猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「自由」と「平等」との共存を支えるもの

2021-01-24 22:53:44 | 自由を考える
 
加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)を読むと、戦前の日本人にファシズムやスターリニズムへの憧れがみられる。当時のドイツ、ソ連で自由が抑え込まれているということは問題とされず、貧困から解放してくれる、学歴によらない平等な社会を実現してくれる、という期待を当時の日本人が少なからず抱いている。
 
このことを考えるとき、アドルフ・ヒトラー個人の頭がおかしいとすますだけではいかない。
 
エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』(東京創元社)は、集団として見ると、人間は「自由」の重荷にたえられず、それから逃げようとする傾向があるいう。この見方には、独裁者個人だけに問題があるというより、その独裁者を受け入れる国民にも責任があるという考えが潜んでいるといっている。特定の個人だけでなく人間全体の頭がおかしいというのは、それなりにあたっているが、そういってしまうと、救いがない。
 
とにもかくにも、集団による「自由の抑圧」に反撃をしなければならない。そのためには、自由と平等は同じ源から生まれており、相反しないのだという認識がまずいる。
 
当時のドイツとソ連とを和解させることができるとした戦前の陸軍の理由を、加藤陽子はつぎのようにまとめている。
 
〈ソ連は社会主義国であって資本主義国とは違う、とくに経済政策の点では国家による計画経済体制をとっているのだから、反自由主義、反資本主義ということで、日本やドイツと一致点があるのだ〉403頁
 
戦前の日本人のほうが、「反資本主義」という言葉を平気でいう。それに対し、今は、誰かと議論すると、「資本主義社会だから自分の利益を優先せざるをえない」という言い訳を私はよく聞く。この場合、否定的な形だが、戦前の陸軍の「資本主義」「自由主義」の理解が、自由主義=利己主義として、日本人のなかで残っている。
 
「自由」も「平等」も、誰かが誰かを支配することの否定からくる。ただ、「自由」と「平等」を共存させるためには、人が他の人と共感する能力を高めないといけない。この共感する心は、何かの運動に熱狂する心ではない。また、他人に共感する心は、決して生まれながらあるのではない。
 
古代ヘブライ語に「友」にぴったりくる言葉はない。「友」に一番近いのは “רע”(レア)で、聖書『レビ記』19章に出てくる“רע”を、日本語聖書では「隣人」と訳している。あの有名な「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉のなかである。
 
昔のひとびとには「友」という対等の人間関係はなかったのだ。
 
人が他の人に共感できるのは学習によるものだと思う。「発達障害児」の育てることで一番だいじなのは「他人を信頼する心を育てる」ことだと言われている。小さいときからのほうが効果があるといわれる。私の経験からもそう思う。
 
「共感する心」も育てる必要がある。
 
「自由」と「平等」とが共存できなくなるのは、人が小さいときから「競争」のなかに叩き込まれるからだと思う。
 
20世紀前後に活動した共産主義者カール・カウツキーは『中世の共産主義』(叢書・ウニベルシタス)のなかで、つぎのように当時のドイツ社会を嘆いている。
 
〈現代の生産様式は自然科学と機械工学との応用を基盤としているが、この生産様式と現代社会のひときわ目につく特徴の1つは、休みなく新発明と新発見にむけて急ぐことである。〉
 
すなわち、資本主義社会では、ひとびとは、資本家も労働者も、たえず競争させられるとカウツキーは言っているのだ。
 
「競争」が資本主義固有のものとは思わないが、「共感する心」を奪っていると思う。だから、「叩き上げ」を自称する人間を私は信用できない。「競争」に勝ち残ってきたと自慢しているにすぎない。
 
「共感する心」を持っていれば、熱狂におちいらず、「連帯」あるいは「団結」することができると思う。

聖書から、自由人、自助、叩き上げについての戯言

2020-10-25 21:53:59 | 自由を考える


古代において、王の支配が強くなると、その支配を逃れるのはむずかしい。主なる職業が農夫であるからだ。王に土地を抑えられているから、王に従うことを拒否すれば、居るところがなくなる。聖書や史記を読むと、王に逆らったものは、山に潜み、盗賊になるしかなかった。

前漢の創始者の劉邦は、地方の末端の酒飲みの小役人であったが、秦の始皇帝の咸陽へ賦役の農夫を移送する途中、逃亡者が続出してしまい、咸陽に行けば厳罰を受けるので、残った農夫を引きつれて、山に潜み、盗賊の親分となった。

しかし、聖書の舞台になった中東では、盗賊以外に、商人になる手があった。商人といっても、行商人である。旧約聖書での「自由」は、まず、「移動の自由」「取り引きの自由」である。

