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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

進歩なんてない、あるのは多様化である、マックス・ヴェーバーの誤り

2020-09-02 22:27:56 | 歴史を考える


Max Weberは知の巨人ではない。クソである。単なる権威主義者であり、差別主義者であり、闘争的な保守言論人である。彼をヨイショする人がいるとは、社会学のいかがわしさを裏づける。

Weberが信じる「進歩」に誤りがある。「進歩」という幻想は、弱者が「明日はよくなる」という希望をもち、現在の苦痛に耐えつづけるために、多少は役立つかもしれない。しかし、Weberは「進歩」を「強者の台頭と弱者の退出による社会進化」ととらえる。そうすると、現在の体制を支持する言論人はつねに「進歩」的知識人となる。

時間とともに起きていることは、「進歩」ではなく、「多様化」である。言語というものを通して、過去の人の体験や思いを、人は追体験できる。したがって、人は、この多様な思想のなかから、1つ選択し、あるいは、切り貼りして自分の思想を形づくることができる。しかし、嗅覚がすぐれていなければ、多様性のなかに埋没し、自分を見失う。

Weberは「求道者」ではない。彼のいうキリスト教は捏造である。彼はカトリックやプロテスタントを貶めるために悪口を言っているだけである。彼は、母ヘレーネのように弱者に心を寄せていない。資本主義を持ち上げするために、自分のブルジョア性を無罪放免するために、厳格なカルヴァニズムのAskeseを資本主義の精神とみなしているだけである。

大塚が “Askese”を禁欲と訳したが、日本語の「禁欲」に対応するドイツ語は “Abstinenz”である。Weberは“Askese”を「自己鍛錬」という意味でもちいている。

金儲けに一心不乱になることを“Askese”と解釈するのは、Weberが「進歩」を社会的淘汰と考えるからである。これを正当化するために、“Beruf”に「職業」という意味とともに「召命」という意味があるなどと、クソみたいことを言っている。これを真に受ける大塚の信仰はなんなのか。

上級市民は資本家として一心不乱に金儲けに専念し、優秀な労働者は雇われて工場の幹部として一心不乱に働き、ベルトコンベアーについていけない劣等者は通りに捨てろ、というWeberの理想とする資本主義社会は、キリスト教徒にとって受け入れられるものではない。

キリスト教は、人々を救うことを目指していたはずである。生まれる前に救われる人と救われない人が神によって定まっている(予定説)なら、救済宗教ではないではないか。救いを求めて、キリスト教の扉をたたくことが意味なくなるのではないか。この予定説で満足するのは、ブルジョアに生まれたことを正当化できる上級市民だけでないか。

Weberは救いを求めてキリスト教の扉をたたいていない。Weberは各教派を比較して悪口を言っているだけである。

キリスト教をドグマや神学で理解することがそもそも間違っている。ドグマや神学は、ちょっと頭のまわる悪人が自己正当化のためにでっちあげたもので、多数のキリスト教徒はそれと無縁に暮らしてきた。カルヴァンもルターも極悪人である。

厳格なカルヴァン派は他の教派よりサクラメント(儀礼)を排除する、すなわち、脱呪術(Entzauberung)だから、近代的であるとWeberは言う。じつは、サクラメントをカルヴァン派より拒否する教派もあるが、Weberは熱狂的だからなどといって、劣るという。おかしくないか。

だいたい、三位一体を信じるのはまだ魔法にかかっているのではないか、神を信じるのは魔法にかかっているのではないか。Weberの母ヘレーネがチャニングの書読んでいたが、チャニングはユニテリアンである。イエス・キリストを人とするユニテリアンの方が魔法が解けているのではないか。イエスを人とし、神を否定する聖書研究者の田川建三のほうがもっと魔法が解けているのではないか。

Weberを「求道者」という大塚久雄に遠慮しすぎである。Weberは単なる権威主義者であり、差別主義者であり、闘争的な保守言論人である。

中世の寺社勢力は「アジール」なのか、古代国家の崩壊の申し子なのか

2020-06-01 23:02:29 | 歴史を考える

伊藤正敏の『アジールと国家─中世日本の政治と宗教』(筑摩選書)は、中世の「寺社勢力」の理解の修正を求める好書である。

彼は、自らを、黒田俊雄・網野善彦の説を引き継ぐものと位置付ける。黒田は、中世を、公家支配から武家支配に代わったのではなく、公家、武家、寺社の三者が対立・補完しながら、民衆を統治した時代とする「権門体制論」を提起した。

