ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

「障害者を見せ物にするのか」 難産だった東京パラ

2018年01月10日 12時02分38秒 | 障害者の自立

半世紀前に「東京パラリンピック」があった(2)

 1964年の東京パラリンピックは障害を持った日本選手に大きな衝撃を与えた。外国選手はみなたくましく、明るかった。障害を持たない人に交じって働き、自らの人生を切り開いていた。日本との違いはどこから生じていたのか。パラリンピック開催の経緯を追いながら、当時の社会状況を探ってみたい。

■一般社会との間に「鉄のトビラ」

 時計の針を東京パラリンピックの3年前に戻す。1961年10月22日、大分県で「大分県身体障害者体育大会」が開かれた。レクリエーションではない、障害者による本格的なスポーツ競技会は日本で初めて。まだ東京パラリンピックの開催は決まっておらず、そうした大会の存在さえほとんど知られていなかった。

 推し進めたのは国立別府病院整形外科医長だった中村裕だ。当時、脊髄損傷の治療法といえば温泉入浴やマッサージで、通常の社会生活に戻るのは難しいとされていた。中村はパラリンピック発祥の地の英国で、スポーツを治療に生かす方法を勉強。自分の病院に戻って実践しようとしたところ、猛烈な批判にさらされた。

 「日本の病院が全てそうであったように、別府の職場や周りの関係者は、患者にスポーツをやらせることにこぞって反対した。『それはむちゃですよ。せっかくよくなりかけたものを悪くするようなものです』と言い、『あなたは医者のくせに、身障者を公衆の前に引きだして、サーカスのような見せ物をやろうというのですか。医者の考えることではないですよ』と、無謀視する者ばかりであった」(『中村裕伝』水上勉、井深大、秋山ちえ子ら編)

 中村に寄せられた批判は、治療の方法にとどまらなかった。「見せ物にするのか」という言葉が象徴するように、当時は「障害は隠しておくべきだ」「障害者はできるだけ表に出ないほうがいい」といった社会通念があった。障害者のための施設は各地に作られていたが、そこで一生を終えるのが当たり前だった。

 それは東京パラリンピックに出場した選手の回想にも現れている。「(従来の考え方は)不具者を倉の中とか、座敷牢(ろう)とかに閉じ込め、他人の目に触れさせなかった」(水泳と卓球の長谷川雅己、『東京パラリンピック大会報告書』国際身体障害者スポーツ大会運営委員会より)

 「昭和30年代(1955~64年)は身障者と一般社会とでは鉄のトビラで仕切られているようなもので民間会社への就職はまず考えられなかった」(車いすバスケットボールの浜本勝行、『戸山サンライズ情報 1985年7月号』より)

 そんな遅れた日本にとって、パラリンピックは突然降ってきた隕石(いんせき)のようなものだった。実は中村は英国に留学中、パラリンピック創始者であるルードイッヒ・グットマン博士から、あるメッセージを預かっていた。「64年の東京五輪の直後、その施設を利用してパラリンピックを開いてほしい」

 今でこそ五輪とパラリンピックは当たり前のように同時に開かれているが、もとはまったくの別物だ。パラリンピックはグットマンが所長を務める施設の名前から「ストーク・マンデビル大会」として、ロンドンで毎年開かれていた。五輪との同時開催は60年のローマ大会が最初。博士が64年の東京にこだわったのは、同時開催を定例化したかったためとみられる。ちなみにパラリンピックという呼称になったのは64年の東京大会からだ。

■池田勇人首相にパラ開催を「直訴」

 中村が大分県で障害者によるスポーツ競技会を開こうと悪戦苦闘していたころ、東京の福祉関係者にも「パラリンピックを開きたい」というグットマンの意向が届きつつあった。だが「まずは国内大会で実績を積むべきだ」といった意見が大勢で、議論は膠着状態に陥っていた。グットマンの弟子を自任する中村はスポーツ競技会が終わるとすぐに、パラリンピック開催に向けて動き出した。

 

