猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

能登の集中豪雨のもたらした大洪水、土石流、土砂崩れに支援の声を

2024-09-23 19:59:48 | 社会時評

能登の人びとには、年初の大地震と今回の集中豪雨と、まことに気の毒な事態である。あまりのことに、ただただ茫然としているでは、と思う。

こんなとき、中央政府や地方自治体の役目は重い。すぐにも、行政がどんな支援をするのかを発表すべきである。また、ボランティアにも支援をお願いすべきである。

人間は希望が必要である。中央政府や地方自治体は、このような自然の猛威に、あなたたちは孤立していない、困ったときは助け合うんだ、と言うべきである。

今回の大雨で、能登では、大地震からの復興が進んでいないことが明らかになった。堤防は応急処置しかされていない。水道も排水設備も応急処置のままだ。仮設住宅も、ハザードマップの浸水地域に建設したにもかかわらず、排水対策や床上げ対策もままならぬままだった。

地方自治体は仕方がないと泣き言をいうのではなく、人的支援、財政的支援を中央にも全国にも訴えるべきだ。助けを求めることは恥ずかしことではない。世の中には、自分ひとりでできないことがいっぱいあるのだ。

年初の大地震のとき、災害地の役人がボランティアが来ては困ると言ったのは、大失敗である。中央政府は、なんにもしてくれないし、できないことも多い。地方役人は大声で助けを求めるべきだ。助けてくれない中央政府を責めるべきだ。さもないと、自民党内の争いの中で、中央政府は動けない。

年初の能登大地震で自衛隊が派遣されたとき、地震で寸断された道路の復旧をするのか、と思ったら、何もしない。自衛隊は補給工作部隊をもっていて、道路や橋の復旧ができるはずだ。能登では、自衛隊が何か役立ったようなふりをしただけである。中央政府はインフラ復旧の責任がある。自衛隊をちゃんと役立てないといけない。


イスラエル政府のレバノンでの通信機器爆破による無差別攻撃に怒る

2024-09-19 22:35:02 | 戦争を考える

けさのテレビや新聞が、レバノンで火曜日にポケベル(pagers)が、水曜日にトランスシバー(walkie-talkies)が一斉に爆発し、何千人もの死傷者がでたと報じた。イスラエルの諜報機関モサドがヒズボラを攻撃するために通信機器に爆薬を事前に仕掛け、このタイミングで、爆破信号を送ったという。無差別集団暗殺である。

新聞の解説によれば、イスラエルのネタニヤフ政権の保持のために、戦線をあえて拡大したのだという。イスラエルは、現在、戦時内閣で選挙が停止している。戦争が終われば、ネタニヤフ政権が倒れ、現在、停止しているネタニヤフ首相の裁判も再開し、彼は収監される可能性がある。

また、今回のレバノンでの通信機器爆破攻撃を、事前に、あるいは、事後にイスラエル政府がアメリカ政府に通知したとの報道もあった。ネタニヤフ政権はアメリカ政府を戦争の共犯者に巻き込みたいのだろう。

イスラエルのネタニヤフ政権は一線を越えている。

国際社会が、イスラエル政府の暴走を止めるために、アメリカ政府のイスラエル軍事援助を非難すべきである。ネタニヤフ首相はアメリカ政府の軍事援助がある限り、国内世論も国際世論も国連決議も無視しつづけるだろう。


立憲民主党の代表選と野党の役割

2024-09-13 02:59:22 | 政治時評

このところ、メディアは自民党の総裁選と立憲民主党の代表選を対等に報道しており、よい傾向だと思う。

きのうの朝日新聞の夕刊に、立憲民主党は政権を本気で取る気があるかの記者のコメントがあったが、政権を奪うことが野党の本来の役目ではない。野党のもっとも大事な役割は、政権党と異なる政治方針の選択肢を国民に示すことである。さもないと、国民には選挙の際の選択肢がなくなり、自分の意思を代弁してくれる議員を国会に持てなくなる。

例えば、原発を推進するのか、原発を仕方がなく使用続けるのか、原発を廃棄し太陽光発電や風力発電を推進するのか。

沖縄の住民の意思を中央政府が無視し、沖縄ばかりに中国を敵とする米軍の基地を押し付けていてよいのか。日本に米軍基地は必要なのか。

インフレで国の借金をチャラにしようという経済政策によって、見捨てられる層を誰が代弁するのか。インフレは強い産業に属する雇用者だけが有利で、他は実質的に賃金の切り下げになるのではないか。他の産業も社会に必要なものを生産しているではないか。

日本の産業を育成するために、消費税を重くし、特例を作って法人税を軽くしていく、現在の税制度の不満を誰が代弁するのか。

経営者の都合で雇用を打ち切り易くするのは、よいことなのか。

政権の交代だけで政治が良くなると期待するのは幻想である。選挙はお祭りでない。個人的野心や党派的野心に基づくエリートの権力闘争の場であってはならない。政権党の恩恵を受けない層を野党がしっかりと代表しないといけない。

立憲民主党代表選の候補者の主張を聞いていると、野田佳彦は政権交代しかない。政権党との違いは、政治資金を私的目的に使わないとしか言っていない。

枝野幸男も、自民党との違いがはっきりしない。自民党よりも効率的に政治を行うとしか言っているように聞こえる。

メディアによっては野田を押しているが、野田や枝野はもう国民にとって必要とされないのではないか。彼らは引き下がって、泉健太や吉田晴美に立憲民主党を任したほうが良いのではないかと私は考える。