伊藤が求める「権門体制論」の修正とは、中世の「寺社勢力」を、公家や武家のような民衆を統治する勢力と単純に捉えるより、公家や武家の枠からはみ出した空間で、民衆の声を代弁したり、公家や武家の社会からの避難者を受け入れたりする空間であった、とすることである。この意味で、網野の説を引き継ぐとする。

「寺社勢力」がこのような空間を提供できたのは、「中世は不安の時代であり、神霊的な存在が大きく人々の精神や行動に影響を与えていた」からだと、伊藤は考える。これが、中世の「寺社」を「アジール」という言葉で伊藤が括る理由である。

「アジール」は、ギリシア語 “ἄσυλος”からきている。じつは、ドイツ語では「アジール(Asyl)」となり、英語では「アサイラム(asylum)」で、語源が同じ、意味も同じである。ところが、日本語では、「アジール」が「避難所」を意味し、「アサイラム」が「収容所」や「閉鎖病棟」を意味する。“ἄσυλος”は庇護されるとも解せるし、閉じ込められるとも解せる語である。

このように、「アジール」は問題を含む概念である。伊藤は、オルトヴィン・ヘンスラーの『アジール―その歴史と諸形態』に強く影響されて、『アジールと国家』を書いたのである。

伊藤は、綿密に中世の文字資料に追い、「寺社勢力」を分析しており、本書の重要性は明らかだが、「アジール」と別の視点からも、これを解釈できるのではないかと思う。すなわち、「権門体制」を「古代国家体制の崩壊」とし、中世の「寺社勢力」を民衆の台頭の反映とみることができるのではないか、と思う。

ここで、伊藤がとりあげたエピソード「一味同心」について、考察してみたい。

西暦1198年に興福寺は、和泉国の寺領に対する国司の暴政を指弾し、その流罪を要求して朝廷に強訴した。「寺には多くの僧がいて、みな顔かたちが違うように立場も考え方も別なのだ。にもかかわらず、三千の寺僧がこれだけ人々の心が全く一致するということは、春日の神の御心がわれわれみんなの心に反射している証拠なのだ。「一味同心」の奇跡は神慮の現われだ。だから訴えは無条件で主張どおり裁許されるべきだ。国法に反していようがいまいが関係ない」と主張した。

伊藤は、ここで、「一味同心」が「神慮」であるという興福寺の主張を言葉どおりに受け取っているが、寺の集会(しゅうえ)で強訴を全員一致で決めるということに、民主政の萌芽をみてとれるのではないか。全員一致が国法を超えるという考えは、民主政の要求ではないか。

鉄砲という武器が海外から輸入され、天下が武力統一され、日本の中世が終わることで、古代国家の崩壊が、民主政を生まずに死産に終わったことを、私は残念に思う。

ヘンスラーの「アジール」の誤りは、中世ドイツを古代ギリシア、古代ローマを引き継いだものと考えるからだと思う。ドイツとギリシア・ローマとは異なる文化圏と考えるべきだと思う。ドイツが、ローマのキリスト教文化に汚染される前に、素朴な共同体文化があったと考えるべきで、「アジール」をそのなごりと考える方が自然に思う。

それに対し、中世の前に、日本には武力で統一した「古代国家」が出来上がっていて、その支配体制が崩壊することで、古代国家の文官が公家にかわり、武官が武家にかわり、国家の鎮護を呪術する寺社集団が国家の枠からはみ出し、大衆に近づいたとも考えられる。

もう少し、網野の歴史観に戻ってもよいのではと思う。

池内紀は『ヒトラーの時代』で何を語ったか

2019-12-15 14:46:32 | 歴史を考える

池内紀の『ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』(中公新書)はユニークである。いままでのヒトラーについての本と異なり、彼の心理分析や、彼を取り巻く政治状況の話はほとんどない。

