きまぐれストロール

植物、風景などを主として

農村景観日本一の地&おばぁちゃんの市付近

2011年11月30日 07時35分56秒 | Weblog

11月23日曇り、岐阜県恵那市岩村町富田地区にある「農村景観日本一の地」へ、友人とともに出掛けました。

展望所からの眺めは、登り口の案内板に記載されているように、まず唱歌を口ずさんで見たくなるような眺望でし

た。そのあと、古の想いに馳せたり、四季の移り代わりにイメージを膨らませるなど様々な思いが浮かんできました。

この風景の中、しばらくは歩いてみたいとの思いが湧いてきましたが、 再度、時期をずらして訪れたいと友人と

会話しながら、 次に予定していた道の駅「おばあちゃん市・山岡」へ、とマイカーを走らせました。 

登り口にある展望所の案内板

 

展望所の登り口                                               展望所にある歌詞

展望所から左方向の景観1

展望所からの中ほどの景観2

 

道の駅・「おばあちゃん市・山岡」のシンボル的な    小里川ダム上から、上流方向の「おばあちゃん市・山

木造水車・日本一                          岡」

道の駅「おばあちゃん市・山岡」周辺の紅葉

 

小里川ダム上から下流の景観                小里川ダム・最下方から放流の眺め

小里川ダム・最下方から、放流の眺め


赤坂宿~御油宿

2011年11月25日 08時05分34秒 | Weblog

11月12日晴天、「歴史街道を歩く会」の例会で東海道を歩き始めて、はや6ヶ月となりました。 今年度の計画

では、月一回のペースで「二川宿から白須賀宿」までとなっています。 1体、この会はどこまで歩くのだろうか。 

今回は「赤坂宿から御油宿」まで歩きましたが、その史跡は、街道沿いだけでも数知れず、その歴史の深さは計

り知れない。  歩いて史跡を1つ1つを見ることにより、勉強させて戴いています。 

 

三尊種子板碑:供養塔の一種で、西安2年(1300)  長坂城跡:寛永11年(1634)家光上洛のときに休憩

の建立は県下最古の在銘板碑といわれています。   所として建てられた御殿が永沢小学校敷地内にあっ

                                    た。

 

長沢の一里塚跡                         一里山庚申道の道標

 

八王子神社:祭神は天照大神、素戔鳴命の御子    栄善寺:文永9年(1272)円空立信上人の創立。

五社三神を祀って八王子権現と称した。          本堂へ続く長い石段は平安様式で、本堂も二層式の

                                    珍しい建物。    

 

秋葉山常夜燈                           赤坂十王堂跡

 

西見附跡                              杉森八幡社の楠:起源は古く、8世紀ともいわれ

                                    境内の2本のクスノキは推定千年を超える古木で

                                    夫婦楠と呼ばれています。 

 

赤坂の舞台:明治時代に建てられた農村舞台が復元  赤坂陣屋跡:代官所として、年貢の徴収や訴訟など

され、年1回、歌舞伎の公演がおこなわれます。「小屋  を取り扱ったところです。

がけ」と呼ばれる竹ドームの屋根がついた伝統の観客

席が設けられる。(杉森八幡社境内)

 

赤坂宿休憩所:江戸時代の建物をイメージした無料  音羽生涯学習会館:2階の資料室では赤坂の歴史を

休憩所です。                           はじめ、豊川市音羽地区の歴史や文化を展示。                                                          

 

大橋屋・旅籠:江戸時代から続く旅籠で芭蕉が宿泊し  大橋屋の二階の壁面に描かれている。

句を詠んだといわれます。

 

尾崎屋:民芸品製造卸問屋の看板が掲げられている。 赤坂宿公園:江戸時代の灯篭や籠のモニュメントが

                                     ある。

 

赤坂公園内:籠のモニュメント                 赤坂公園内・高札場

 

赤坂本陣跡                            街道沿いにこんな古めかしい看板がみられた。

 