 「日本人は事大主義者である。とくに中央からみて、地方の出来事はほとんど目に入らない。逆にアメリカ、ヨーロッパのこととなると大騒ぎする。私はストーク・マンデビル大会に参加しようと考えた。身障者スポーツは大騒ぎされなければならないのである」(『太陽の仲間たちよ』中村裕著)。実際に中村は、ロンドンで62年7月に開かれたストーク・マンデビル大会に2人の選手を大分県から派遣。パラリンピックに参加した初めての東洋人となった。

 中村は政官界にもパラリンピック開催を働きかけた。知己の無かった中村が頼ったのがマスコミだ。朝日新聞社で厚生文化事業団の事務局長をしていた寺田宗義は、こう回想する。

 「(62年の5月ごろ、中村が)突然私を訪ねていわく(中略)グットマン博士はかねて我が国に開催を呼びかけているが、厚生省(現厚労省)はじめ関係方面ではいっこうに腰をあげてくれない(中略)こんな始末ではとうてい開催が難しいと思うので(中略)各方面に呼びかけ実現してほしい(中略)東京五輪のあとに東京パラを開催できないとすれば、福祉国家ニッポンの看板は国際的にみて偽りになるであろうと強い口調で訴えたのである」(『創立20年史』日本身体障害者スポーツ協会)

 寺田は中村の意を受けて、7月に当時首相だった池田勇人に面会する。これからロンドンのストーク・マンデビル大会に出場する車いすの選手を2人連れていた。

 「閣議を終えて駆けつけた故池田勇人首相は(車いすに乗った選手を)チラリとみて驚きの眼を見張った。『これはどうしたことなんか…』と不審の面もちである。私の懸命な説明に大きくうなずいた池田さんは『身体障害者のオリンピックを催すという話は初耳だ、まったくすばらしい、国際親善と、身障者諸君の社会復帰に役立つという企画には政府も協力を惜しまない。1億たらずの金で開けるというのなら、君たちの手で民間の資金が集まらないときには、いつでも言ってこいよ、なあに全額国費で賄ってもよいよ』(中略)この首相のひと言にその瞬間、『しめたっ、これで東京パラは完全にスタートできるぞー』との確信と期待に胸の高鳴りを覚えたのであった」(同上)

■頼みは寄付、冷たかった経済界

 ロンドンから選手が帰国した8月には、政府も東京パラリンピックの開催支援を確約。翌63年に運営組織となる「国際身体障害者スポーツ大会運営委員会(以下、パラリンピック運営委員会)」が発足した。

 「日本人は事大主義者である。とくに中央からみて、地方の出来事はほとんど目に入らない。逆にアメリカ、ヨーロッパのこととなると大騒ぎする。私はストーク・マンデビル大会に参加しようと考えた。身障者スポーツは大騒ぎされなければならないのである」(『太陽の仲間たちよ』中村裕著)。実際に中村は、ロンドンで62年7月に開かれたストーク・マンデビル大会に2人の選手を大分県から派遣。パラリンピックに参加した初めての東洋人となった。

 中村は政官界にもパラリンピック開催を働きかけた。知己の無かった中村が頼ったのがマスコミだ。朝日新聞社で厚生文化事業団の事務局長をしていた寺田宗義は、こう回想する。

 「(62年の5月ごろ、中村が)突然私を訪ねていわく(中略)グットマン博士はかねて我が国に開催を呼びかけているが、厚生省(現厚労省)はじめ関係方面ではいっこうに腰をあげてくれない(中略)こんな始末ではとうてい開催が難しいと思うので(中略)各方面に呼びかけ実現してほしい(中略)東京五輪のあとに東京パラを開催できないとすれば、福祉国家ニッポンの看板は国際的にみて偽りになるであろうと強い口調で訴えたのである」(『創立20年史』日本身体障害者スポーツ協会)

 寺田は中村の意を受けて、7月に当時首相だった池田勇人に面会する。これからロンドンのストーク・マンデビル大会に出場する車いすの選手を2人連れていた。

 「閣議を終えて駆けつけた故池田勇人首相は(車いすに乗った選手を)チラリとみて驚きの眼を見張った。『これはどうしたことなんか…』と不審の面もちである。私の懸命な説明に大きくうなずいた池田さんは『身体障害者のオリンピックを催すという話は初耳だ、まったくすばらしい、国際親善と、身障者諸君の社会復帰に役立つという企画には政府も協力を惜しまない。1億たらずの金で開けるというのなら、君たちの手で民間の資金が集まらないときには、いつでも言ってこいよ、なあに全額国費で賄ってもよいよ』(中略)この首相のひと言にその瞬間、『しめたっ、これで東京パラは完全にスタートできるぞー』との確信と期待に胸の高鳴りを覚えたのであった」(同上)

