いわゆる《藤原京》といわれている都がいつできたのか,現在の関心事です。
今までも考えてきましたが、藤原京は過小評価されている、と思えます。
藤原京を過小評価するのは、特に高市天皇の時代を消すため,天武系の時代をできるかぎり消したかったからではないか、と想像しているわけです。
白村江の敗戦後、ほうほうの体で、《卑弥呼・臺与(とよ)の子孫であろう》大海人皇子、百済王・豊璋は日本に戻ってきたはずです。 . . . 本文を読む
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