猫じじいのブログ

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ファシズムとは何か、ムッソリーニとは何者か

2021-09-21 01:19:22 | 思想

私はイタリアのファシズムやベニート・ムッソリーニについてほとんど知らない。

日本では、アドルフ・ヒトラーに関する本は多いが、ムッソリーニについての本は見たことがない。年を取ってから、手を挙げてのナチス式敬礼はイタリアのファシストの挨拶の真似であることを知った。アドルフ・ヒトラーはイタリアのファシズムにあこがれて真似したものが多いという。

けさ、たまたま、日本語版ウィキペディアに、ファシズムの親方(ドゥーチェ)、ムッソリーニについてのとても詳しい記述が載っているのに気づいた。あまりにも詳しいので、私の頭はそれを処理できていない。

以前の私は、ムッソリーニについてつぎのように書いた。

《イタリアのファシズムは、田舎の教育家ムッソリーニが、町のよたものたちの再教育のために、古代ローマ帝国に模範を求め、軍事組織化したことに端を発する。》

これは、まったくの誤りであった。

日本語版ウィキペディアによれば、ムッソリーニは、はじめから、過激な愛国的活動家だった。彼は、1898年、15歳で師範学校にはいるが、孤独を好み、非常な読書家であったという。いっぽう、政治集会では雄弁であったという。1901年1月、師範学校代表で市民集会で行った演説は喝采を浴びたと社会党機関紙に掲載されたという。その政治的早熟さに、現在の日本からは、信じられない。

1901年、18歳で、彼は師範学校を卒業し教員免許をとるが、その過激な政治活動からなかなか赴任先が決まらず、社会党の町長が選出されている田舎町に赴任することになった。「町での教師としての評判は上々で、社会党の集会でも演説役を任された」が、このまま田舎町で過ごす事に嫌気が差してか、翌年、「教師を退職してスイスに移住した」という。彼は、スイスで、レーニンとも知り合い、才能を高く評価されたという。いろいろな思想に通じていたという。

1905年にムッソリーニは兵役に就き、翌年、退役すると また教職に就く。ボローニャ大学で試験を受け、中等教育の教員免許をとり、その翌年には、ジェノヴァ近郊の寄宿学校に務め、フランス語、国語、歴史学、地理学を教えた。その年、農民反乱に参加し、警察に3度つかまっている。その翌年には、イタリア北部のなかにあるオーストリア領トレントに社会党から派遣され、政治活動をしている。

彼が、あまりにも簡単に教職を離れるのを見ていると、政治活動が好きなのだと思う。普通の対人関係ができず、政治集会の演説を通じてしか、人とつながれなかったと思える。

この後、ムッソリーニは社会党内で大物になっていくが、1914年の第1次世界大戦勃発のとき、参戦を主張し、社会党を除名となる。イタリアの社会党は国際主義と反戦主義を主張していたのに、ムッソリーニはイタリアの参戦を唱えたからだ。彼は、戦後のイタリアの混乱を望んでいたのか、それとも、愛国主義であったのかよくわからない。ハプスブルク家のオーストリア帝国が ただただ憎しということ以外に、イタリアがオーストリアと戦う理由が見つからない。参戦する必要がなかった。

じっさい、第1次世界戦後、イタリアが戦勝国であったにもかかわらず、復員兵がそのまま私兵のようになり、暴力と混乱がイタリアで横行する。イタリアのファシズムは、その中で生まれたように私には見える。復員兵がファシストの中核になった。イタリア王国が共和国になるのは、第2次世界大戦が終了した翌年になってである。

日本語版ウィキペディアはムッソリーニに好意的な立場から書かれている。記述はこの後も長々と続き、読み続けるのに とても疲れた。彼が勉強家であり、雄弁であり、闘いが好きで、戦略家であることは わかったが、何がしたかったのかが、読んでも よく わからない。強いイタリアが実現できたとしても、それが、ひとにとって、何の意味があるのだろうか、と思う。読書家にもかかわらず、闘いの虚しさを感じなかったようだ。



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