■頼みは寄付、冷たかった経済界

 ロンドンから選手が帰国した8月には、政府も東京パラリンピックの開催支援を確約。翌63年に運営組織となる「国際身体障害者スポーツ大会運営委員会(以下、パラリンピック運営委員会)」が発足した。

日本選手の結団式はバスを使って開かれた。水上勉らが編んだ『中村裕伝』には「(五輪の熱気に比べて)余りにも寂しい景色」とある(写真は日本障がい者スポーツ協会提供)

(敬称略、次回に続く)(オリパラ編集長 高橋圭介)

 


障害者雇用率、佐賀県が7年連続全国トップ

2018年01月10日 11時58分26秒 | 障害者の自立

 佐賀県内の民間企業で働く障害者の人数が5年連続で過去最高となったことが佐賀労働局のまとめでわかった。法定雇用率(50人以上の民間企業で2%以上)を達成した企業の割合は前年に比べ0・5ポイント下がったものの、72・6%と7年連続で全国トップとなった。

 昨年6月1日時点で労働者50人以上の544社と地方公共団体地方独立行政法人を対象に調査した。

 民間企業での雇用者数は2348人(重度の障害者を2人、短時間雇用を0・5人などとして集計)となった。障害別に見ると、身体障害者が1466人(前年比4・6%増)、知的障害者が698人(同5・6%増)、精神障害者が184人(同12・5%増)といずれも増加。今年4月から雇用が義務化される精神障害者の伸びが大きかった。

 労働者全体に占める障害者の割合を示す実雇用率は過去最高の2・54%で、前年に比べて0・11ポイント上昇して全国3位だった。労働者が少ない企業が高い傾向にあった。

 県の機関で雇用されているのは前年比5・5人減の82人。市町では前年と同じ222・5人が働く。法定雇用率(2・3%)を達成していないのは鳥栖市嬉野市上峰町、玄海町(いずれも昨年12月現在)だった。

 法定雇用率は4月から民間企業で2・2%以上、地方公共団体では2・5%以上に引き上げられる。また、対象となる企業も従業員50人以上から45・5人以上になる。

 佐賀労働局職業対策課の担当者は「企業の理解が進んでいる」。来春の制度改正に向け、精神障害者雇用に関する企業向けの講習会や出前講座なども開いており、「障害に対する理解を職場の同僚に深めてもらいたい」と呼びかけている。

 <アピタル:ニュース・フォーカス・その他>


寝たきり社長 障害者が働きやすい社会へ 挑戦続く

2018年01月10日 11時38分03秒 | 障害者の自立

 移動式ベッドに横たわったまま目の動きでパソコンを操作。動かせるのは親指の先だけ--。「寝たきり社長」と称し、インターネットなどで売り上げや知名度を上げてきた名刺製作会社「仙拓」(愛知県東海市)の佐藤仙務社長(26)。「障害者が働きやすい社会へ、情報格差をなくすことも自分の仕事」と、ビジネス以外にも活動範囲を広げる。

  乳幼児期から小児期に10万人に1~2人が発症するとされ、徐々に筋力が低下する脊髄(せきずい)性筋萎縮症という難病を患い、常にヘルパーが付き添う。

 起業は19歳だった2011年4月。愛知県の特別支援学校を卒業後、就職活動もしたが働きたい会社が見つからず、同じ病気を持つ幼なじみの松元拓也さん(28)と2人で同社を設立した。

 指先だけで操作できるよう改良したマウスを駆使してメールなどで手当たり次第に営業メッセージを送信するうち、地元メディアに取り上げられ、寝たきり社長として注目されるように。材質やデザインにこだわった名刺は年間約1000件を受注、会社は重度障害者3人を含む5人の社員を雇うほどに成長した。

