主義、共産主義、社会主義

今年、NPOで20歳過ぎの若者に中学校の公民の教科書の一節を読んでもらい、「自由とは何か」を問うた。彼は「自由気ままのことだ」と答えた。そして、「公民の教科書はもう読みたくない」と言った。

その答えにとまどったが、確かにそうだ。「自由」とは難しいことではない。気ままに、好き勝手に、ふるまうことだ。支配者には「自由」がある。被支配者には「自由」がない。支配者だけが「自由」を独占している。我々にも「自由」をよこせ。「自由平等」というではないか。「平等」がデモクラシーの第1原則なのだ。

宇野重規は平等をデモクラシーの根本に置き、自由とデモクラシーが対立することがあるという。「自由民主主義」というのは本当は安易なネーミングだという。

歴史的には、多数派が個人の自由を奪う危惧がデモクラシーにつきまとった、と宇野は言う。すなわち、近代のいう「自由」とは、あくまで「個人の自由」のことである。デモクラシーを多数決の制度とすると、この危惧があたる。しかし、現代において、大勢の意見が一致することが本当にあるだろうか。個人が確立している限り、私はないと思う。ただ、現代の民主政は代議制にもとづいているので、個人の自由が押しつぶされる可能性がある。選挙で選ばれた議員がいくらでも暴走する可能性があり、それを止める制度がない。党派が議員個人の投票行動を規制してはいけない。

デモクラシーのもつ「平等」が問題というより、現在の代議制の抱える問題と私は思う。

もうひとつの問題は、「平等」が「同質性」と誤解されることにある。「同質性」とは、同じものを食べ、同じ服を着て、同じように感じることを言う。個人の否定である。「平等」は、あれを食べたいという人も、これを食べたいという人も、対等の権利があるということである。すなわち、個人の思いが異なっていても、それでよく、「同質」にする必要がないのである。

学校においても、校則が服装や身なりに「同質性」を求めるのは、管理のしやすさからであって、「平等」の原則とは無縁である。平等の立場からすると、管理するものと管理されるものがいる学校のあり方自体がおかしい。

近代の共同体運動には、ナチスのように、「同質」にしないと共同体が成立しないという思い込みがある。もちろん、「同質」の人びとが集まってもかまわない。しかし、「同質性」を集団の外の個人に強制することには、私は反対する。また、共同体が互いに助け合う集団のことなら、そもそも同質性はその目的に不要な要件である。

[注」ナチス(国民社会主義労働者党)は、権力の把握後、Gleichschaltung ( 同質化)政策を行った。州自治をなくし、政党・労働組合を解体し、社会全体を均質化しようとした。

まとめると、デモクラシーは、人間社会の上下関係、命令する人と命令される人があることの否定である。アナキーなのである。「同質性」を要求することではない。

古代ギリシアでデモクラシーが実現されていたというが、民会に集まっていたのは、農民であり、靴職人であり、大工であり、商人であったのである。多様な職業につく平民であったのだ。

デモクラシーとなると暗愚な大衆が個人の自由を奪う、というのは、妄想であると思う。もし、あなたがその不安が抑えきれないなら、暗愚な大衆を啓蒙すれば良いことであり、デモクラシーを否定する必要はないはずである。

[蛇足]ところで、安倍晋三、菅義偉が国民より教養があるとは思えない。



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