古い町並みが残っている。                   関川神社:長保3年(1001)の創建。境内には推定

                                    樹齢800年のクスノキの巨木がそびえています。

  

東見附跡                              御油の松並木:御油宿から赤坂までの約600mにわ

                                    たって、約300本の松の大木が並んでいます。

                                    東海道で現存する松並木の中でも代表的なものです。 

 

御油の松並木:天然記念物の標柱             御油の十王堂

 

石碑群                               御油の家並み

 

東林寺:室町時代の創建で、本尊の阿弥陀如来など  御油本陣跡:天保8年、当時2軒の本陣があり、この

多くの文化財があります。また、宿場のかげで働いた  場所は鈴木半左衛門本陣跡です。

飯盛女たちの墓がある。

 

松並木資料館:御油宿に関する資料を展示。       松の樹齢:この松の根は樹齢380年のものです。

                                     慶長9年(1604)東海道に松を植えた最初のものと

                                    推定されます。松並木資料館横に展示されています。

 

御油の問屋場跡                         御油の高札場跡:現在は広場の一隅にあります。

 

御油の追分:東海道と姫街道の分岐点で「ほうらいじ   御油の一里塚跡:江戸日本橋より76里。

道」「砥鹿神社道」「秋葉山三尺坊大権現道」の刻まれ

た道標があります。 

  

大社神社 :祭神は大国主命。 この神社の夏祭りは     国府の薬師堂:薬師瑠璃光如来像が祀られている。

各町内からの山車と歌舞伎行列が東海道を大社神社 瑠璃殿の扁額は文政4年(1828)八幡山巌禅翁の

まで練り歩きます。(国府)                   書。                         

 

秋葉山常夜燈                                            半僧坊大権現:浜松市引佐にある奥山半僧坊(方広寺) 

                                                             に因んで建てられたものだろう。  

 


豊田・小原の四季桜&土岐・曾木公園の逆さモミジ

2011年11月21日 07時44分05秒 | Weblog

11月17日晴天、この時期、豊田・小原の「川見四季桜の里」のように山全体が見事な「四季桜」「紅葉したモミジ」

が同時に見られるのは、全国でもここだけだそうです。 ただし桜の種類は違いますが、群馬県藤岡市鬼石にある桜山

公園では「冬桜」が7,000本植樹されているとのこと。 また小原の四季桜は例年に比べ10日ほどはやく満開になっ

たとのこと。 【小原観光協会談】 

ここ数年来、この時期が待ち遠しく毎年訪れています。 観光バスも多く、遠くは横浜、長野ナンバーもみかけました。

年々訪れる観光客も増え、その受入れる駐車場も増設されていました。

岐阜・土岐、逆さモミジ 。  水鏡に燃ゆる秋、ライトアップ11月11日~20日ころが見ごろ。

                    点灯は午後5時半から9時まで。 

 

ふれあい公園                           ふれあい公園

 

川見四季桜の里                         川見四季桜の里

川見四季桜の里

川見四季桜の里

川見四季桜の里

 

川見四季桜の里周辺                     四季桜の花:花は小さく、マメサクラxエドヒガンの種間

                                   雑種と考えられています。

 

「逆さモミジ」で有名な曾木公園:夜間にはライト    曾木公園:赤く色づいた木々が池の水面に映し出さ

アップ。                               れる。

            

曾木公園                                     曾木公園

曾木公園:逆さモミジ

                  

           曾木公園:逆さモミジ


安土城・信長館&石山寺

2011年11月18日 07時09分21秒 | Weblog

11月11日雨、「ヒストリー各務野会」、恒例であります年1回のバス旅行で、過去数年は奈良の正倉院の

見学が通例でした。 今回は、会員全員のご賛同をえまして、「安土城と石山寺」の見学をすることに決定し

ました。 当日はあいにく雨模様でしたが、 幸いにも、小雨が降る程度でした。

やはり、直に名勝史跡を見て廻りますと、その有意義さを感じた1日でした。 

 

