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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

リベラルとは何か、ハト派なのか

2021-10-07 22:27:01 | 民主主義、共産主義、社会主義

岸田文雄は「リベラル」という言葉を使わないが、宏池会系であることで、「リベラル」と見なされることがある。日本の古い世代には、リベラルとハト派と似たひびきがあるようだ。しかし、岸田自身は外交においては安倍路線を引き継ぐようだ。

リベラルとは何であるか、私にはよくわからない。その語を使う人によって意味が変わるからだ。

11年前、マイケル・サンデルの『ハーバード白熱強熱』がNHKで放映されたとき、リベラルとリバタリアンと違いが分かったような気がした。他人のことも思う自由主義がリベラルで、自分のことをしか思わないのがリバタリアンという説明だったようである。しかし、これがみんなに共有されているわけでもなく、また歴史的な定義でもない。

宇野重規の書評を見て、田中拓道の『リベラルとは何か 17世紀の自由主義から現代日本まで』(中公新書)を読んだが、ますます、わからなくなった。宇野重規自身は田中のこの本を褒めて、「リベラルを切り捨てる前に、ぜひこの本を読んで欲しい」と言っていた。

田中が彼の本で明らかにしていたのは、リベラルがとる政策は、時代と国によって大きく変わるということである。

そこから、私が読み取ったのは、一貫したものとして、リベラルは「共産主義」に反対する立場であることだ。リベラルは私有財産を肯定するのである。リベラルの創始者と言える、ジョン・ロックは、彼の「統治論」で、王や大衆から私有財産を守るために、政府や法が、あるのだと主張している。

ロックをはじめとするリベラルの考え方は、バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』にコンパクトにまとめられている。リベラルの考えは、三権分立のように、現在の代議制民主政の基礎となる概念を生んだ。しかし、リベラルは、あくまで、上からみた「気前の良い」福祉国家であり、「反共」や「中間層を増やす」など、私が納得できないものを多く含んでいる。

中間層を増やすのではなく、貧困層を減らすか、富裕層を撲滅するのが筋ではないか。

細かく見ると、ロックは、『統治論』で、「共有」が基本で、「私有財産」を個人の労働の成果として控え目な形で主張している。人間が本当に自分だけの労働の成果と主張できるものが、どれだけ明確にあるか、という問題を念頭において、ロックは書いている。自分だけの成果でなければ、格差が大きいことは、搾取である。人の労働の成果を盗んでいるのである。

岸田の「新しい資本主義」は、「資本主義」というものはどう定義しているのだろうか。なぜ資本主義にこだわるのだろうか。共産主義が、個人のささやかな貯蓄や持ち物を奪い取ると、怯えているのだろうか。「資本」というものが、自由な企業(ビジネスの立ち上げ)の障害になっているではないか。


アメリカは民主主義の国か、宇野重規が投げかけた問い

2021-08-10 23:21:05 | 民主主義、共産主義、社会主義

宇野重規の『民主主義とは何か』(講談社現代新書)のなかに、「アメリカは民主主義の国か」という言葉がでてくる。

日本ではバラック・オバマ元大統領が演説の名手と言われている。しかし、彼が日本に来て演説したのを一度テレビでライブで聞いたことがあるが、中身がなく、単にアメリカの「建国の父」の精神をほめているだけである。すなわち、アメリカ人が子どものときに聞かされた逸話を繰り返し、従順な子ども時代の道徳心を刺激して、聴衆を喜ばしているだけである。

宇野は、建国の父たちは特権階級で、民衆が政治に関与することを恐れた、と言う。

《「建国の父」たちは大地主や、弁護士といった知的職業に就く人々がほとんどでした。彼らは、植民地の上層に位置する人々であり、シェイズの反乱のような動きに対してはきわめて警戒的でした。この反乱は貧しい農民中心の反乱で、独立戦争の退役軍人ダニエル・シェイズを指導者とするものです。》

宇野は、アメリカの連邦制は、この貧しい人々が巨大な力をもつことを「建国の父」たちが恐れたゆえに、作られた制度であると言う。「建国の父」たちが、純粋な民主政(pure democracy)と共和政(republic)と対比し、共和政を実現しようとした。純粋な民主政では、多数派(貧乏人)が少数派(自分たち金持ち)の利益を犠牲にすることを恐れたから、と言う。

私は、「共和政」というと、血縁による支配、王制の否定と漠然と思っていたが、共和政(republic)の語源はラテン語の res publicaで「公共の事柄」、すなわち「公共の利益」を考えた政治をすることである、と宇野は言う。すなわち、「公共の利益」を考えることができる名士の集まりが国を統治することである。