新共同訳の『創世記』には「自由」という言葉が3箇所に出てくる。34章10節、34節21節、42章34節にでてくる。新共同訳より古い口語訳では「取り引き」と訳している。ヘブライ語聖書や70人訳ギリシア語聖書にあたってみると、ヘブライ語では סחרが、ギリシア語ではἐμπορεύομαιが使われている。これらの言葉は、「旅のものが商売する」すなわち「行商する」という意味である。

土地に縛られない、逃亡できるというのが、古代の「自由」であった。新約聖書のイエスやパウロは旅をして布教したから「自由人」である。

私の母は、戦後の混乱期、乳母車に私の兄を載せ、農家を周り、たべものを仕入れ、寝ている兄の下に隠して町に戻り、警察の目をかいくぐって、売り歩き、父が戦地から戻るまで、生き抜いた。売り歩く段になると、兄は目をあけ、ニコニコして買い手に愛嬌をふりまき、母を助けたという。

私の母も「自由人」であった。「自由人」とは「家造りらの捨てた石」である。

菅義偉は自助というとき、みんなが政府に逆らって生きる「自由人」になることを奨励しているのだろうか。彼が「叩き上げ」と自負するとき、強い者に逆らって、自力で生き抜いた経験があるのだろうか。

どうみても、結局、菅は強い者に寄り添って、その代行者としての地位を確保しただけである。「自由人」ではない。安倍晋三の自滅を待って、二階俊博とタグを組んで、総理大臣の座を射止めただけである。

彼は酒飲みでないから、劉邦よりマシかもしれない。また、安倍政権下で、最低賃金を上げることに賛成した数少ない安倍の部下である。

しかし、彼は「自由」というものを意識したことはなかったのではないか。官僚が総理大臣に逆らえば罰を与えるでは、独裁者の発想である。政府に逆らうものがいる日本学術会議はつぶしてしまえでは、独裁者の発想である。

自由を追求しなかった「叩き上げ」はヤクザの舎弟にすぎなない。舎弟が組長になったからといって、なんの称賛に値しない。

   ☆   ☆   ☆

『マルコ福音書』12章10節
 あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が 角のかしら石になった。

いま、自由・節制・自粛・行動変容・専門家を考える、新型コロナ

2020-03-21 22:47:15 | 自由を考える

けさ、3月21日の朝7時のフジテレビのニュース番組にびっくりしたのだが、新型コロナ対策専門家会議がイベントを禁止しなかったことを、国民に判断を丸投げしていると非難していた。

近代社会では、人は「自由」である。何を行い、何を行わないかは、人が自分で判断するのだ。他人の自由を侵害する、他人の生命をそこなうことには、社会の合意として、法でもって、禁じている。

自分で判断するのではなく、政府に、権威あるものに、命令されたい、というのは、エーリック・フロムのいう「自由の放棄」ではないか。フジテレビのニュース番組関係者はなさけない。

私は誰かに命令されたくない。「自由」を求める。

3月19日の専門家会議の記者会見では、新型コロナの爆発的感染拡大がいつ起きてもおかしくない状態であると言っていた。個人が判断するにそれで十分でないか。あと、何を知りたいのか。

専門会議は疫学チームである。疫学の常識は、「免疫や有効な治療法がなければ、国民の60から70%が感染するまで、流行が収まらない」である。新型コロナが新型である所以(ゆえん)は、みんなが免疫をもっていないことをいう。だから、疫学のできることは、感染者を隔離して感染の広がるスピードを遅らせ、有効な治療法が開発されるのを待つか、そうでなければ、重症者出さずに国民の大半を感染させ、集団免疫の状態に持ち込むしかない。

有効な治療法を開発することも、重症者をださないことも、疫学チームの仕事ではない。疫学ではできないことなのだ。

疫学チームの第1の仕事は、集団感染(クラスター)の早期発見・感染者隔離である。あたりまえのことだが、集団の規模が多ければ、参加者を特定できなければ、対応できない。疫学は、初期消火できなければ無力なのだ。

大規模イベントや人ごみが、クラスター対策班にとっては、困る存在であるのは、あたりまえである。だから、大規模イベントは「禁止」すべきか、専門家会議で議論になったことは驚くべきことであり、副座長の尾身茂の言うとおり、肯定的に評価すべきである。

私は人が集まる場所にわざわざ行かない。私に投票権があれば、東京オリンピックは開催しないに1票をいれる。

3月19日の専門家会議の記者会見で、尾身は一度も「自粛」とはいわず、市民の「行動変容」と言っていたと記憶している。私は、尾身が「行動の選択の自由」を意識していたのだと思う。感染の危険リスクについて説明したうえで、みずから危険を冒すか、避けるかは自由なのだ。

