ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

部落差別、本質考える場 朝田善之助記念館が完成

2018年07月08日 17時55分21秒 | 障害者の自立

八木先生の覚え書き/47

 戦前の運動、戦後の解放運動を理論と実践の両面で指導した朝田善之助氏(1902~83年)の遺志を継承する「朝田善之助記念館」(京都市左京区浄土寺西田町)がこの17日にオープンします。朝田氏は、筆者の初期の問題学習に決定的な影響を与えた存在です。また、生前、親しくお付き合いいただいたこともあって、朝田氏死去の折に本紙に追悼評伝を執筆したのは、当時毎日新聞大阪学芸部にいた筆者でした。そうした抑えきれぬ懐かしさを胸に、開館準備作業中の同館を訪問しました。

 

 応対してくださったのは、同館館長で、設立母体の朝田教育財団の理事・事務局長でもある井本武美さん(79)。井本さんは兵庫県三木市の被差別の出身で、立命館大在学中の1958年、朝田さんの地元・田中(京都市左京区)での勤評闘争(田中子ども会は3日間の同盟休校を貫徹、京都府・市との自主交渉も行なった)に参加、そこで朝田氏と出会って惹(ひ)きつけられ、以後、中学教師を続けながら田中に住みついて、朝田氏の一番弟子として行動を共にされました。筆者などは若い頃、そのような井本さんを、失礼ながら、「朝田派の大番頭」と呼んでいました。「僕にも、その自負はある」と、運動方針案を書く時もビラを作成する時も、朝田氏の口述を井本さんが筆記するといった共同作業だったことを明らかにされました。

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 さて、朝田氏については、いわゆる朝田理論を抜きに語ることができません。「日常、に生起する問題で、民にとって不利益な問題は一切差別である」という命題は、朝田氏によって解放同盟第12回大会(57年)で打ち出され、その後、運動方針にも明記されます。この命題について井本さんは「何もかも差別だというのではなく、の歴史性と社会性に照らしての主張でした」と。つまり、にとっての不利益問題は、当該に偶然起きたものではなく、の歴史性と社会性に根ざして起きたもの、換言すれば、差別によって必然的に生じている社会現象であるということです。同和対策審議会答申(65年)の前年に初めて被差別の生活実態調査に参加して、差別に起因する悲惨と貧困を現認した筆者(当時、大学の2年生でした)には、胸にストンとおちる命題でした。

 その後、朝田氏や井本さんらはこの命題を発展させ、有名な「三つの命題」路線を構築していきますが、専門的に過ぎるのでここでは割愛します。ただ、その第一命題「差別の本質」については現在も議論のあるところなので、少し触れておきます。一般には、差別の本質を「市民的権利が行政的に不完全にしか保障されていない」ところに見出してきたが、井本さんは「朝田さんのすごいところは解放運動を階級的視点から捉え返した点です。つまり、民が差別によって主要な生産関係から除外され、労働市場の最底辺を支えさせられていることを明らかにしたのです」と。もちろん、生産関係という概念をどのように規定するかによって、朝田理論への評価は分かれるのですが、今日の問題として、非正規労働者の収入が正規労働者の6割程度以下の現状を考えると、被差別の人びとの収入も一貫して非民の6割以下だったという事実はやはり重く、その点は井本さんの指摘どおり、「被差別は国内植民地ともいうべき状態に置かれてきた」と言えるかもしれません。

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 では、解放運動の現状をどう見るか。井本さんは「人権啓発活動はあっても解放闘争がない」と手厳しいのですが、少子高齢化などで全体が空洞化する現状では、ある程度までやむをえないことかも。

 筆者の卒業論文のテーマは問題でしたが、その際、上記した朝田理論に触発され、その延長線上でK・マルクスの「黒人は黒人である、だが一定の社会関係において彼は白人の奴隷になる」との言説に魅惑されました(村田陽一訳『賃労働と資本』国民文庫版、44ページ)。問題は黒人の肌の色ではなく、黒人を白人の奴隷にしてしまう社会関係(むろん、その中心は生産関係です)にある以上、問題解決は黒人を白くすることではなく、社会関係を変革するところからしか展望できないというわけです。一般化して言えば、黒人は黒人のまま、女性は女性のまま、障害者は障害をもったまま、民は民のまま、人間として全面的に解放されねばならぬという考え方です。

 朝田氏の魅力は?との筆者の問いに、井本さんは「アジテーター(扇動者)ではなく、オルガナイザー(組織者)だったことと、学者・文化人との上手な付き合いによる理論学習の方法でしたね」と。尋常小学校しか出なかった朝田氏は一方で底辺労働者の気持ちをよく理解し、他方では京都帝大経済学部の河上肇博士や山岡亮一博士からマルクス経済学の手ほどきを受けていたとのことです。逆に朝田氏の短所は?と聞くと、「僕の妻は朝田さんの兄貴の娘なんでね、ケチはつけにくいが、あえて言えば、方針がコロコロとよく変って、僕らを右往左往させたことかな」。