大手道入口:幅6m、全長130m。 直線の大手道。  豊臣秀吉邸址

両側には石組の水路がある。

 

前田利家邸址:大手道を挟んで秀吉邸のまえに位置  總見寺仮本堂(徳川家康邸跡):入口に「本日の特別

したところにありました。                     拝観終了しました。」の看板がありました。

 

石段は天守閣まで続く。                    石段:この石仏は築城の際に大手道の石材として使

傘を差し足元に注意しながら登る。             われたものです。

  

武井夕庵邸 :戦国時代の武将、茶人。           黒金門跡:積まれた石材が他の場所よりも大きな石が

                                    使われていた。                            

 

仏足石:この上に仏足の形状が刻まれている。      二の丸跡&本廟:左側が二の丸、奥まったところが廟

 

二の丸跡                              本廟:羽柴秀吉は天正11年(1583)に太刀、烏帽子

                                    等の遺品を埋葬して本廟とした。 

    

本丸跡:「信長公記」によればこの建物には天皇を招    天守閣への階段

き入れる「御幸の間」があったと記載されている。      

 

天守閣跡:礎石の跡が浮き出て見られた。        天守閣から琵琶湖方面の眺望、往時はすべて湖面で

この礎石の上に5層7階、高さ33mの木造高層     した。

建築が、当時、聳えていた。

   

織田家四代の墓 :左から二代目高長 、三代目長頼     三重の塔:室町時代の建物で、天正3~4年に信長

四代目信武、初代信雄。                    公が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)から移建したも

                                    のとされる。                         

 

三重の塔付近からの眺望                    二王門:棟木に「元亀2年(1571)7月甲賀武士山

                                     中俊好建立」とある。 信長公が天正年間に甲賀か

                                     ら移した。

 

 信長館                              館内の天守閣:1992年「スペイン・セビリア万国博覧

                                   会の日本館のメイン展示品として安土城天主の最上部

                                   5階6階部分が東大、東京芸大等の指導あって内部の

                                   障壁画と共に原寸大にて忠実に復元された。

 

 天守閣5階黄金の間:仏教の世界観による理想郷を  6階内部:信長の座所、座敷の内外はすべて金。

象徴しています。                          襖絵には中国の偉人が描かれていた。

石山寺界隈

 

石山寺東大門:建久元年(1190)源頼朝の寄進に   参道

より創建。慶長年間に大修理。

 

右から観音堂、毘沙門堂および御影堂と並び観音堂  本堂前

には西国33ヶ所の観音様が祀られています。

 

本堂(国宝):永長元年(1096)に再建されたのが   堂内「源氏の間」は紫式部が「源氏物語」を書いた所

現在の建物で、天平宝宇頃ものとほぼ同じ規模を持  と伝えられている。

つ滋賀県で最も古い建物です。

 

三十八所権現社本殿:石山寺の鎮守社として創建さ  経蔵:石山寺一切経・校倉聖教等を収蔵する建物で

れた。 現在の建物は慶長7年(1602)に建てられた  ある。

もので一間社流造、桧皮葺で極彩色に彩られた桃山

時代の神社本殿建築の遺構として貴重である。 

 

芭蕉句碑:「あけぼのはまだむらさきにほととぎす」の  多宝塔:源頼朝公による寄進と伝えられ、建久5年

句碑(右)が紫式部供養塔(左)と並んで建っていま   (1194)に建立。この度、平成23年4月1日から

す。                                 平成24年3月31日の事業期間で、屋根(桧皮葺)の

                                   全面葺き替えを行い、見学用通路を設け一般参拝者

                                   の方々に間近に見学することができます。

                                    

 

芭蕉庵&月見亭:中秋の名月には石山寺のライト    豊浄殿での「紫式部展」を開催中

アップがあります。

 