ただ、それ以前に、ひとに感染をうつしてまわらないよう、専門家会議が若者に願いしているから、あとは個人の行動の選択である。

「自粛」とは「自己規制」「節制」の言い換えである。プラトンは『国家(Πολιτεία、ポリテイア)』の3巻でつぎのように言う。

「節制(σωφροσύνη)とは、大多数の一般の者にとって、支配者たちへの従順であり、そして、みずからは飲食や愛欲などの快楽に対する支配者である、ということ」

B. Jowettはこの“σωφροσύνη”を“self-control”と訳している。

「節制」は「享楽」の反対語である。そして、同時に、「自由」を否定する語にもなりうる。

尾身は「自粛」とは言いたくなかったので、「行動の変容」という言葉を選択したのであろう。

「行動の変容」とは、人の行動に漫然とした慣習的なものがあり、危機に面しては、違った選択をしたっていいものがあり、自分でそれを選択すればよい。

命令されて動く国民だと、命令がやめば、反動がおきる。きょう、遊園地に人ごみが殺到したとテレビで放映していた。

きょうの夜のニュースで、小学校の卒業式の練習ができず、ぶっつけ本番で卒業式を行ったと教師がこぼしていた。卒業式を練習するなんて、バカか。卒業式は見世物じゃない。卒業式、入学式なんて、本来、不要なものである。

結婚していたら、ジムや居酒屋に行く必要だってない。花でも買って帰って、ふたりでセックスに励めばよい。

現在の民主主義を壊すのは専門家集団だとよく言われる。今回、専門家会議のメンバーを見ると、非常に地味な経歴である。疫学は地味なんだ。地味な専門家は、国家によってようやく生きながらえている。確かに政府を恐れてはいるが、しかし、今回のメンバーは政府の太鼓たたきになっていない。政府は専門家の知識がない。専門家が政府の指示に従順であれば、もはや専門家の機能を果たせない。

専門家と官僚は区別しないといけない。官僚は組織の中で泳ぐことを知っているが、社会にとって有用な知識の専門家ではない。

もちろん、テレビにでてくる専門家には政府の太鼓たたきもいる。メディアも自前のまともな専門家を抱えたらよいのではないか。

フロムの『自由からの逃走』における「個性」と「個性化」

2019-11-09 22:23:15 | 自由を考える

ひさしぶりに、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』(東京創元社)を読む。同じ本を何度も読む場合、読み切らないといけないという強迫観念がないので、細部を楽しむことができる。著者の論旨がどうでも良くなっている自分がいる。

フロムは自己卑下する感情は、怒りを人にぶつけることができないので、怒りが自分に向かった状態であると言う。私も自己否定に反対である。

私の学生時代には学園闘争なるモノがあり、「自己否定」を唱える集団があったが、権力者でもないものが「自己否定」しても何もいいことはない。うつの人を相手にするようになって、私はそう思うようになった。

「自己否定」は自我崩壊にいたる危険がある。そこまでいたらなくても、カリスマに絶対服従するようになる危険がある。

フロムは、また、「自由」というモノは、「個人」というものが存在してはじめて問題となるものだという。

ドストエフスキーは、小説の『カラマーゾフの兄弟』のなかで、無責任にも自由という考えを民衆に吹き込んだ、と大審問官にイエスを長々と責めさせる。

「何が善で何が悪かは、自分の自由な心によって判断していかなくてはならなくなった。」
「人間にとって、良心の自由にまさる魅惑的なものはないが、しかしこれほど苦しいものもまたない。」
「人間にとっては、善悪を自由に認識できることより、安らぎや、むしろ死のほうが、大事だということを。」
「選択の自由という恐ろしい重荷におしひしがれた人間が、ついにはお前の姿もしりぞけ、おまえの真実にも異議を唱えるようになるということを。」

しかし、新約聖書に4つの福音書があるが、どれにもそんな「自由」をイエスはのべていない。

ドストエフスキーが、大審問官の姿を借りて、怒りを述べているのは、近代的自我からくるものである。この近代的自我とは、自分を個人として意識することである。自分は他人と違う、他人の判断に頼ることができない、自分で自分の未来を選択しないといけない、と思うことである。

いっぽう、社会が身分社会でも、自分の身分を越えたことを欲することがなければ、「自由」があった、とフロムは言う。16世紀のブリューゲルの絵をみると、農民が楽しそうにお祭りに酔いしれ、また、卑猥なことにふけり、ルター派やカルヴァン派の教会の教えを無視している。