 新設の「朝田善之助記念館」はヒノキの間伐材を用いた木造2階建て延べ約160平方メートル。土地は朝田氏の孫・朝田華美さんが提供し、寄付金などを建築費にあてて完成。ここには約5万点の書籍、資料、記録ノート、口述筆記草稿などが収納されますが、井本さんによれば、最大の宝物は、その時々の運動現場を如実に示すビラ類および冊子類だとか。公開原則は守るものの、差別的な利用を回避するため、事前の閲覧申し込み制をとることになるようです。筆者が井本さんにインタビューした部屋は、朝田氏が晩年を過ごした田中の市営アパートの一室を再現したもので、かつて2~3度、ここを訪れたことのある筆者は、あまりの懐かしさに長時間居すわってしまいました。

毎日新聞          2018年7月7日


旧優生保護法を問う 不妊手術「同意」も救済 法制化で与党チーム検討

2018年07月08日 17時46分34秒 | 障害者の自立

旧優生保護法を問う

 旧優生保護法(1948~96年)下で障害者らへの不妊手術が行われていた問題で、与党ワーキングチーム(WT)は12日の会合から救済策の検討を本格化する。本人が手術に同意していたとされるケースでも幅広く国に救済を求める方向で議論する。与党は被害認定の方法や補償額などを詰めた上で、超党派の議員連盟とも連携しながら来年の通常国会での救済法成立を目指す。

毎日新聞          2018年7月8日


認知症患者が料理を提供、「かめキッチン」オープン

2018年07月08日 17時38分41秒 | 障害者の自立

調理から接客まで

神奈川県藤沢市に認知症の方々が大活躍するレストラン、「かめキッチン」が6月18日、オープンしました。認知症を抱えるデイサービス利用者が調理から接客まで行うもので、デイサービス利用者が有償で働く先進的デイサービスとして、注目されます。

「かめキッチン」カルチャー式デイサービス「カルチャースクール亀吉」を始め、福祉コミュニティなど30以上の事業を手がける、NPO法人シニアライフセラピー研究所がオープンさせました。同法人では10年前から料理によるリハビリに取り組んでおり、そのノウハウを活かし、食品衛生法上の規定を守り、一般の方々に提供する食事づくりを行います。

有償で働く先進的デイサービス

「かめキッチン」のメニューは、デイサービス「カルチャースクール亀吉」によるバイキング形式のランチメニュー、障害者就労支援施設「パン遊房 亀吉」のパン、「福祉コミュニティカフェ 亀吉」のカフェメニュー(の一部)からなっています。

デイサービスから提供されるランチメニューは、利用者さんの知恵を活かした家庭料理をベースに工夫をこらした親しみのある日替わりメニュー。売り切れ御免となっています。料理を作り、接客まで行うデイサービスの利用者は、機能訓練の中で有償ボランティアとして働き、労働の対価として「かめキッチン」の売上から謝金を受け取ることで、機能回復だけでなく、社会との接点、生きがいにも繋がります。

「かめキッチン」の概要
住所:〒251-0037 神奈川県藤沢市鵠沼海岸7-20-21
電話:0466-34-8550
営業時間:9:00〜15:30(月〜金)、ランチタイム11:30〜13:30(ラストオーダー13:00)

(画像は公式HPより)認知症ねっと


どうする公文書管理 条例制定目指す県、独自色検討

2018年07月08日 17時31分51秒 | 障害者の自立

 森友・加計学園問題や防衛省の日報問題で、公文書管理のあり方が注目を集めている。県は政策の形成過程などを記録に残すため、本年度中に公文書管理条例(仮称)の制定を目指している。先進県の取り組みを参考に、課題を探った。 

 県の公文書は現在、情報公開条例で「公務員が職務上作成・取得した文書、図画、写真」を対象とし「組織的に用いるもの」と定義している。つまり県や県警、県教委などの職員が作成したり、入手したり、扱ったりした文書は、個人メモや県警の捜査資料などを除けば、原則として公文書と扱われる。電子データも含まれる。

 県の文書庫には、二〇一四年度の調査時点で三万六千箱の公文書が保管されていた。一箱はおおむね簿冊で十冊前後に相当し、冊数やページ数では膨大だ。ロシア皇太子が襲撃された大津事件(一八九一年)の資料など、明治から昭和の戦前期までの文書も多数残る。県民情報室の小川一記室長は「適切な管理は情報公開請求に対する対応や、歴史研究などへの貢献につながる」と説明する。