心経堂:花山法王が西国三十三所観音霊場を再興し 若宮:建立平成14年12月。祭神に天照皇大神を拝し

1000年記念事業として長年にわたって納められた  大友皇子(弘文天皇)を崇る。

心経を永久に保存するため建立されました。

 

鐘楼塔:源頼朝の寄進による。鎌倉後期の建物で    御影堂:室町時代に建立され、内部須弥壇上に弘法

ある。                                 大師、良弁、淳裕の三祖神を祀る。

 

大湯屋                               大黒堂:石山寺大黒天は万寿元年(950年前)3人の

                                    僧の同じ夢のお告げにより湖水より出現したとされて

                                    います。                                  

 

公風園:入口付近の風景                    拾翠園:入口付近の風景

 

 

 

 

 


中山道(板橋宿~日本橋)

2011年11月11日 06時18分09秒 | Weblog

10月26日、中山道「完歩の旅」、特別例会の最終日です。 いつものようにできる限り、見られるところは見

て置きたいとの精神で頑張りました。 振り返ると、会として中山道をはじめて歩いたのが、H18年4月23日

近郊の「馬篭~妻籠」からでした。 それから数えると実に5年と6ヶ月かかったことになります。 長かっただけ

に、その強い思いが、日本橋に辿りついた時には、その達成感から、おもわず全会員から「万歳三唱」の合唱

となって、行き交う人達のなかに響き渡りました。

 

猿田彦大神庚申塚:この庚申塚はお猿さんが祀られ  高岩寺:巣鴨にある曹洞宗の寺院。 山号は萬頂山

ているといわれるが、これは巣鴨近辺の有志が、明治 本尊は地蔵菩薩。一般にはとげぬき地蔵の名称で 

初期に、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大  知られている。

神を分祀したという。

 

真性寺の地蔵尊:江戸六地蔵のひとつ。巣鴨にある   染井吉野碑:江戸末期から明治初期に、江戸の染井

真言宗豊山派の寺院。山号は医王山、院号は東光   村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって

院。 本尊は薬師如来。                     育成され「吉野桜」として売りに出していた。

                                    藤野奇命(博物学者)の調査によりヤマサクラとは異

                                    なる桜であることがわかり、1900年「日本園芸雑誌」

                                    において染井吉野」と命名された。

 

徳川慶喜巣鴨屋敷跡:徳川幕府15代将軍【(天保8年 追分1里塚:ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との

(1837)~大正2年(1913)】がこの巣鴨の地に住ん 分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。

だのは明治30年11月~34年12月までの4年間で  またその角に宝暦年間創業の高崎屋(酒屋)が

した。 その後小日向第六天町に移った。その理由は  ある。

巣鴨邸のすぐそばを鉄道が通ることが決まりその騒音

を嫌ってのことされている。

 

東大校舎の通り                          赤門:加賀前田藩上屋敷跡地に東京大学を設立。

                                    赤門は将軍家斉の姫が前田家に嫁いだ時に建て

                                    られた門。

 

樋口一葉ゆかりの桜木の宿:東大赤門前反対側の奥  本郷の薬師如来:かつてこの地は真光寺の境内であ

まった所に、法真寺がある。法真寺に接して樋口家が  った。伝えによれば、寛文10年(1670)ここに薬師

あり、明治9年(1876)4月、明治14年までの5年間  堂が建立された。当時町内に奇病がはやり、病に倒

(一葉4歳~9歳)を過ごしたところである。一家にとっ  おれる者数知れず出たためこの薬師様に祈願して

てもっとも豊かで安定した時代であった。          病気が治まったといわれている。  

 

かねやす:「本郷もかねやすまでは江戸の内」と川柳  神田明神随神門:昭和50年昭和天皇ご即位50年

に歌われている。                         の記念事業として新たに再建。総檜・入母屋造。                          

                                    2階建て・屋根は銅版瓦棒葺。                                                          

 

神田神社境内;正面御社殿、昭和9年に竣功。当時と 江戸国学発祥地:荷田春満(1669~1736)により

しては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の   江戸において始められた学問である。春満は伏見稲