著者は、ヒトラーが ただの議論好きの どこにでもいる つまらない男だと語る。それよりも、彼と同時代の町の人びとを追うのである。

彼の視点からは、ワイマール共和国時代からドイツは問題含みであった。各政党は、暴力集団である私兵を抱え込んでいた。街頭にはデモがあふれていた。超インフレが抑えられたかと思うと世界経済恐慌。政党間の争いで国の政治は何も決めることができなかった。なるべくして、ヒトラーの時代がきた、とも本書は読める。

1930年のトーマス・マンの講演から伺えるドイツ市民社会の危機と大きく異なるものである。作家トーマス・マンは、市民社会の理念を壊すものとして、ヒトラーを非難していた。

池内は丹念に下調べをして本書を書いているはずであり、池内の描く世界も 1つの事実なのであろう。

池内は私の7歳上であり、日本の敗戦後の混乱を直接目撃している。その彼からみれば、ワイマール共和国は混乱した社会であり、ヒトラーはそれに独裁という秩序をもたらしただけなのであろう。

私の世代は、混乱が収まった日本の目撃者であり、貧困がまだ日本をおおっていたが希望があふれていた。飢えがまだ日常化しており、道路は舗装されていず、洗濯機も電気釜も冷蔵庫もなかった。が、なによりも、強調したいのは、日教組が健在であり、炭鉱労働者組合も強かった。私は民主主義や自由や平等の価値を信じた。

だから、おなじものを池内と私が目撃しても、異なるものを見て取ったのであろう。

池内のゲシュタポの拷問の描写は生々しい。多分、子どものとき、特高の拷問の話を周りから聞いて育ったからだろう。子ども時代の私にも、権力に逆らえば、拷問が待ち受けている、恐怖が頭の片隅にあった。

いまは、直接的な拷問の話は聞かないが、権力による暴力は整然と行われている。リクルートの江副浩正もライブドアの堀江貴文も、贈賄事件や証券取引法違反で、警察に拘留されたとき、裸にされ、尻の穴まで調べられた。そして、ときの権力に逆らえば、理由もなく、長期拘留になり、裁判がなかなかはじまらない。本来は、裁判所が拘留を認めなければ良いのだが、日本の司法は検察や警察とグルになっている。

池内は、本書の結びに、ウィーンの地下劇場の、『カール氏』という、ほとんど一人芝居を紹介している。

「小市民カール氏は終始多数派の一人だった。オーストリア社会党がのびたとき、彼はいそいそと労働者のデモに加わった。ナチスが強くなると、さっそくそちらに くらがえした。通りの群衆にまじり、連行されるユダヤ人を見物していた。オープンカーでヒトラーがやってきたとき、鍵十字の小旗を打ち振りながら歓呼の声をあげた。」

現在の日本は、人権について非常に鈍感になっている。集団行動がとれない子どもたちは発達障害と呼ばれ、社会から隔離される。隔離されなくても、無意味な競争に疲れたものは、うつや統合失調症になる。

ヒトラーの時代と異なったやり方だが、人間の個人的権利、平等、表現の自由、団結の自由などが否定される方向に日本社会は流れ込んでいる。逆らうべし、逆らうべし。

プロレタリアートとブルジョアジー

2019-11-11 22:49:35 | 歴史を考える

エンゲルスの『空想から科学へ(Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft)』には、「プロレタリアート(Proletariat)」という単語がやたらと出てくる。

いっぽう、フロムの『自由からの逃走(Escape from Freedom)』には、でてこない。出てくるのは、「労働者階級(working class)」である。

「プロレタリアート」の語源がローマ帝国の最下層の市民ことだと知ると、エンゲルスはなぜ「プロレタリアート」を使ったのか、不思議な気がする。

ローマ帝国では奴隷が働いていたのだから、「プロレタリアート」の選択はあまり適切とは思えない。ただし、聖書を読むと、ローマの帝国の属国では、奴隷も下僕も差異がはっきりしない。ローマ市民以外は、奴隷でなくても、働いていたのである。

いっぽう、「ブルジョアジー」の語源は、フロムの『自由からの逃走』にあるように、城壁のなかに貴族と共に住む都市の住人である。ローマやパリを訪れると、城壁が残っており、城壁の中が旧市街で、城壁の外が新市街である。現在、観光に訪れるのが旧市街で、仕事に訪れるのが新市街である。