「公共の利益」とは何であるか、曖昧であるから、少数派に統治の権力を与えることに、何らの正当性があるわけではない。「国益」を口にする者は一般にウソつきである。「国益」というものが虚構であるからだ。

とにかく、「建国の父」たちは民主主義の国を作ろうと思っていなかったのである。

それから、約80年後、「共和党」出の大統領エイブラハム・リンカーンは「人民の人民のための人民による政治(government of the people, by the people, for the people)」と演説した。この「政治」は「統治」のことである。「人民の政治」とは統治に人民が参加することである。田舎出のリンカーンは、直接民主主義を理想としていたと思われるが、暗殺されておしまいになる。リンカーンが生きていても「人民の人民のための人民による政治」を実現できたか わからない。

これに関係して面白い映画がある。映画『ギャング・オブ・ニューヨーク(Gangs of New York)』である。アイルランド系移民と星条旗に忠誠を誓う貧民たちの抗争である。映画では金持ちが つどう酒場で リンカーンをあざ笑う人形劇がおこなわれている。南北戦争(Civil War)が始まると、志願兵募集に反対するスラム街の暴動に、金持ちの命令で一斉艦砲射撃が行われ、争うアイルランド系移民とアメリカ化した貧民がいっしょに殺されるという物語である。

この映画の脚本家はアメリカに民主主義はないと考えていると思う。

宇野はアレクシ・ド・トクヴィルの見解を紹介している。リンカーンと同時代のアメリカに訪れ、その後『アメリカの民主主義』を出版し、アメリカの人びとの「平等」の精神に、民主主義の未来を見ている。

宇野は現状のアメリカは「民主主義の国」として問題を抱えているが、「平等」の精神にデモクラシーの未来を信じているのである。

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デモクラシーの問題、「平等」と「自由」と「同質化」

2021-08-08 23:07:27 | 民主主義、共産主義、社会主義

今年、NPOで20歳過ぎの若者に中学校の公民の教科書の一節を読んでもらい、「自由とは何か」を問うた。彼は「自由気ままのことだ」と答えた。そして、「公民の教科書はもう読みたくない」と言った。

その答えにとまどったが、確かにそうだ。「自由」とは難しいことではない。気ままに、好き勝手に、ふるまうことだ。支配者には「自由」がある。被支配者には「自由」がない。支配者だけが「自由」を独占している。我々にも「自由」をよこせ。「自由平等」というではないか。「平等」がデモクラシーの第1原則なのだ。

宇野重規は平等をデモクラシーの根本に置き、自由とデモクラシーが対立することがあるという。「自由民主主義」というのは本当は安易なネーミングだという。

歴史的には、多数派が個人の自由を奪う危惧がデモクラシーにつきまとった、と宇野は言う。すなわち、近代のいう「自由」とは、あくまで「個人の自由」のことである。デモクラシーを多数決の制度とすると、この危惧があたる。しかし、現代において、大勢の意見が一致することが本当にあるだろうか。個人が確立している限り、私はないと思う。ただ、現代の民主政は代議制にもとづいているので、個人の自由が押しつぶされる可能性がある。選挙で選ばれた議員がいくらでも暴走する可能性があり、それを止める制度がない。党派が議員個人の投票行動を規制してはいけない。

デモクラシーのもつ「平等」が問題というより、現在の代議制の抱える問題と私は思う。

もうひとつの問題は、「平等」が「同質性」と誤解されることにある。「同質性」とは、同じものを食べ、同じ服を着て、同じように感じることを言う。個人の否定である。「平等」は、あれを食べたいという人も、これを食べたいという人も、対等の権利があるということである。すなわち、個人の思いが異なっていても、それでよく、「同質」にする必要がないのである。

学校においても、校則が服装や身なりに「同質性」を求めるのは、管理のしやすさからであって、「平等」の原則とは無縁である。平等の立場からすると、管理するものと管理されるものがいる学校のあり方自体がおかしい。

近代の共同体運動には、ナチスのように、「同質」にしないと共同体が成立しないという思い込みがある。もちろん、「同質」の人びとが集まってもかまわない。しかし、「同質性」を集団の外の個人に強制することには、私は反対する。また、共同体が互いに助け合う集団のことなら、そもそも同質性はその目的に不要な要件である。

[注」ナチス(国民社会主義労働者党)は、権力の把握後、Gleichschaltung ( 同質化)政策を行った。州自治をなくし、政党・労働組合を解体し、社会全体を均質化しようとした。