社殿。ちなみに現社殿の前は天明2年(1782)に   荷大社神職の出。その春満に最初に入門したのが

江戸幕府によって造営。木造で権現造・総朱漆塗。   神田明神神主家の柴崎好高であり、邸宅を講義の場

江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であった   として提供するなど国学の普及・発展につとめた。

といわれている。

 

湯島聖堂仰高門:一般見学者の入口になる門      孔子像:2500年ほど前、中国の魯の国(今の山東

                                    省曲阜市)昌平郷に生まれた人、その教え(儒教)は

                                    東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した

                                    徳川5代将軍は綱吉は1690年(元禄3年)この地に

                                    湯島聖堂を創建。

 

大成殿:孔子を祀る。                       ニコライ堂:大成殿からニコイ道が目前に見えた。

昭和10年大林組により、寛政時代の旧制を模し    日本で最大の正教会の大聖堂であり、全日本の府主

鉄筋コンクリート造りで再建。                 教が管轄する首座宗教座教会である。

 

神田川:東京都を流れる一級河川。荒川水系の支流  三越:現在の建物は、昭和10年(1935)に寛政。

フォークグループかぐや姫の楽曲神田川になっている ルネッサンス式建築の威容をほこり、当時は「国会

ことでも有名である。                      議事堂」「丸ビル」に次ぐ大建築物でした。

                             日本橋掲示板

 

日本橋魚河岸跡:日本橋から江戸橋にかけての日本  日本橋から江戸橋方面へ

橋川沿いには幕府や江戸市中で消費される鮮魚や

塩干魚を荷揚げする魚河岸がありました。ここで開か

れた魚市は江戸時代初期に佃島の漁師達が将軍や

諸大名が調達した御膳御肴の残りを売り出したことに

始まりました。

 

 日本国道路元標:日本橋が初めて架けられたのは   道路元標(東京市道路元標):中央の日本国道路元

徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝え    標の後方柱に東京市道路元標と記されている。

られています。幕府は東海道をはじめとする五街道の

起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と

交差する点として江戸経済の中心となっていました。                             

                 

         (11.10.26)                雷門:現在の門は慶応元年(1865)12月の田原町の

東京スカイツリー :墨田川公園から撮影したスカイ  大火で炎上した門に変わり、昭和35年(1960)、95  

ツリーです。                           年ぶりに松下幸之助氏のご寄進により復興再建され

                                   浅草寺の総門として威容を誇っている。

 

仲見世:土産物ならココ。 菓子類から雑貨及び衣料  浅草寺宝蔵門:現在の門は山門として内部3層のうち

まで売られていて、大変な賑わいです。          2層に防災設備を施した収蔵室を設け宝物収蔵の宝

                                    蔵門として大谷重工業の寄進により復興再建された。                                                                    

 

五重の塔:徳川3代将軍家光により本堂・仁王門等と  浅草寺本堂:昭和33年(1958)、全国ご信徒の浄

共に建立された5重の塔は太平洋戦争の戦火により  財により再建された現本堂は鉄筋コンクリート、本瓦  

焼失。戦後、信徒各位の浄財を得て、五重塔を再建。 葺きであり、昭和20年(1945)3月戦災で焼失した

                                    旧本堂と同形態である。本尊は聖観世音菩薩である

浅草神社:観音像を拾いあげた桧前浜成命、桧前竹成命、

奉安した土師真中知命、を祭神とする。 今もなお、

「三社さま」として親しまれている。

 徳川将軍家光より、寄進された社殿は350年経った

現在も当時の面影をそのまま残しています。

 

 


中山道(上尾宿~板橋宿)

2011年11月07日 06時53分02秒 | Weblog

中山道(熊谷宿~日本橋)までの「完歩の旅」、2日目は「上尾宿~板橋宿」までを駆け足で

散策いたしました。 できる限り史跡を見ておきたいというあまり、終始、重要なポイントを見過ごしては

いないかと心配しながらの旅でした。  とにもかくも歩いたところを順次掲載させて戴きました。

 