 ところが一五年、情報公開請求を受けた県教委が、永年保存とされていた一九七八年作成の公文書を紛失したことが発覚。外部有識者でつくる県情報公開審査会から「重要な文書について、不適切な管理が行われたおそれがある」と批判を受けた。

 また、障害者らへの強制不妊手術を認めた旧優生保護法を巡る問題でも、永年保存とされた手術の適否を判断した審査会の議事録が散逸していることが、本紙などの情報公開請求で分かった。いずれも廃棄の記録がないため、詳しい経緯は分かっていない。

 条例制定で改善されるのか。公文書管理条例を制定している都道府県は現在、東京、熊本など五都県。熊本では公文書廃棄の判断に県民や専門家らの意見を仰ぐ仕組みを導入し、厳しくチェックしている。熊本県によると、一七年度は廃棄と決めた七万二千二百七十六冊のうち、五百九十九冊が外部の意見で保管継続とされた。環境調査や災害復旧事業、プロバスケットボールチーム誘致の資料などで、後年の検証や調査研究に資するかどうかの「記録性」が重視されているとうかがえる。

 同県の担当者は「県職員では分からない視点の意見をいただいている」と有効性を評価しつつ「有識者への対応や点検管理など、マンパワーが必要だ」と職員の負担感も認める。

 滋賀県は十一月をめどに廃棄のルールも含めて条例の素案を作成する。三日月大造知事は、五月の会見で「公文書の取り扱いは現在、国民の注目を集めているテーマ。滋賀ならではの内容をどこまで入れるかは、もう少し深く検討したい」と述べている。

◆きちんと保管を

 取材でよく県や市町に情報公開請求をする。公有地の売却記録だったり、行政とある団体が協定を結ぶまでの交渉記録だったり。開示された公文書を読めば分かることが多々あるし、思いがけない未公表情報に出くわすこともある。

 こうした公文書が読めるのは、きちんと保管されていたこそ。国のように「ない」と言っていた文書が後から出てきたり、改ざんされたりすれば情報としての信用性が落ちてしまう。公文書は県民共有の知的財産だ。それにふさわしい管理となるよう期待したい。

中日新聞        2018年7月8日


オウム真理教 死刑執行 松本サリン、怒り今も

2018年07月08日 17時21分15秒 | 障害者の自立

「真相、分からぬまま」 現場周辺、住民ら思い複雑 /長野

 8人が死亡した松本サリン事件から24年。オウム真理教の元代表、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(63)ら7人の死刑が6日に執行された。7人のうち、松本サリン事件に関係したのは5人。「死刑執行は当然」「事件の真相が分からないままだった」。現場周辺の住民や犠牲者を知る人たちはさまざまな思いで執行を受け止めた。【小川直樹】

 

 事件の現場は松本城北側の閑静な住宅街。周辺には新しい住宅やマンションが建ち、事件当時を知らない住民が増えた。事件の第一通報者でありながら容疑者扱いされた河野義行さんの自宅や、オウム真理教が狙った地裁松本支部の官舎、教団がサリンを噴霧した駐車場は今も残っている。

 現場近くに住む男性医師(58)は、松本死刑囚らの死刑執行について「複雑な気持ちだ」と静かに語った。事件で亡くなった信州大医学部6年、安元三井(みい)さん(当時29歳)は顔見知りだった。安元さんは医者を目指し、早稲田大を卒業後、信大に入り直した。事件の数日前、街ですれ違い、「やあ」と声をかけたのが会った最後だった。

 医師は「死刑が執行されたからといって、亡くなった人は帰ってこないし、浮かばれない」。富山県に住む安元さんの母親は、真相を知りたいと、高齢の身で松本死刑囚の裁判を傍聴していたという。「松本死刑囚は何も語らなかったし、罪を認めなかった。お母さんの気持ちを思うと複雑だ。遺族は『死刑が執行されて良かった』とは誰も思っていないのではないか」と話した。

 現場近くに住む80代の男性は、噴霧されたサリンを吸い、目に健康被害を受けた。「あの事件は忘れられないし、教団への怒りは今もある。何の落ち度もなく、平穏に暮らしていた人たちを苦しめたのだから、死刑執行は当然だと思う」と言葉少なに語った。

 近くに住む女性(71)は事件の夜、けたたましく走る救急車の音で発生を知ったという。「死刑執行は当然だと思うが、なぜあんなことをしたのか、本当のことは分からないままになってしまった」と残念がる。

 現場近くを通りかかった女性(87)は「死刑というのは、つらいことだと思うが、そうしないと死んだ人は浮かばれない」と話した。事件の4年ほど後、女性の自宅に近い松本市内の障害者養護施設で、河野さんの妻澄子さんが療養していたという。「河野さんは犯人扱いされて可哀そうだった。(意識不明になった)奥さんの看病に、河野さんが毎日、夕方になると車で来ていたのを覚えている」と振り返った。

