新型コロナ緊急事態宣言で外出自粛になっている。本をじっくり読む絶好のチャンスだが、図書館は閉じているし、この辺の本屋はショッピングセンターやモールに入っているので閉じられている。こんな時、ネットで本が読めるとありがたい。
USAやドイツなど海外では、著作権のきれた本がネットに上がっていて無料で読める。ドイツ語で良ければ、カントとかニーチェとかエンゲルスとかカウツキーとかが、読める。英語なら、フロムとかラッセルとかアーマンとかが読める。
だが日本語では無料で読める本がネット上では少ない。このなかで、聖書だけは、いろいろなサイトからタダで読める。おすすめは、日本聖書協会の「聖書本文検索」だ。3種類の翻訳、『聖書協会共同訳』『新共同訳』『口語訳』を読み比べることができる。ただし、このサイトでは、語句の説明とか、聖書のなかの参照関係とかが、紙の聖書と異なり、ついていない。
これについては、他のサイトで調べるか、紙の本を買うしかない。
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読み比べてみると、相変わらず、エクレーシア(ἐκκλησία)が 3つの翻訳とも、新約聖書では「教会」と訳されている。訳語「教会」は間違っている、と私は考える。
紙の本の『聖書協会共同訳』の付録の用語解説に「会衆」という項目がある。
〈 ヘブライ語エダー(עדת)の訳語で……成人男子の公的集会をさす。また、……集合した人々を指すカハル(קהל)も、翻訳では「会衆」という訳語があてられている。この両語は聖書でも厳密に区別して使用されているわけではない。なお前者のギリシア語訳には「シナゴゲー(συναγωγή)」、後者に「エクレーシア(ἐκκλησία)」(新約では主に「教会」を指す)という訳語があてられている。〉
ギリシア語「シナゴゲー」も「エクレーシア」も、それぞれ、「集める」という意味の動詞 “συνάγω”、 “ἐκκλησιάζω” の名詞形である。意図をもって集められた、あるいは集まった人々を指す。違いは、新約聖書では、「シナゴゲー」はユダヤ人の「集まり」、「エクレーシア」はイエス・キリストによって招かれた「集まり」を指す。多分、キリスト教徒の集まりは、最初、ユダヤ教徒の分派だったから、「エクレーシア」を使ったのだろう。
[補足]ギリシアでは、「エクレーシア」は都市国家の民会(都市国家の最高意思決定の市民全体集会)のことだった。自分たちの集まりのほうが平等で素晴らしいというキリスト教徒の自負から、「エクレーシア」と呼んだのかもしれない。
ルターは、旧約聖書の「エクレーシア」も「シナゴゲー」もドイツ語で “Gemeinde”と訳した。この語は意図をもって集められた人々を意味し、日本語で「共同体」と訳されることが多い。『新共同訳』では、旧約聖書のエダーを「共同体」と訳し、カハルを「会衆」と訳した。ルター訳を意識してのことだろう。ルターは、新約聖書の「エクレーシア」だけを “Gemeinde”と訳し、「シナゴゲー」をそのまま “Synagoge”とした。
「教会」は英語の“church”の訳である。なぜ、「教会」となったのかは、私は知らない。以前書いたように、ホッブスは“church”の語源を「主の家(οἰκία κυριακή)」だとしている。しかし、「主の家」と「教会」の距離も遠い。もとの「イエスキリストに集められた人々」という意味が消えてしまう。
「エクレーシア」を「教会」と訳す根拠はない。
それでは、初期キリスト教では、「エクレーシア」はどんなものだったのか。パウロは『コリント人への手紙1』 12章28節で次のように書いている。
〈 神はご自身のために、教会の中でいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に癒やしの賜物を持つ者、援助する者、管理する者、種々の異言を語る者などです。〉聖書協会新共同訳
当時の「エクレーシア」にいろいろな人がいたことがわかる。聖霊に導かれて好き勝手に騒ぎ飲み食う場所だったのである。パウロは、この手紙で「エクレーシア」のみんなに節制をもとめ、秩序を求めている。他人にわからない異言を慎むように言っている。パウロはローマ帝国風の社会に染まっており、組織化を目指している。組織化が、キリスト教団を大きくしたが、いっぽうで、信者の間に上下関係と、抑圧の種をまいたことになる。
〈食事のとき、各自が勝手に自分の食事を済ませ、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の「エクレーシア」を軽んじ、食事を持参しない人々を侮辱するのですか。〉
〈異言を語る者がいれば、二人か多くて三人が順番に語り、一人は解き明かしをしなさい。解き明かす者がいなければ、「エクレーシア」では黙っていて、自分と神に対して語りなさい。〉
〈神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、女は、「エクレーシア」では黙っていなさい。女には語ることが許されていません。律法も言っているように、服従しなさい。〉
さて、新約聖書にもどると、『マルコ福音書』、『ルカ福音書』、『ヨハネ福音書』には「エクレーシア」が出てこない。『マタイ福音書』では2カ所だけである。あとは「シナゴゲー」である。福音書は、生きていたイエスの言動を扱うので、まだ、「エクレーシア」は成立していないのだ。イエスは野外や「シナゴゲー」で病人をいやしたり、話しをしたりした。この当時、「シナゴゲー」のための家が村や町にあって、イエスも利用できたのである。
最後に、新約聖書の英訳は現在非常に多数あるが、「エクレーシア」をどう訳しているか、ネットのbiblehub.comで調べてみた。
『マタイ福音書』の18章17節で「エクレーシア」が出てくるが、30種の英訳聖書のうち、“the church”が22の英訳聖書で、“the congregation”が 1つの英訳聖書で、“the assembly”が4つの英訳聖書で、“the community”が1つの英訳聖書である。訳 “the community”はルターの “Gemeinde”と同じ解釈である。
このサイトbiblehub.comは、ギリシア語テキスト、ヘブライ語テキストの文法解析もあるので、便利であり、私は使用している。
[補足]
ルター訳にしたがうドイツ語聖書は下記で読むことができる。
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