 

遍照院:日乗山秀善寺遍照院、真言宗智山派の古刹  孝女お玉の墓:お玉は美しく気立てよく宿場でも評判

室町時代の創建で本尊は不動明王。孝女お玉の墓   の遊女でした。19歳の時、参勤交代のお役目で上

がある。                               尾宿を訪れた前田家の小姓に見染められ、めでたく

                                     江戸行きとなった。ところが悪病を患い上尾に戻さ

                                    れてしまう。 病身のお玉は生家を支えるため懸命

                                    に働いたが25歳の若さでこの世を去った。 楼の

                                    主人は孝行なお玉の死を悼んで墓を建てました。

 

氷川鍬神社:上尾宿の鎮守。学舎・聚正義塾の跡地  上尾郷二賢堂跡:天明8年(1788)学僧の雲室上人

及び境内に上尾郷二賢堂跡がある。            が上尾宿に開いた郷学ともいえる「聚正義塾」の学舎

                                    の名前です。                                    

                                    雲室が当時親交のあった林大学頭信敬らと相談して

                                    中国の南宋の大儒朱文公(朱子)と、我が国の学問の

                                    神様とも言われる菅原道真の2人の賢人を祀る意味

                                    から「二賢堂」と名付けたものである。

 

加茂神社:社前に宝暦3年(1753)、弘化2年(1845)  氷川神社:社伝によると紀元前4世紀頃の創建で  

と刻まれたもの、文政10年(1827)御遷宮と刻まれ    農耕神と崇敬された。 8世紀ころに武蔵一の宮と

た石灯篭があり相当古い。 英泉(江戸後期の浮世絵   制定される。大国主命、素戔鳴尊、稲田姫を祀る。

師)に上尾宿の名所として紹介されている。         埼玉、東京、神奈川の南関東に200余もある氷川

                                      神社の総社。

 

氷川神社朱塗り欄干                       氷川神社鳥居:参道はケヤキ並木になっている。

 

塩地蔵:毎年8月24日には地蔵祭りが行われます。   浦和宿本陣跡:本陣は代々星野権兵衛家が勤めて

塩地蔵にはお線香と塩を供えてお参りします。祭壇    いました。敷地内には高札場、問屋場などありまし

には12幅の地獄極楽の絵がかけられ、夜には念仏   た。  また、明治天皇行在所阯碑がある。

や町内の子供たちのお囃子が奉納されます。

 

中山道ユニモール:中山道拡幅工事による歩道設置  玉蔵院:真言宗 豊山派、 賢珠山玉蔵院

に伴い「風格と落ち着きのある町」づくりを目標に歩道  平安時代初期の弘法大師による創建。 江戸時代

のモール化事業を完成しました。               は関東10壇林(僧の学問所)の一つ。

 

 

玉蔵院地蔵堂:安永9年(1780)の建立。二間仏堂  別所沼公園(一時休憩)

ではあるが本格的な造営を受けた仏堂建築でしかも

建築年代が明らかで保存価値が極めて高い。

 

 

調神社:天照大御神、豊宇気姫命、素盞鳴尊の三柱  調神社の庭:調神社と月待信仰の関係を知る上で

を祭神とする延喜式内の古社で、その創建は奈良以  うさぎの彫刻は重要です。 ちなみに狛犬はなくうさぎ

前とも考えられる。 この神社には鳥居、門はない。   の石造です。

 

三学院:真言宗智山派、金亀山極楽寺三学院という。  三学院地蔵堂:江戸時代初期の寛文~元禄年間

創立年代は不詳、本尊は十一面観音菩薩像は平安   (1661~1704)にかけて造立された石造物です。

時代の作。境内には仁王門、六地蔵石仏などある。    左から目疾地蔵、六地蔵、子育地蔵です。 

江戸時代前は三学坊と称して山伏が居住していた。

 

