「自分の探し」の40年 脳性まひの沖田さんが自伝エッセー 鴻巣
愛用のパソコンを使って原稿を執筆する沖田さん。左ひじでタッチパネルセンサー(手前)に触れて文字を入力=鴻巣市栄町の自宅
自身も脳性まひでありながら、体が不自由な人たちの在宅生活支援に取り組む鴻巣市の沖田博さん(54)が、地域で自立するまでの歩みや日々の思いをつづった自伝エッセー「すろーうぉーく」を自費出版した。養護学校時代から「自分らしく生きること」を模索し続けてきた四十年間の活動の記録。「多くの人が障害者に目を向ける社会になってほしい」との願いが込められている。
「障害者に目を向ける社会に」
JR鴻巣駅の橋上化計画が持ち上がった一九七七年。「誰もが利用できる施設を」と街頭で訴える車いすの障害者グループの中に、沖田さんの姿があった。
近代化とともに忘れ去られていく障害者の存在。今では当たり前となったエレベーターや階段の昇降リフト設置も、当事者が声を上げなければ届かない。国鉄側(当時)との四年にわたる交渉は、バリアフリー運動の先駆けだった。
この活動をきっかけに、地域の中で生きていく道を選んだ沖田さん。三十五歳の時、初めての自立生活を始めた。
全身性障害のため、生活には二十四時間介護が必要だ。沖田さんの家には介助者、通称「サポーター」たちが入れ代わり立ち代わりやってくる。
介助を通して多くの人と接するようになって「人生が豊かに、面白くなった」と沖田さんは話す。
エッセーには、日常の暮らしぶりや支援仲間との交流を中心に、今の生活を勝ち取るまでの奮闘や、障害者自立支援法の問題点などがユーモアと実体験に裏打ちされた視点で書かれている。
二〇〇三年、介助者派遣を指定事業所のみに限定する「支援費制度」移行を機に、地域に自立する障害者を支援するNPO「あん」を設立した。
「重度障害者の日常生活が保障される社会は、子どもやお年寄り、すべての人が安心して暮らせる、優しい社会だから」と沖田さんは語る。
著書の問い合わせは、沖田博サポーターズクラブ(?048・543・0131)へ。
愛用のパソコンを使って原稿を執筆する沖田さん。左ひじでタッチパネルセンサー(手前)に触れて文字を入力=鴻巣市栄町の自宅
自身も脳性まひでありながら、体が不自由な人たちの在宅生活支援に取り組む鴻巣市の沖田博さん(54)が、地域で自立するまでの歩みや日々の思いをつづった自伝エッセー「すろーうぉーく」を自費出版した。養護学校時代から「自分らしく生きること」を模索し続けてきた四十年間の活動の記録。「多くの人が障害者に目を向ける社会になってほしい」との願いが込められている。
「障害者に目を向ける社会に」
JR鴻巣駅の橋上化計画が持ち上がった一九七七年。「誰もが利用できる施設を」と街頭で訴える車いすの障害者グループの中に、沖田さんの姿があった。
近代化とともに忘れ去られていく障害者の存在。今では当たり前となったエレベーターや階段の昇降リフト設置も、当事者が声を上げなければ届かない。国鉄側(当時)との四年にわたる交渉は、バリアフリー運動の先駆けだった。
この活動をきっかけに、地域の中で生きていく道を選んだ沖田さん。三十五歳の時、初めての自立生活を始めた。
全身性障害のため、生活には二十四時間介護が必要だ。沖田さんの家には介助者、通称「サポーター」たちが入れ代わり立ち代わりやってくる。
介助を通して多くの人と接するようになって「人生が豊かに、面白くなった」と沖田さんは話す。
エッセーには、日常の暮らしぶりや支援仲間との交流を中心に、今の生活を勝ち取るまでの奮闘や、障害者自立支援法の問題点などがユーモアと実体験に裏打ちされた視点で書かれている。
二〇〇三年、介助者派遣を指定事業所のみに限定する「支援費制度」移行を機に、地域に自立する障害者を支援するNPO「あん」を設立した。
「重度障害者の日常生活が保障される社会は、子どもやお年寄り、すべての人が安心して暮らせる、優しい社会だから」と沖田さんは語る。
著書の問い合わせは、沖田博サポーターズクラブ(?048・543・0131)へ。