視覚失う逆境はねのけたパラリンピアン広瀬順子さん 支えたのは「旦那さん」の悠さん
表彰台に立ったとき、目の前にどんな光景が広がっていたのだろう。かねてから憧れていた夢の舞台。メダルの重さを感じながら、日の丸があがっていくときの歓声をどう聞いたのだろう。視覚を失い、一度はあきらめた柔道。その6年後、彼女は逆境をはねのけ、世界のパラリンピアンになった。パラリンピック柔道女子で日本初のメダルをリオデジャネイロ大会でもたらした広瀬順子(25)のそばには夫、悠(はるか、37)がいた。同じ視覚障害者柔道の同志であり、コーチであり、最愛の伴侶。「旦那さんがいるから柔道がより楽しくなった」。試合後、そう言った妻を夫が抱きしめた。
1990年、山口県山口市生まれ。順子は小5の時に柔道を始めた。少女漫画「あわせて一本!」に憧れて道着を着た。「集中力の高い努力型の選手」とコーチ。めきめきと上達の階段をあがり、高校のときにはインターハイに出場するような実力を身につけた。
しかし、大学に進学後、転機が訪れた。突然、両目の視力をほとんど失う難病にかかった。まだ19歳。おしゃれもしたいし、恋もしたい。病気にかかった不運を恨み、言いしれぬ不安にさいなまされたこともあったに違いない。薬の投与のため、大好きな柔道からも遠ざかってしまった。
それから3年後、転機は不意に訪れた。運営のお手伝いでゴールボールの試合に行っていたときのことだ。ゴールボールはパラリンピックの正式種目。女子日本代表は2012年のロンドン大会で金メダルを獲得し、人気が広がっていた。
順子はコートの選手たちが懸命にプレーしているのを感じた。「きらきらと輝いていた」。心の中で眠っていた情熱に再び火がついた。「自分ももう一度、何かに打ち込みたい」。
心に強く浮かんだのは畳の匂い。そして、練習の汗がしみこんだ白い道着。再び「柔らの道」で自分自身を高めることを決意した。
インターハイにまで進んだ実力者である順子の存在を、日本視覚障害者柔道連盟が放っておかなかった。情報を聞きつけ、順子をスカウトした。
同じ視覚障害のためのスポーツであるゴールボールという競技が存在していなければ。そして、あの日、順子が運営のお手伝いに行っていなかったのなら… パラ柔道日本初の快挙はリオでは生まれていなかったかもしれない。
順子にはパラリンピック出場という人生の大きな目標ができた。午前中は仕事をして、午後2時には畳に向かう。健常者と一緒に猛練習に励んだ。得意技の一本背負いの技に磨きをかけた。
今度は世界の階段を上がっていった。14年の世界選手権で5位。アジアパラリンピックで銀メダル。しかし、世界の壁も感じた。
「今まで通りの柔道をしようと思ったら世界に通用しない。スピード感や相手を崩すときの工夫が必要だ」
壁を打ち破るために自分自身と戦っていたとき、運命の神様がまたもや現れた。遠征先で同じ大会に出場した悠と出会ったのだ。「悠さんはいつも明るい。一緒にいて楽しい」。心がひかれていくのを感じた。
悠は順子に寄り添った。自身もインターハイに出場したが、緑内障が発症してドクターストップ。後天性の視覚障害がもたらす苦難を知っていた。悠もしばらく畳を離れた後、柔道を再開、2008年には北京大会代表に選ばれていた。
悠は順子にとっては力強い存在だった。意気投合した2人は交際を始めた。当初、順子は東京、悠は愛媛に住んでいた。それでも、長距離恋愛をしっかりと育んだ。
順子の母は「小さい時は物静かな子だった」と振り返る。しかし、いつも明るい悠とつきあって、順子の性格も変わった。明るくなった。「信頼するパートナーで、大好きなんでしょう」と母は言った。
