5月25日晴、「歴史街道を歩く会」の例会は、4月~5月にかけての大連休の混雑を避けた影響で、5月の例会は
月2回の例会となりました。 今回は行き先が東海道「薩埵峠から由比宿」ということもあり、当初から会員の皆さん
は期待しながらの参加となりました。 現地に着くまでのバスの中で、特に、薩埵峠から眺められる「富士山」 及び
由比宿の広重美術館の「版画」などの話題で持切となりました。 途中、富士山が見える、いや見えないなど。
到着後、① 薩埵峠の展望台からの富士山、駿河湾、それと前面の幹線道路など美しい景観に魅せられました。
② 由比宿においては到着するやいなや本陣公園内・広重美術館に入館する人、また、宿場内散策など。
限られた時間内では、どの宿場においても、主要な場所だけにしか行くことができず、まだ々見所が多いのが実情
です。
薩埵峠官道中道(興津東町) 海岸寺
ここから薩埵峠⇒由比宿へ向ってスタート 階段の入口に祀られている。
海岸寺
本堂の波除如来を中心に、左右百体観世音が
祀られている。
現地の説明板
薩埵峠ハイキングコース
薩埵峠ハイキングコース入口
薩埵峠の歴史
薩埵山の合戦
薩埵峠 説明板の内容
白花ツユクサ 白花ツユクサだと思います
薩埵峠の街道沿いに、あちらこちらに
薩埵峠から富士山方向
この時期、富士山の麓から中腹まで雲がかかり、中腹から頂上までは霞がかかっています。
肉眼ではかすかに確認できますが、カメラでは稜線がぼやけ、雪渓がわずかに見えるほどでした。
(前方の1番高い山の上にうっすらと雪渓が見えるでしょうか)
薩埵峠展望台の説明板
薩埵峠からみた海岸べり 袋をかぶせた ビワが街道沿いに
甘夏が街道沿いに
西倉沢一里塚跡 望嶽亭・藤屋
西倉沢から薩埵峠道へかかる入口は坂道になっており 本来は藤屋と称して茶屋を営んでいた。ここより富士山
一里塚がある。 江戸から40番目にあたる。 の眺望がよいので望嶽亭と称し文人が好んで休憩した。
間の宿・脇本陣柏屋 間の宿・本陣跡
間の宿には10軒ばかりの休み茶屋があって旅人は
ここで疲れをいやした。西倉沢村名主を勤めていた
川島家は、間の宿の貫黙目役所の中心をなし、大名も
ここで休憩したので、村では本陣と呼ばれていた。
八坂神社 東海道あかりの博物館
急勾配の階段
寺尾の旧家(小池邸) JR由比駅
江戸時代に名主をつとめたという小池家の母屋は
明治時代の建築と思われるが達の低い平屋は海から
の強風を恐れたことを窺がわせる。
正雪紺屋 由比宿交流館
慶安の変(1651)の風雲児、由比正雪の生家といわ 現在、東海道広重美術館、御幸亭及び由比宿交流館
れる。現在は紺屋を継いで、18代目の吉岡家。 などが併設される由比本陣公園となっています。
由比宿交流館は、カルチャ-、観光、レストの3つの
エリアから成り立っています。
由比本陣公園 東海道広重美術館
正面、馬の飲み水場、物見櫓など復元。本陣の離れ館 本陣の土蔵跡には、広重美術館があり、歌川広重の
を再現した「御幸亭」の茶室では、抹茶を賞味できる。 作品を中心とした800余点のはんがのほか、江戸時
(中央の奥より、やや右側に見えるのが御幸亭) 代の由比の資料が展示されている。
おもしろ宿場館 脇本陣跡(羽根ノ屋)
明治の郵便局(中央) 脇本陣饂飩屋(うんどんや)
明治時代の通信機関であった飛脚屋は明治四年、郵 由比宿には脇本陣は3軒ありました。そのうち江戸時代
便制度の創設により由比郵便取扱所、さらに明治8年 後期から幕末まで勤めたのが、この饂飩屋です。
郵便局となりました。現在は私宅となってます。
御七里役所跡 東桝型跡
大名の中には、江戸の屋敷と領国の居城との連絡に 由比宿も東西の出入り口は枡形に折れており、現在も
直属の通信機関(7里飛脚)を持っていました。 この その面影が残されています。
役所跡は紀州徳川家のもので、江戸~ 和歌山間に
7里毎の宿場に中継ぎ役所を置き、御七里役と5人1組
の飛脚を配置していました。
志田邸 和紙と錦織の館
昔の商家、屋号「こめや」