三学院・鐘楼及び三重の塔                   三学院本堂:改装中のため天幕が張られていた。

 

三学院:阿弥陀堂                        三学院:佛舎利殿金亀舎利塔:三蔵法師の遺骨と

                                    ゆかりのある塔。

 

蕨宿:慶長11年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守  蕨宿本陣跡:歴史民俗資料館隣が本陣跡

岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿の本陣・問屋・

名主の3役を兼ねたと伝えられる。その後その役は

子孫に受け継がれ明治維新まで続いた。

 

 

蕨宿民俗資料館                         蕨宿脇本陣:歴史民俗資料館の隣の薬局が脇本陣

 

和楽備神社:御祭神 八幡大神を主神とし合社の神々  和楽備神社拝殿

を祀る。室町時代蕨城主渋川公が八幡大神をお祭り

したのが創立のはじめとつたえられている。

1911年に近郷18社が合祀されて現在の神社名に

なる。                             

 

蕨城址跡:南北朝時代に渋川氏が居を構え大永4年  荒川:江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋と次

(1524)北条氏綱により攻撃され破壊された。江戸   の蕨宿の間にあり交通の要所でした。

時代になると家康が城跡に御殿を置きました。      

現在ではわずかに堀跡が残っているのみです。     

                                  

 

戸田渡船場跡:江戸防御の意から橋が架けられず   水神社:正面の水神宮の碑には寛政8年(1796)の

ここを越えるには船による渡しに頼るしかありません  銘があります。古くは荒川の端にあったもので、新堤

でした。 これが中山道、戸田の渡しです。        防ができてから移され川岸に住む人々の氏神様の

                                    ようになっています。

 

志村一里塚:幕末以降、十分な管理が行き届かなく  縁切榎:この木はいつのころか縁切榎と呼ばれるよう

なり、さらに明治9年(1876)に廃毀を命じた法が下  になりました。文久元年(1861)和宮下向のさいに

されるにおよび多くの1里塚が消滅した。昭和8年か  は榎を避けるためのう回路がつくられています。

ら行われた工事の際に周囲の石積がなされ現在に   男女の悪縁、断酒を願う時にこの榎の樹皮を削り取

いたっています。                         り、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ

                                    霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めた。

 

板橋宿:板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿 板橋:この橋を板橋と称し板橋という地名はこの板橋

にわかれており、石神井川にかかる板橋から現在の  に由来するといわれています。

環状7号線辺りまでが上宿でした。

                     

板橋本陣跡:古くは飯田新佐衛門家ら数家で勤めて   文殊院:真言宗豊山派、幡楊山大聖寺文殊院と号す。

いた。 宝永元年(1704)当家は飯田本家より別家し 本尊は文殊菩薩。 本陣飯田家の菩提樹として多くの

ていますがその際、世襲名「新佐衛門」と本陣・問屋役 信仰を集めていた延命地蔵菩薩の境内を広げて建立

を引き継いでいます。                      された。開山は寛永2年(1625)に入寂の権大僧都

                                    慶恵と伝える。

 

遍照寺:江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台  東光寺:御本尊阿弥陀如来、宗派 浄土宗。

宗寺院であったが明治4年廃寺となる。 現在は成田

山新勝寺末寺となっている。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 


中山道(熊谷宿~日本橋)

2011年11月02日 07時08分07秒 | Weblog

「歴史街道を歩く会」の会員は、中山道を歩き始めてから宿場町で残すところ「深谷宿から日本橋」までと

なりました。

かねてから計画していた「特別例会」による10月24日から26日までの「中山道・完歩の旅」

に有志・総勢19名が参加いたしました。 貸切バスをフルに活用しての旅でしたので、主要な場所を選択し

なお且つ、時間的な制限もあり、急ぎ足で見て歩くのが精一杯でした。 今回は1日目を掲載させていただき

ました。

概略行程

1日目  岐阜県各務原市(出発)→小牧東IC→本庄児玉IC→深谷宿~桶川宿まで→上尾市宿泊

2日目  上尾宿→氷川神社→大宮宿→浦和宿→蕨宿→板橋宿→豊島区池袋宿泊

3日目  巣鴨・高岩寺→本郷追分→赤門→神田明神→湯島聖堂→日本橋スカイツリー→浅草寺→東京IC

      小牧東IC→各務原市(帰着)