 17年からパソコンの視線入力システムを使い始めると「作業スピードが10倍になった」と効果を実感。椙山女学園大(名古屋市)の障害者支援サークルの学生らと特別支援学校や病院に出向き、障害のある子どもたちに視線入力などの情報通信技術(ICT)の有用性を伝える活動を始めた。

 「障害があると仕事以前にいろいろなことを諦めてしまう。体の不自由を補える手段があることを子どもたちに知ってほしい」と佐藤さん。寝たきり社長の挑戦は続く。(共同)


被災障害者のSOSファイル 大学院生が普及活動

2018年01月10日 11時23分30秒 | 障害者の自立

 非常時に備え、わが子の障害の特性などを書き込んでおく「SOSファイル」を広げようと、ADI災害研究所(大阪市)理事で、兵庫県立大学大学院(神戸市中央区)で学ぶ湯井(ぬくい)恵美子さん(51)=大阪府吹田市=が普及に力を入れている。混乱の中でも適切な支援が得られるよう、「パニックへの対応法」「トイレや食事、コミュニケーションで必要な手助け」など、多岐にわたる情報を記入。用紙はインターネットで公開し、「もし家族がいなくなっても子どもが生き延びられるよう、一歩を踏み出して」と呼び掛ける。

 湯井さんの次男、亮さん(22)は知的障害があり、2011年に吹田支援学校高等部(吹田市)に入学。翌年、学校関係の研修に参加した湯井さんは、福岡県西方沖地震(05年)を受けて福岡市の支援学校の保護者会連合会が作った「SOSファイル」を知った。

 「今、災害があって帰れなくなったら、お子さんは大丈夫ですか」という講師の問いに心が動き、翌日、関係者に連絡。地元の防災・福祉関係者らと連携し、13年春に拡充版を完成させた。作業を通じ「障害者を取り巻く環境の厳しさと、備えの大切さを痛感した」と振り返る。

 用紙はA4判、全59ページ。パニックになった場合の対応法▽日常生活で必要な支援▽薬の種類▽避難時の持ち物▽食べてはいけない物-などを記入する。避難所生活を想定し、最低限伝えたいことを記す「ケアポイント表」もある。

 また、普段に持ち歩ける名刺大の「たすけてカード」も作成。連絡先、障害の特性、意思疎通の方法などを記すようになっている。

 ファイルは近所の人や保護者の実家に渡したり、自家用車のトランクに保管したりしておくことを勧めている。湯井さんも友人に託しているほか、離れて暮らす家族とウェブ上で共有しているという。

 子どもの能力を客観的に見つめ、暮らし全般について書き込むため、負担は少なくない。「個人情報だから」とためらう声もあるという。だが湯井さんは「障害についてきちんと伝えることで、親がいなくなっても周りに助けてもらって生きていける、と思えるようになりました」と語る。

 用紙は「吹田支援学校」の公式サイトからダウンロードできる。

表紙に「SOS」と大きく記されたファイルを手にする湯井恵美子さん。「ぜひ、お父さんも書いてほしい」と呼び掛ける=神戸市中央区脇浜海岸通1

表紙に「SOS」と大きく記されたファイルを手にする湯井恵美子さん。「ぜひ、お父さんも書いてほしい」と呼び掛ける

時計2018/1/9   神戸新聞NEXT


聴覚障害者が経験語る 27日、佐賀市で 「聲の形」上映も

2018年01月10日 11時19分10秒 | 障害者の自立

 佐賀市東与賀町の東与賀文化ホールふれあい館で27日午後1時半から佐賀市人権ふれあい映画上映会が開かれる。入場無料。

 佐賀市と市社会人権・同和教育推進協議会が、人権について考え、意識を深めてもらおうと企画した。イベントでは県聴覚障害者協会の中村稔理事長が講演し、自身の経験などを手話通訳者を通じて話す。聴覚障害の少女とクラスメートの少年の関わりを描いた漫画を原作とするアニメ映画「聲(こえ)の形」の上映もある。

 定員は500人。電話やファクス、メールで申し込む。希望者は別室で保育士らによる託児(未就学児のみ)も受け付けており、事前申し込みが必要。申し込み、問い合わせは市人権・同和政策課=0952(40)7367。

=2018/01/08付 西日本新聞朝刊=