半世紀前に「東京パラリンピック」があった(2)
1964年の東京パラリンピックは障害を持った日本選手に大きな衝撃を与えた。外国選手はみなたくましく、明るかった。障害を持たない人に交じって働き、自らの人生を切り開いていた。日本との違いはどこから生じていたのか。パラリンピック開催の経緯を追いながら、当時の社会状況を探ってみたい。
■一般社会との間に「鉄のトビラ」
時計の針を東京パラリンピックの3年前に戻す。1961年10月22日、大分県で「大分県身体障害者体育大会」が開かれた。レクリエーションではない、障害者による本格的なスポーツ競技会は日本で初めて。まだ東京パラリンピックの開催は決まっておらず、そうした大会の存在さえほとんど知られていなかった。
推し進めたのは国立別府病院整形外科医長だった中村裕だ。当時、脊髄損傷の治療法といえば温泉入浴やマッサージで、通常の社会生活に戻るのは難しいとされていた。中村はパラリンピック発祥の地の英国で、スポーツを治療に生かす方法を勉強。自分の病院に戻って実践しようとしたところ、猛烈な批判にさらされた。
「日本の病院が全てそうであったように、別府の職場や周りの関係者は、患者にスポーツをやらせることにこぞって反対した。『それはむちゃですよ。せっかくよくなりかけたものを悪くするようなものです』と言い、『あなたは医者のくせに、身障者を公衆の前に引きだして、サーカスのような見せ物をやろうというのですか。医者の考えることではないですよ』と、無謀視する者ばかりであった」(『中村裕伝』水上勉、井深大、秋山ちえ子ら編)
中村に寄せられた批判は、治療の方法にとどまらなかった。「見せ物にするのか」という言葉が象徴するように、当時は「障害は隠しておくべきだ」「障害者はできるだけ表に出ないほうがいい」といった社会通念があった。障害者のための施設は各地に作られていたが、そこで一生を終えるのが当たり前だった。
それは東京パラリンピックに出場した選手の回想にも現れている。「(従来の考え方は)不具者を倉の中とか、座敷牢(ろう)とかに閉じ込め、他人の目に触れさせなかった」(水泳と卓球の長谷川雅己、『東京パラリンピック大会報告書』国際身体障害者スポーツ大会運営委員会より)
「昭和30年代(1955~64年)は身障者と一般社会とでは鉄のトビラで仕切られているようなもので民間会社への就職はまず考えられなかった」(車いすバスケットボールの浜本勝行、『戸山サンライズ情報 1985年7月号』より)
そんな遅れた日本にとって、パラリンピックは突然降ってきた隕石(いんせき)のようなものだった。実は中村は英国に留学中、パラリンピック創始者であるルードイッヒ・グットマン博士から、あるメッセージを預かっていた。「64年の東京五輪の直後、その施設を利用してパラリンピックを開いてほしい」
今でこそ五輪とパラリンピックは当たり前のように同時に開かれているが、もとはまったくの別物だ。パラリンピックはグットマンが所長を務める施設の名前から「ストーク・マンデビル大会」として、ロンドンで毎年開かれていた。五輪との同時開催は60年のローマ大会が最初。博士が64年の東京にこだわったのは、同時開催を定例化したかったためとみられる。ちなみにパラリンピックという呼称になったのは64年の東京大会からだ。
■池田勇人首相にパラ開催を「直訴」
中村が大分県で障害者によるスポーツ競技会を開こうと悪戦苦闘していたころ、東京の福祉関係者にも「パラリンピックを開きたい」というグットマンの意向が届きつつあった。だが「まずは国内大会で実績を積むべきだ」といった意見が大勢で、議論は膠着状態に陥っていた。グットマンの弟子を自任する中村はスポーツ競技会が終わるとすぐに、パラリンピック開催に向けて動き出した。
「日本人は事大主義者である。とくに中央からみて、地方の出来事はほとんど目に入らない。逆にアメリカ、ヨーロッパのこととなると大騒ぎする。私はストーク・マンデビル大会に参加しようと考えた。身障者スポーツは大騒ぎされなければならないのである」(『太陽の仲間たちよ』中村裕著)。実際に中村は、ロンドンで62年7月に開かれたストーク・マンデビル大会に2人の選手を大分県から派遣。パラリンピックに参加した初めての東洋人となった。
中村は政官界にもパラリンピック開催を働きかけた。知己の無かった中村が頼ったのがマスコミだ。朝日新聞社で厚生文化事業団の事務局長をしていた寺田宗義は、こう回想する。