プロポーズは順子からだった。電話で「結婚して!」と言った。日常生活が楽しいほうが競技にも集中できる-。2人は昨年12月に結婚した。
新婚生活は悠の故郷、愛媛県松山市でスタートさせた。互いにリオの地を目指した。順子の弱点は寝技。「寝技の鬼」の異名を取る悠が技を懇切丁寧に教えた。
悠は順子のパワー不足にも気づいていた。一緒にジムに通い、地道な筋トレに励んだ。悠が「2人だからきつくても乗り越えられる」と言えば、順子は「旦那さんが練習の励みになって強くなれた」と言った。
おかげで、昨年の秋には1回しかできなかった懸垂が20回もできるようになった。ベンチプレスは50キロあげるのがやっとだったのが、80キロまで伸びた。体脂肪率は20%から16%に下がった。身体が引き締まり、世界で負けない筋力がついた。
愛の絆はピュアでいて強い。今年5月の代表選考会で、一緒にリオ切符を獲得した。夫妻の同時出場は日本パラリンピック史上初の快挙だった。
そして、運命の9月9日。リオ大会女子57キロ級。順子は普通の世界大会と同じような気持ちで試合に臨もうとしたが、パラリンピックの舞台の雰囲気は予想を超えるものだった。
1回戦は勝利したものの、準決勝の相手はブラジル人選手。会場を包み込む地元の応援団の大声援にのまれてしまった。「頭が真っ白になった」という。手痛い黒星をくらった。
観客席で見ていた悠がいつもの順子の姿と違うことにすぐに気づいた。午後からの3位決定戦の直前、順子の元にかけよった。「自分を見失い、組み手がおろそかになっている」。妻に的確にアドバイスした。
順子は緊張がほぐれていくのを感じた。自身には組んでから急に技に入る悪い癖があった。「崩して技をかける」。自分にそう言い聞かせた。
「足からいけ。足から」。3位決定戦の時も、メガホンを持って叫ぶ悠の声が耳に届いていた。対戦相手は過去2戦2敗のスペイン人選手。しかし、相手と組んだとき、かつてとは違う自分がいた。
力負けしていない、いける!
序盤、大外刈りで有効をとった。「よっしゃー」。悠がほえた。視覚障害者柔道は互いに組んでから始まる。「ハイッ」。順子は組み合う度に気合を入れて、攻め続けた。
そして、2分20秒すぎ。得意の一本背負いで相手を倒した。技あり!。相手は起き上がれない。「死んでも離さない」。そのまま寝技に入った。技の極意は夫が教えてくれた。それを思い出すだけだった。
15秒後、審判が「イッポン」を告げた。会場がどっと沸いた。悠は立ち上がって、妻にわかるように「やったぞー」と大声で叫んだ。
猛練習は嘘をつかなかった。試合後のミックスゾーン、順子は絞り出すように言った。
「もう一度、柔道を始めてよかった。続けていなかったら、私はすごく弱い人間になっていた」。
観客席から降りてきた悠が駆け寄り、2人は抱き合った。「明日は頑張って」。結局、負けてしまったのだが、報道陣の前で、翌日に試合を控えた悠にしっかりと注文した。周りでどっと笑いが起き、悠は「なんか有名人になったなあ」と照れ笑いした。
快挙を成し遂げた2人は今や、日本だけでなく、世界の視覚障害者に希望をもたらす夫婦になった。順子が言った。
「メダルは絶対に獲りたかった。女子の視覚障害者柔道の未来につながるから」
4年後の東京大会にどう臨みますか-。記者が聞いた。順子の言葉はさらに力強かった。
「今度は、出る前から金メダルを目指します、と堂々と言えるくらい練習して挑みたいと思っています。今回、負けた相手に次は絶対に負けたくない。旦那さんとしっかり修行し直します」
約束の地、リオで結実した2人の愛の物語。2020年に向け、第2幕が始まる。トーキョーが、ミスター・ハルカとミセス・ジュンコを待っている。
産経ニュース