まとめると、デモクラシーは、人間社会の上下関係、命令する人と命令される人があることの否定である。アナキーなのである。「同質性」を要求することではない。

古代ギリシアでデモクラシーが実現されていたというが、民会に集まっていたのは、農民であり、靴職人であり、大工であり、商人であったのである。多様な職業につく平民であったのだ。

デモクラシーとなると暗愚な大衆が個人の自由を奪う、というのは、妄想であると思う。もし、あなたがその不安が抑えきれないなら、暗愚な大衆を啓蒙すれば良いことであり、デモクラシーを否定する必要はないはずである。

[蛇足]ところで、安倍晋三、菅義偉が国民より教養があるとは思えない。


民主主義とは何か、代議制ではない、自己統治の理念だ

2021-07-22 23:59:48 | 民主主義、共産主義、社会主義

デモクラシー(民主主義)を支持する、反対するといっても、それがなんであるかは、人によって異なる。その意味で、宇野重規の『民主主義は何か』(講談社現代新書)は、民主主義の1つの定義の試みであり、貴重なものである。

私が民主主義を支持をするのは、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』のつぎの一節による。

《「民主政」(デモクラシー)のもとで苦しんでいる人々は、これを「無政府」(アナキィ)〔統治の欠如の意〕と呼ぶ。》

私は人から理由もなく命令されることは いやである。あれを食べろ これを食べろと言われたくない。だから、統治者がいない、自分自身で自分を支配する「アナキィ」のを良しとする。

宇野が古代ギリシアのアテナイでの民主政から論じたのは、現代の代議制民主政を相対化するのに必要だったから、と思う。

よく、西洋は古代ギリシアの文化と連続のように言うが、そうではなく、古代ギリシアの文化はイスラム国家がひきついだのであって、西洋社会はゲルマン文化の申し子で、そこにキリスト教がいびつな形(西ローマ帝国のなれのはて)で入り込んだものである。

古代ギリシアのアテナイでは、国会にあたるのは民会(エクレーシア)で、政府にあたるのは評議会である。民会は、市民の誰もが参加でき、発言でき、その評決が、ポリスの最高意思決定になる。評議会のメンバーは市民の間から、くじで選ばれ、民会への提案をつくり、可決された提案の実施を担当し、任期が終了すると、公正な行動をしたかの審査があったという。

どこで読んだか いま思い出せないが、ゲルマン社会はもともと貴族政で、王は貴族の間の選挙で選ばれたという。それが破られたのが、西暦800年のカール大帝の戴冠である。それまで、選挙が王であることに権威をあたえたのだが、これ以降は、ローマの教皇の支持を権威として、世襲制になった。

現在の代議制民主政は、ゲルマン文化に由来するもの、と私は思っている。代議制民主政は、世襲制に対する反対するという程度の正当性にすぎない。代議制だから民主主義的だ、とは言えない。

宇野は、デモクラシーの語源が、紀元前508年のクレイステネスの改革で、旧来の4部族制から10部族制に移行したときの、行政単位、デーモスだと言う。4部族制が血縁にもとづいていたのに対し、10部族制は、市民がどこに住んでいるか、にもとづいて行政をおこなったという。だから、本当は10「部族」という言葉はオカシイ。とにかく、血縁から地縁に統治を移行することで、貴族の政治的基盤を弱めようとしたのである。

その後、デーモスは、行政単位から、血縁によらない人びとの集まりを意味する言葉になり、大衆とか、群衆とかを意味するようになった。

したがって、デモクラシーは、選挙か直接かを問わず、みんなが公共の事柄に関与でき、だれか一部の人びとによって、みんなが統治されることがない ことだという。

デモクラシーを非難してきたのは、文字を読み書きできる人たち(知識人)だった、と宇野は言う。

ギリシア語聖書(新約聖書)によれば、初期キリスト教徒は、自分たちの集会をエクレーシアと呼び、グラマティウス(読み書きできる人)を敵視していた。初期のキリスト教にはギリシアの民主主義の香りが残っていたように思える。エクレーシアを「教会」、グラマティウスを「律法学者」と訳すのは間違いである。

デモクラシーに対抗する思想が古代ローマの共和政(res publica リパブリカ)であると、宇野は言う。このリパブリカは「公共の事柄」と意味する。共和政派からすると、デモクラシーが多数派による衆愚政治で、共和政は賢いものが社会を統治することである。この共和政の罠は、社会にとって何が正しいか、ということが、自明でないことだ。そして、一部の人間たちが多数の人々を「愚か者」呼ばわりし、エリートがデーモスを支配することが起きる。

現在でも、政治家がかってに「国益」という言葉を使う。それは、あなたが決めることではないでしょう、と言いたくなる。「国益」を言う政治家はデモクラシーを否定している。自分だけが偉いんだと思っている。