「(62年の5月ごろ、中村が)突然私を訪ねていわく(中略)グットマン博士はかねて我が国に開催を呼びかけているが、厚生省(現厚労省)はじめ関係方面ではいっこうに腰をあげてくれない(中略)こんな始末ではとうてい開催が難しいと思うので(中略)各方面に呼びかけ実現してほしい(中略)東京五輪のあとに東京パラを開催できないとすれば、福祉国家ニッポンの看板は国際的にみて偽りになるであろうと強い口調で訴えたのである」(『創立20年史』日本身体障害者スポーツ協会)
寺田は中村の意を受けて、7月に当時首相だった池田勇人に面会する。これからロンドンのストーク・マンデビル大会に出場する車いすの選手を2人連れていた。
「閣議を終えて駆けつけた故池田勇人首相は(車いすに乗った選手を)チラリとみて驚きの眼を見張った。『これはどうしたことなんか…』と不審の面もちである。私の懸命な説明に大きくうなずいた池田さんは『身体障害者のオリンピックを催すという話は初耳だ、まったくすばらしい、国際親善と、身障者諸君の社会復帰に役立つという企画には政府も協力を惜しまない。1億たらずの金で開けるというのなら、君たちの手で民間の資金が集まらないときには、いつでも言ってこいよ、なあに全額国費で賄ってもよいよ』(中略)この首相のひと言にその瞬間、『しめたっ、これで東京パラは完全にスタートできるぞー』との確信と期待に胸の高鳴りを覚えたのであった」(同上)
■頼みは寄付、冷たかった経済界
ロンドンから選手が帰国した8月には、政府も東京パラリンピックの開催支援を確約。翌63年に運営組織となる「国際身体障害者スポーツ大会運営委員会(以下、パラリンピック運営委員会)」が発足した。
「日本人は事大主義者である。とくに中央からみて、地方の出来事はほとんど目に入らない。逆にアメリカ、ヨーロッパのこととなると大騒ぎする。私はストーク・マンデビル大会に参加しようと考えた。身障者スポーツは大騒ぎされなければならないのである」(『太陽の仲間たちよ』中村裕著)。実際に中村は、ロンドンで62年7月に開かれたストーク・マンデビル大会に2人の選手を大分県から派遣。パラリンピックに参加した初めての東洋人となった。
中村は政官界にもパラリンピック開催を働きかけた。知己の無かった中村が頼ったのがマスコミだ。朝日新聞社で厚生文化事業団の事務局長をしていた寺田宗義は、こう回想する。
「(62年の5月ごろ、中村が)突然私を訪ねていわく(中略)グットマン博士はかねて我が国に開催を呼びかけているが、厚生省(現厚労省)はじめ関係方面ではいっこうに腰をあげてくれない(中略)こんな始末ではとうてい開催が難しいと思うので(中略)各方面に呼びかけ実現してほしい(中略)東京五輪のあとに東京パラを開催できないとすれば、福祉国家ニッポンの看板は国際的にみて偽りになるであろうと強い口調で訴えたのである」(『創立20年史』日本身体障害者スポーツ協会)
寺田は中村の意を受けて、7月に当時首相だった池田勇人に面会する。これからロンドンのストーク・マンデビル大会に出場する車いすの選手を2人連れていた。
「閣議を終えて駆けつけた故池田勇人首相は(車いすに乗った選手を)チラリとみて驚きの眼を見張った。『これはどうしたことなんか…』と不審の面もちである。私の懸命な説明に大きくうなずいた池田さんは『身体障害者のオリンピックを催すという話は初耳だ、まったくすばらしい、国際親善と、身障者諸君の社会復帰に役立つという企画には政府も協力を惜しまない。1億たらずの金で開けるというのなら、君たちの手で民間の資金が集まらないときには、いつでも言ってこいよ、なあに全額国費で賄ってもよいよ』(中略)この首相のひと言にその瞬間、『しめたっ、これで東京パラは完全にスタートできるぞー』との確信と期待に胸の高鳴りを覚えたのであった」(同上)
■頼みは寄付、冷たかった経済界
ロンドンから選手が帰国した8月には、政府も東京パラリンピックの開催支援を確約。翌63年に運営組織となる「国際身体障害者スポーツ大会運営委員会(以下、パラリンピック運営委員会)」が発足した。
日本選手の結団式はバスを使って開かれた。水上勉らが編んだ『中村裕伝』には「(五輪の熱気に比べて)余りにも寂しい景色」とある(写真は日本障がい者スポーツ協会提供)
(敬称略、次回に続く)(オリパラ編集長 高橋圭介)