フロムは中産階級が嫌いなようで、ナチスをささえたのが中産階級だと思い込んでいるようである。日高六郎訳では「都市の中産階級」という言葉がでてくるが、これは“the urban middle class”の訳である。私は、「新市街」のというニュアンスでフロムが使っているのではと思う。私がヨーロッパに行った記憶では、新市街に近代的なビルが立ち並び、ビジネスの中心になっている。

フロムは、小さな商店主、職人、ホワイト・カラー労働者などの下層中産階級が、自由というモノに耐え切れず、熱狂的にナチスに走ったと言うが、私は、大した根拠もなく、それを疑っている。下層中産階級は、ブルジョアジーや上層中産階級より、圧倒的に数が多い。だから、たまたま、ナチスの支持者のなかで目立っただけではないか、という気がするからだ。

いっぽう、労働者階級に熱烈なナチス支持者がいなかったのなら、フロムのいうことは正しいとも言える。

しかし、階級で人間の内面が規定されるというのも寂しい話である。

武士の出現は 国家の否定、天下統一は 自由の否定

2019-09-12 21:43:27 | 歴史を考える

昨日のNHK歴史ヒストリア『ここがスゴイ!承久の乱』で、武士にとって恩賞こそ闘う動機で、そのためには、勝ち馬に乗ることこそが、だいじであった、と言っていた。鎌倉幕府につくか、京の朝廷につくか、という問題にたいしてである。

すごく、さもしい話のようであるが、しかし、「国家のために死ぬ」「大義に殉ずる」よりずっと理性的である。「国家」とは何か、「大義」とは何か、考えずに、日中戦争や太平洋戦争に死んでいった人々はバカとしかいいようがない。本当にバカである。殺すべきは天皇ではないか、岸信介でないか、東条英樹ではないか。

ところが、NHK歴史ヒストリア『ここがスゴイ!承久の乱』の終わりには、勝海舟の次の言葉が出てくる。
「(北条義時は)自分の身を犠牲にして国家に尽くしたのだ。おれも幕府瓦解の時には、せめて義時に笑われないようにと幾度も心を引き締めたことがあったっけ。」

ここで意味不明の「国家」という言葉が出てくる。国家=秩序=権力の考え方で、どんな国家であっても良いことになる。これでは、日本の歴史は、乱暴者の争い「国盗り合戦」のように思えてきてしまう。

武士の出現は「国家の否定」、武士は自分の利益のために初めて戦った底辺の人々と考えたい。本郷和人によれば、鎌倉時代、室町時代の日本は二重政権国だったという。村も出現し、農村の自治が出現した。村人もどちらの側につけば、得をするか考えたという。権威に逆らった鎌倉仏教が広がったのは、この時代である。私自身は、私の出身地の北陸に、完全な農村自治があった、と思っている。

武士がつくった日本の二重政権体制が、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など武士自身の手によって終えられ、安定した単一政権体制にはいり、そのため、儒学が日本にはびこった。せっかく、日本に芽生えた自由、個人、反乱という思想が潰された。

明治維新は「国家の否定」「個人の自由」という肝心の思想を欠き、「尊王攘夷」の思想の下に「富国強兵」という「軍国主義」に突き進んだ。いまの安倍政権は、この「富国強兵」思想を引き継ぎ、憲法改正を唱え、トランプにヘコヘコし、韓国をいじめている。
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どうすれば自分の利益を守れるか、増せるかは、個人を意識するための一歩である。しかし、個人の利益は、互いに相反するかもしれない。

弱い者には、ホッブズの言うように、「《自然》は人間を身心の諸能力において平等につくった。…。たとえば肉体的な強さについていえば、もっとも弱い者でもひそかに陰謀をたくらんだり、自分と同様の危険にさらされている者と共謀することによって、もっとも強いものをも倒すだけの強さを持っている」が大切である。

弱い者は、個人の利益を守るためには、他人とつながること(団結という)を学ばないといけない。

ブレイディみかこが本で紹介した「ライフスキル教育」は、弱い者が「共謀」するための技術を学ぶために、日本でも必要だと思う。道徳教育は、強い者がますます強くなるための思想教育、独裁者に従順な大衆をつくるための洗脳である。

「ライフスキル教育」は、道徳教育との違って、まず、個人の権利を教え、ついで、相手の立場を理解し、着地点をみつけ、交渉することを教える。権力者に都合の良い価値観を教える道徳教育とは全く違う。