車いす陸上のアスリートが、一つの思いを実現させた。堺市出身でパラリンピックに2大会連続で出場している松永仁志(43)。その松永が選手兼監督を務める車いす陸上の実業団チームが3月、岡山市に誕生した。障害者スポーツの実業団チームは全国的にもあまり例がない。チーム誕生に動いた松永にその思いを聞いた。
今夏のリオデジャネイロ・パラリンピック代表権を獲得するための欧州遠征を直前に控えた5月中旬、松永はインタビューに応じてくれた。最初に目を引いたのが、太く、筋肉が浮かび上がった両腕。車いす陸上の選手に特徴的な腕だ。腕の太さを聞くと、こう返ってきた。
「腕は体の一部でしかない。体の使い方がうまい人が速いんです」。車いす陸上は全身を使った競技。そういう思いが伝わってきた。
チームは松永が勤める岡山市の人材派遣関連会社「グロップサンセリテ」にできた。名は「WORLD―AC」(ワールドアスリートクラブ)。松永が中学2年から住み続け、競技の拠点としている岡山から世界へ、という思いを込めた。メンバーは松永、リオに内定している佐藤友祈(ともき)(26)ら、計3人。日本障がい者スポーツ協会によると、車いす陸上の実業団チームは全国で2例目ではないかという。
2020年の東京パラリンピックが決まり、企業側にパラ選手への理解は進んでいる。日本オリンピック委員会が選手の就職支援をする「アスナビ」ではパラ選手約15人が企業に採用された。ほかにも、仕事より競技を優先する形で就職できる選手が増えているという。追い風は吹いている。
松永は、そんな風は歓迎しつつも、危惧も覚えている。「この流れがいつまで続くのかなって。仕事より競技優先でいいのかなとも思う。まずは仕事。選手が終わってからの人生の方が長いじゃないですか」
チーム創設にあたり、こだわったのは仕事と競技の両立だ。「WORLD―AC」の場合、アスリート契約をしている松永以外の20代の選手2人は、夕方まではほかの社員とともに働き、その後に練習する。会社は競技活動を業務とみなし、用具の購入などをサポートしてくれる。日本の昔ながらの実業団に近いスタイルだ。
松永の考え方は、彼の人生に起因する。16歳の時、交通事故で車いすの生活になった。21歳で就職。競技への思いを駆り立てられたのが、00年シドニー・パラリンピックの映像だった。「それまで、しょせん障害者のスポーツと思っていたが、スポーツとしてのポテンシャルの高さを実感した」
04年アテネの代表を逃した。もっと競技を極めたい。プロになろうと、約10年勤めた会社を辞めた。スポンサー探しのため、約100社に連絡した。小口のスポンサーをいくつか見つけたが、会ってくれない企業も多かった。食いつなぐために、貯金も取り崩し、非常勤の仕事もした。パラ選手を取り巻く厳しさはよく分かっている。だから、働く場も必要だと思っている。
グロップサンセリテに就職したのは14年。障害者雇用を推進する同社に松永自身が働きかけ、チームの誕生につなげた。「障害者が働き、競技もできる。その道筋をつけたかった」
もっと選手を増やしたいと思っている。チームの目標を聞くと、4年後の東京パラではなく、こう答えた。
「岡山の障害のある人が憧れるチームにしていきたい」
そのスタート地点に立ったばかりだ。
まつなが・ひとし 1972年生まれ。高校2年の時、バイク事故で脊椎(せきつい)を損傷し、車いす生活になる。2008年北京、12年ロンドン・パラリンピックで、800メートルなど複数種目に出場した。障害クラスは「正常な上肢機能を持ち、腹筋または下部の背筋は機能しない」T53。松永自身は腹筋、背筋とも機能しない。
車いす陸上で3大会連続のパラリンピック出場を目指す松永仁志=グロップサンセリテ提供
2016年5月25日 朝日新聞