私にとって不思議なのは、ドイツで、ローマ教皇によるゲルマン社会の政治への関与に反対するのに、デモクラシーではなく、リパブリカが持ち出されたことである。ゲルマン社会にデモクラシーが登場するのに19世紀まで待たなければならなかったのである。


宇野重規の『民主主義とは何か』はとても面白い、読むに値する

2021-07-13 22:03:54 | 民主主義、共産主義、社会主義

期待通り、宇野重規の『民主主義とは何か』(講談社現代新書)は面白い。コンパクトに論点がよくまとまっている。

「はじめに」から、彼は通念に直球勝負をしている。

A1 「民主主義とは多数決だ。より多くのひとびとが賛成したのだから、反対した人も従ってもらう必要がある」
A2 「民主主義の下、すべての平等だ。多数派によって抑圧されないように、少数派の意見を尊重しなければならない」

B1 「選挙を通じて国民の代表を選ぶのが民主主義だ」
B2 「選挙だけが民主主義である」

C1 「民主主義とは国の制度のことだ」
C2 「民主主義とは理念だ」

お気づきのように、1が「通念」で、2が宇野の「信念」である。私も2の意見である。本書は、彼がなぜ 2の立場をとるのかを説明する。

   ☆   ☆   ☆

「序 民主主義の危機」も論点がしぼられている。目前の民主主義の危機とはつぎである。

  • ポピュリズムの台頭
  • 独裁的指導者の増加
  • 第4次産業革命の影響
  • コロナ危機と民主主義

彼は現在の4つの危機を民主主義の乗り越えるべき試練ととらえ、それを乗り越えることで、民主主義がより素晴らしいものになると考えている。それは民主主義が「理念」だからである。

宇野は「ポピュリズムには既成政治や既成エリートに対する大衆の意義申し立ての側面」「ポピュリズムが提起した問題に対して、民主主義も正面から取り組む必要」と述べている。アメリカ政治学の中山俊宏もトランプ元大統領の評について同じ立場を述べている。

第4次産業革命とはIT技術の勃興ということだが、宇野はAI技術を過大評価していると思う。IT技術が事務職の地位を引き下げたことは評価すべきであると思う。私は中間層は要らないと思う。中間層は民主主義を安定化させると考える人もいるが、現実の中間層は特権階級を守る防波堤として機能しており、民主主義の担い手ではない。中間層が没落することは、特権階級を追放するために、必要な道標である。

また、人が自分に都合の良い情報だけのなかに埋没しようとするのは昔からのことであり、IT技術やAI技術のせいではない。マイクロソフトやグーグルがいつもステレオタイプ的な情報の押し売りをするのに私はうんざりしている。ツイッターやフェースブックやラインは絶対に使わないことにしている。

AI技術が行政に使われたときの危険は、学習という統計的手法のため、個々人のユニークネスが無視され、個別性を無視した一律的な対応がされること、すなわち、人間であることが否定されることである。AIは個人を尊重しない保守政治家、官僚のように機能する。

   ☆   ☆   ☆

「第1章 民主主義の「誕生」」は、古代ギリシアの民主主義を扱っている。現在の民主主義を相対化するために、重要な章である。M.I.フィンリーの『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)より単刀直入で詳細である。

《最盛期のアテナイの民主主義においては、一部の例外を除き、すべての公職が抽選で選ばれました。》

これはよく知られているが、宇野はつぎの言葉を添えている。

《これに対し、選挙はむしろ「より優れた人々」を選ぶ仕組みとして理解され、その意味で貴族的であるとされました。》

また、彼はつぎの指摘をしている。

《古代ギリシアの人々は、民主主義の制度と実践について、きわめて自覚的でした。彼らは自分たちが採用している仕組みについて誇りをもち、これをみずからのアイデンティティとしました。》

バートランド・ラッセルは、『西洋哲学史』(みすず書房)で、ギリシアの古代民主主義は王侯貴族と血塗られた抗争の結果、勝ち取られたものであると書いている。宇野もこの事実を指摘しながら、もっと広い世界史的視点から、メソポタミアの強国の周辺国だったことが、古代民主主義に幸いしたという視点を付け加えている。

また、奴隷と市民との関係についても、ギリシアとローマとの違いに言及している。ギリシアの市民が自分自身の手でものを生産する労働者(worker)であったことが、民主主義を存続させたと指摘している。

プラトンをはじめとする古代民主主義の敵対者も取り上げている。

民主主義とは何かを考えるうえで本書は貴重な論点を与えてくれる。