「ひかりの輪」へ立ち入り 公安調査庁 小諸で信者動静監視

 公安調査庁長野事務所は6日、オウム真理教の後継団体・アレフから分派した「ひかりの輪」小諸施設(小諸市加増)への立ち入り調査を行った。死刑執行を受けて信者の動静を監視するのが目的。

 同事務所によると、小諸施設では、長野、群馬、新潟県から数人の信者が通って説法などを受けている。近年の調査では、オウム真理教に関連するものは発見されていないという。6日の調査は、検査官2人が午後5時20分ごろから約40分かけて実施した。刑執行から36時間は施設付近で検査官が監視を続ける。

 近隣の男性(67)によると、小諸施設では上祐史浩代表が出入りする姿が時々目撃されている。数カ月に一度は信者が集まり、騒がしくしている時もあるという。男性は「昔は不安だったが警察官が巡回するので安心した。まさか7人も一気に刑を執行するなんて」と驚いた表情を見せた。【島袋太輔】

孤立する人が出ない社会に 阿部知事

 オウム真理教による一連の事件について、阿部守一知事は6日の記者会見で「普通の常識では分からない、極めて不合理な事件。やるせない思い。多くの若者が教団に引きつけられ、なぜこういう行動を取ったのか。分かっていない」としながらも「支え合い、助け合って、孤立する人が出ない社会をつくっていく必要がある」と話した。【鈴木健太】

死刑執行は当然だ 山内弁護士

 松本サリン事件が起きる前、教団は、進出に反対する住民との間で土地明け渡しを巡る訴訟を抱えており、不利な判決が出ることをおそれ、地裁松本支部官舎を標的にサリンをまいたとされる。訴訟で住民の代理人を務めた山内道生弁護士(71)は松本市で記者会見し「教団が起こしたのは日本の犯罪史上、前代未聞で空前絶後の犯罪だった。私は死刑反対論者だが、松本死刑囚らの死刑執行は当然の結果だ」と述べた。

 山内弁護士は、1989年に教団に殺害された坂本堤弁護士が勤めた横浜法律事務所(横浜市)に所属したことがある。直接、一緒に仕事をしたことはなかったが、88年に事務所の弁護士たちが信州を旅行した際、宿泊先の上高地で坂本弁護士と酒を酌み交わしたという。坂本弁護士を「スケールの大きい人で、いい弁護士になると思っていた」と惜しんだ。そして「(初動で)警察の捜査が極めて弱かった。坂本弁護士の事件がなければ、松本サリン事件や地下鉄サリン事件もなかった。非常に残念だ」と述べた。【小川直樹】

24年、忘れない 元松本署係長

 松本サリン事件当時、松本署の鑑識係長だった樋口伸夫さん(64)=長野市=は「24年たったが、当時のことは忘れていない」と語る。

 当直明けだった事件当日の夜、自宅に戻って床に就くと、午後11時ごろ部下から「ガスの検知器はどこですか」と電話がかかってきた。明け方には上司から緊迫した声で「すぐに来てくれ」と呼び出された。「当直明けに呼び出されるなんてよっぽどの事件だと思った」と振り返る。

 「サリンなんて思いもよらなかったが、部下には『気をつけろ』と指示を出した」。上司と2人で早朝から現場付近を歩き回り、有毒ガスの発生源を探した。ハトの死骸が見つかればそこへ向かい、木の葉も採取した。

 松本智津夫死刑囚の公判には検察側証人として出廷した。松本死刑囚がブツブツとつぶやいていたことを覚えている。7人の死刑執行については「麻原だけ先に執行することで、他の死刑囚から聞けることが出てきたのではないか」と残念がった。

松本サリン事件

 1994年6月27日午後10時40分ごろ、松本市北深志の住宅街で猛毒のサリンがまかれ、学生や会社員ら7人が死亡、約590人が重軽症となった。サリンの威力を試すとともに、教団関係の訴訟を担当する長野地裁松本支部の裁判官官舎を狙ったオウム真理教の犯行だった。しかし県警が第一通報者の河野義行さん宅を容疑者不詳のまま殺人容疑で家宅捜索したことで、毎日新聞を含むマスコミ各社が河野さんを犯人扱いする誤った報道をし、事件報道の在り方が厳しく問われることになった。河野さんの妻澄子さんは2008年8月、サリン中毒による低酸素脳症に伴う呼吸不全で亡くなり、死者は8人となった。一方、教団は事件が解決しない中の95年3月、東京で「地下鉄サリン事件」を起こした。

毎日新聞         2018年7月7日