萩生田光一文部科学相が10月24日、テレビ番組で「(英語民間試験は)自分の身の丈に合わせて頑張ってもらえば」と言ったのは、この考えで、他人と自分は身分が違うのだ、と思えといっているのだ。

萩生田光一の発言に同意するひとは、近代的自我を持ち合わせていない。そういう人は、権力者に絶対服従し、そうでない人を非難するようになる危険をひめている。

東京創元社の『自由からの逃走』は日高六郎の訳だが、誤訳がけっこうある。そのなかで今回、気になったのは、彼は“individuality”を「個性」と、“individuation”を「個性化」と訳していることだ。

英和辞典を引けば、たしかに、そういう訳を最初にかかげているが、本書ではそういう意味ではない。フロムは“individuality”を「個人であること」、“individuation”を「個人であると意識すること」の意味で使っている。第1章、第2章の、人間の心理と自由についての関連の分析を読めば、フロムはそういう意味で使っていることは明らかだ。

もっとはっきりするのは、第2章の“a ten-year-old child’s sudden awareness of its own individuality”である。「自分の個性に目覚める」のではなく、「自分が個人であることに気づく」である。10歳の女の子が、自分が自分であることに気づき、急に自分をいとしく、また、誇らしく感じたことを言っているのであって、何か、自分の特性に気づいたことではない。

他人が自分と違うことは、いずれ、わかることである。それでも、他人に優しくあるには、「自分をいとしく、また、誇らしく」感じられることである。

ゆめゆめ、「自己否定」をしてはいけないし、他人にそれを求めてはいけない。

表現の自由に不寛容な日本、ウィーン芸術展の共催とりやめ

2019-11-07 22:10:19 | 自由を考える

またもや、役人が安倍晋三首相にそんたくして、オーストリアの首都ウィーンで開かれている芸術展「ジャパン・アンリミテッド」の共催を取り消し、助成金の交付を拒否した。

この芸術展は、オーストリアと日本との国交樹立150年を記念した事業の一環として、今年の1月に共催が決まっていたものである。そして、9月26日から展示がすでに始まっていた。

ところが、日本のネット上で、10月半ば以降、同展について「反日プロパガンダ」「日本を誹謗(ひぼう)中傷している」などの書き込みが相次いだ。日本会議国会議員懇談会の自民党の大西宏幸や長尾敬も共催とりやめを働きかけたと新聞記事にある。

菅官房長官は、記者会見で、10月30日に外務省が共催を取り消し、助成金の交付をやめたという。理由は外務省に聞けという。

じつは、芸術展「ジャパン・アンリミテッド」とは、日本の政治的表現の制限に立ち向かう芸術家というテーマで企画されたものだから、日本政府のタブーにふれるのはあたりまえである。

同展のホームページに次のようにはっきりと書かれている。
“the exhibition "Japan Unlimited" will feature some of the most prominent and active artists from Japan who confront the limits and freedoms of political-sociocritical art”

“confront”は「立ち向かう」という意味である。

だから、今回の事件は、表現の自由に不寛容な日本を、国際的に示すものである。

新聞記事などによると、「反日的」といわれるものは、安倍晋三に似た人物が中国や韓国に謝罪する動画や、東電の社長や副社長が原発事故を謝罪する作品や動画や、昭和天皇とマッカーサーが並ぶ写真に似せた作品などらしい。別に反日的であるのではなく、日本の権力者に対する「嘲笑」である。これらの展示を理由に共催を突然やめ、助成金をださないというのは、政治的表現の自由を否定するものと言わざるを得ない。

丸山眞男は日本にはファシズムがなかったというが、私が思うに、幕末や明治維新の尊王攘夷、富国強兵はまさに日本型ファシズムで、イタリア型やドイツ型と違い、一人による独裁が行われなかったが、天皇を精神的象徴に祭り上げ、元老集団による専制政治が行われ、大国日本、軍国日本にばく進した。

戦後、私たちの親の世代は、これらの日本型ファシズムを追放できなかった。昭和天皇は下剋上で自分の思うように政治を動かせなかったと後悔の念を側近にいう。ファシズムは「下剋上」なのである。

そして、岸信介が再建しようとした日本型ファシズム復活の応援団が、孫の安倍晋三の時代になって、日本会議やネット右翼の形で、実を結びそうになっている。

テレビによると、女系天皇反対に関連して、安倍晋三は、たかだか70年の憲法よりも、2000年の歴史をもつ天皇制の伝統を守らなければいけない、と言っているようだ。

だから、表現の自由にたいする不寛容は、許してはならない。