古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

欽明天皇の系図

2005年04月14日 23時07分35秒 | Weblog
 欽明天皇の系図で(あくまで私流の解釈です)、一番怪しいのが石姫皇女という方と結婚されていることです。
仁徳天皇・大后磐之姫は書紀の表現で、古事記では石之日売と書かれています。
 石姫皇女は磐之姫、石之日売と同一表現といっていいはずです。しかし、卑弥呼の子孫がこういう名前の方と結婚するはずはありません。もちろん、卑弥呼トヨを殺した張本人だからです。仮に、そういう方がいて結婚しなければならない状況となって、結婚するとしても名前を変えさせるはずです。これほど卑弥呼の子孫にとって縁起の悪い名前はないはずだからです。
 そして、欽明天皇と石姫皇女との間に敏達天皇が誕生しています。敏達天皇と広姫の間に押坂彦人大兄皇子が産まれ、この方は天皇にはなっていませんが、この方の御子が舒明天皇です。舒明天皇は天智、天武天皇の父となっています。ということは、石姫皇女の系列が(押坂彦人大兄皇子だけを除いて、用明・崇峻・推古の後の)天皇として続いているわけです。
 これは、石姫皇女が、源氏物語の明石の君、弘徽殿の大后の立場と同じであることを示しています。源氏物語でも、明石の君、弘徽殿の大后の系列が継続されています。
もう少し細かく見ると、欽明天皇(29代)と石姫皇女との間の敏達天皇は30代天皇ですから、欽明天皇の跡をすぐ継いだことになります。
 源氏物語でも桐壺帝と弘徽殿の大后の間の朱雀帝はすぐ跡を継いでいます。ところが朱雀帝の次は冷泉帝で桐壺帝と藤壺の宮との御子で(実は光源氏との間の御子)、ご丁寧にも藤壺の宮と若紫(紫の上)はうりふたつなのです。その後の天皇家は弘徽殿の大后の側と明石の君の側の合体として続きます。一時的に天皇家は弘徽殿の大后の側を離れただけです。
同じように石姫皇女は天皇家と離れています。石姫皇女の御子の30代敏達天皇の後は31代・用明、33代・推古天皇は蘇我堅塩姫と欽明天皇との、また32代・崇峻天皇は蘇我小姉君と欽明天皇との御子です。すなわち、蘇我氏の系列は天皇家としては三代続きますが、源氏物語と同様に途切れます。蘇我氏としては三代ですが、石姫皇女からすると押坂彦人大兄皇子一代のようです。
 そして源氏物語と同様に、一時的に天皇家から離れた石姫皇女の系列が永遠の復活を果たします。
 構造的には、天皇家とフィクションとされる源氏物語の系図は同じものになります。
そして源氏物語では紫の上(卑弥呼トヨ)は御子すら誕生していないですから、天皇家を継ぐ以前の問題です。

 29代欽明天皇の后・石姫皇女の存在は、卑弥呼トヨを殺したイワノヒメを怨霊として恐れたための偽装・フィクションとしか考えられません。
そして蘇我本家は途切れています。
しかし実際は卑弥呼の子孫が天皇家を継いでいるはずですから、蘇我氏の系列は続いていた事になります。
 ここも、「魏志倭人伝」同様、逆になっていることになります。
蘇我入鹿は殺されてはいなかったはずになります。

 あくまでも、私流の考え方・想像の世界ですから悪しからず。
なお、系図はインターネットで調べると、すぐ見つかります。
 
 それから、「8月15日」が終戦の日だというのは偶然なんでしょうか?
 ちょっと気になったので書きました。

 

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2 コメント

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Unknown (中路正樹)
2012-04-12 09:35:32
欽明天皇は石姫。小姉君、堅塩媛の3人と恋をしたのですね。
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Unknown (永岡)
2012-04-14 12:51:32
欽明天皇には何人もの方が投影されていますから、そう単純ではないのではないでしょうか。
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