知的レベルが低いのは小泉進次郎だけではない、メディアはもっと低い

2024-09-08 23:12:09 | 政治時評

(John Kenneth Galbraith)

9月8日現在、自民党総裁選の告示がまだないのに、メディアは小泉進次郎を有力総裁候補として大々的に取り扱っている。2日前に進次郎を知的レベルが低いと質問した記者がいたが、メディアの非知性的な風潮への反抗のつもりだったのだろうか。とにかく、メディアが総裁選を劇場型に煽るのは、やめにして欲しい。ジャーナリストが政治に知性的な視点を失っては、その使命を果たしたことにならない。

進次郎が総裁選出馬会見で規制緩和を訴えていたが、規制を緩和したからといって、経済が好況になるわけではない。規制があるのは、富裕層の経済的自由のために、貧困で不自由な生活を強いられる人々を救うためにある。したがって、規制緩和が社会正義であるかのような誤解は正さないといけない。

J. ガルブレイスは、1957年出版の『ゆたかな社会(The Affluent Society)』で、歴史的な視点から、経済的自由主義や資本主義社会が生んだ好況と不況の波を論じている。経済的自由主義とは、経済的活動に規制をかけてはいけない、という考えだが、はじめは、君主からの規制を想定していた。それがいかなる政治的規制をかけてはいけないという考えになったのは、「社会進化論」の学説の影響である、とガルブレイスは言う。

ガルブレイスによれば、経済学の主流は、経済には自立的な法則がある、たとえば、資本の蓄積とともに、労働者の賃金は低下していく、といったことを明らかにすることだった。ところが、「社会進化論」はそこに価値観をもってくる。

「経済社会は人々の競走場裡である。戦いの条件は市場によって決められている。勝利者の報酬は生き残ることであり、立派に生き残ればさらに富という報酬が与えられる。これに反して敗北者は獅子の餌食になる」「弱者を淘汰することによって弱者が再生産されない」「無慈悲であればあるほど、弱者がより淘汰されるので、その効果もいっそう慈悲深い」

19世紀のハーバート・スペンサーはこう主張して、チャールズ・ダーウィンにさきだって「適者生存」という言葉を使った。

好況・不況の波は19世紀から起きていたが、その不況がどんどんひどくなって、1928年の大恐慌のときに、政治が経済活動に介入することを、全世界的に社会が受け入れた。岸田政権が「新資本主義」という言葉を使う90年前のことである。

このときの政治による経済活動への介入は、単に政府が公共事業に財政支出するだけでなく、アメリカは金融業にも規制を行った。株価操作を防ぐため、銀行業と証券業とは同一の法人が経営してはならないなどである。1928年の大恐慌は株価暴騰の後の株価暴落で始まった。

新自由主義とは、この90年前に始まった規制の撤廃を唱えることを指す。この逆行の背景には、ケインズ型の財政支出による景気対策が効果を発揮しなくなったことや、貧困層のために国が出費することの富裕層の不満がある。じっさい、スペンサーは公的教育制度にも反対していた。

菅義偉や岸文雄は自民党総裁選で新自由主義を批判した。その菅が、今回、規制緩和を唱える小泉進次郎の推薦人になっている。菅の「新自由主義批判」はウソだったのだろう。


田中秀征の提案する中選挙区連記制

2024-09-02 12:35:23 | 政治時評

3週間前、機能不全に陥っている代議制民主主義を救うために、田中秀征が朝日新聞で中選挙区連記制を提案していた。はじめは、彼は見当違いのことを言うと思っていたが、時がたつとそんなに悪くないな、と私は思い出した。

彼の中選挙区連記制とは、一選挙区の議員定数を3人から5人にして、有権者は2名に投票できることをいう。

「裏金問題に見られる政治の劣化の主因は小選挙区制にあり」という田中の主張は理解しがたいが、小選挙区制は、確かに、政党幹部に権力が集中し、民意が反映しにくいと思う。小選挙区制ではマイノリティの意思は切り捨てられると思う。

田中はつぎのように言う。

「中選挙区の時代は、農業団体に強い議員と商工団体に強い議員が自民党内で激しく対立し、(党内で)調整するのが常でした」「小選挙区制では、自民党を支持する農業や商工、建設団体、医師会などが、こぞって一人の自民党候補を推すのです」「議員は政党のトップに逆らわなくなる。そのうちに構想力もなくなり、志まで失う」

小選挙区制となると、当選した議員が誰の利害を代弁するのか、曖昧になる。みんなにいい顔をしようするから、政策ではなく、軍備増強とか保守的価値観をふりまくだけになる。これは、ハンナ・アーレントが「全体主義の起源」で訴えた20世紀初頭からワイマール共和国のドイツの代議制民主主義の欠陥そのものではないか。

20世紀初頭のドイツの失敗は比例代表制で起きた。小選挙区制だけが悪だと言えない。

政党が国民を代表しなくなってしまうということこそ、2大政党制が陥る罠ではないだろうか。アメリカでのトランプの出現は、従来の民主党や共和党が、国民のどの層を代弁するのかあいまいになったからではないだろうか。多数の政党があるのが健全な代議制民主主義ではないだろうか。無党派の議員がいても良いのではないだろうか。

こういう問題意識をもって、田中の中選挙区連記制を考えると、あり得る選択肢に思える。