 

 

 

深谷宿常夜燈(田所町):前回の特別例会時の最終    国済寺三門(熊谷宿)

散策地点を確認後スタートとなりました。

 

国済寺本堂:関東管領上杉憲顕は13世紀末、新田氏  忍領石標:「従是南忍領」と彫られたこの石標は忍藩と

をおさえるため、この地庁鼻和に6男の上杉蔵人憲英を  他藩との土地との境界を明らかにするため、藩境の

つかわし館を築かせました。 以後3代にわたりこの地   16ヶ所に立てたものの1つです。(熊谷宿)

に居住しました。

 

 

新島の1里塚:宝暦6年(1756)の「道中絵図」には「榎  八坂神社:例大祭で「熊谷うちわ祭」が毎年7月19日

2本づつきづく」とあるが現存する新島の大木は不思議   から23日にかけて開催されます。

なことに「ケヤキ」です。

熊谷宿、こんな所もありました。

中山道跡が、今はデパートの中を通っていました。

 

熊谷本陣跡:明治17年(1884)の火災、昭和20年   熊谷寺山門:浄土宗連生山熊谷寺(ゆうこく寺)

(1945)の戦災で跡形もなく灰塵に帰した。嘉永3年

(1849)「本陣絵図」の控えによると、全国の本陣と

比べて、規模、構造ともに屈指のものであった。

 

札の辻跡:高札場とも言われた。高札は掟、禁令等を   高城神社:平安時代延喜5年(905)宮中において

徹底させるため、人目を引くところに掲示された。      延喜式式内社に指定された古い神社である。 現在

現在高札は本陣であった竹井家に14枚残っている。   「えんむすび」「安産」の神として崇敬されている。

              

鴻神社:明治6年この地並びにちかくにあった3ヶ所の   鴻巣本陣跡:本町4丁目に石碑がありました。

神社を合祀したもので、もとは鴻3社といった。3社とは

氷川社、熊野社、竹の森電電社でした。

 

 

勝願寺:江戸時代初期に定められた関東における浄土  墓碑(勝願寺境内):左より仙石秀久の墓、信重の

宗の壇林(僧侶の養成機関・学問所)18ヶ寺の1つ。   室の墓、真田信重の墓、真田小松姫の墓

 

稲荷神社:拝殿前に安政4年(1857)桶川宿周辺の  大運寺:弘治3年(1557)超山清越が開山された

紅花商人24名が南蔵院へ寄進されたとされる2基の  曹洞宗の寺。墓地には本陣職を勤めた府川家を

石灯篭が並ぶ。                          はじめとする宿場開設以来の家々の墓石が並び

                                    歴史を偲ばせている。

 

女郎買い地蔵:遊び好きな地蔵さんで夜な夜な女郎買 桶川宿本陣遺構:加賀百万石前田家の宿所とされて

いに出掛けるので、住職が背中にかすがいを打ちこみ いるほか水戸藩主徳川斉昭も利用、また文久元年

鎖で縛ったという。 (大運寺境内)             (1861)には江戸に向かう皇女和宮が宿泊したこと

                                    でもしられています。

 

浄念寺:天文15年(1546)創建。下の寺と呼ばれ鐘は 板石塔婆:鎌倉時代から江戸初期にかけて死者の

桶川宿の「時の鐘」といわれる。                 追善供養や自らの極楽往生を願って建立された。

 

木戸址:警備のためのもので宿場の出入り口に設置

されていた。