きまぐれストロール

植物、風景などを主として

中山道(熊谷宿~日本橋)

2011年11月02日 07時08分07秒 | Weblog

「歴史街道を歩く会」の会員は、中山道を歩き始めてから宿場町で残すところ「深谷宿から日本橋」までと

なりました。

かねてから計画していた「特別例会」による10月24日から26日までの「中山道・完歩の旅」

に有志・総勢19名が参加いたしました。 貸切バスをフルに活用しての旅でしたので、主要な場所を選択し

なお且つ、時間的な制限もあり、急ぎ足で見て歩くのが精一杯でした。 今回は1日目を掲載させていただき

ました。

概略行程

1日目  岐阜県各務原市(出発)→小牧東IC→本庄児玉IC→深谷宿~桶川宿まで→上尾市宿泊

2日目  上尾宿→氷川神社→大宮宿→浦和宿→蕨宿→板橋宿→豊島区池袋宿泊

3日目  巣鴨・高岩寺→本郷追分→赤門→神田明神→湯島聖堂→日本橋スカイツリー→浅草寺→東京IC

      小牧東IC→各務原市(帰着)

 

 

 

深谷宿常夜燈(田所町):前回の特別例会時の最終    国済寺三門(熊谷宿)

散策地点を確認後スタートとなりました。

 

国済寺本堂:関東管領上杉憲顕は13世紀末、新田氏  忍領石標:「従是南忍領」と彫られたこの石標は忍藩と

をおさえるため、この地庁鼻和に6男の上杉蔵人憲英を  他藩との土地との境界を明らかにするため、藩境の

つかわし館を築かせました。 以後3代にわたりこの地   16ヶ所に立てたものの1つです。(熊谷宿)

に居住しました。

 

 

新島の1里塚:宝暦6年(1756)の「道中絵図」には「榎  八坂神社:例大祭で「熊谷うちわ祭」が毎年7月19日

2本づつきづく」とあるが現存する新島の大木は不思議   から23日にかけて開催されます。

なことに「ケヤキ」です。

熊谷宿、こんな所もありました。

中山道跡が、今はデパートの中を通っていました。

 

熊谷本陣跡:明治17年(1884)の火災、昭和20年   熊谷寺山門:浄土宗連生山熊谷寺(ゆうこく寺)

(1945)の戦災で跡形もなく灰塵に帰した。嘉永3年

(1849)「本陣絵図」の控えによると、全国の本陣と

比べて、規模、構造ともに屈指のものであった。

 

札の辻跡:高札場とも言われた。高札は掟、禁令等を   高城神社:平安時代延喜5年(905)宮中において

徹底させるため、人目を引くところに掲示された。      延喜式式内社に指定された古い神社である。 現在

現在高札は本陣であった竹井家に14枚残っている。   「えんむすび」「安産」の神として崇敬されている。

              

鴻神社:明治6年この地並びにちかくにあった3ヶ所の   鴻巣本陣跡:本町4丁目に石碑がありました。

神社を合祀したもので、もとは鴻3社といった。3社とは

氷川社、熊野社、竹の森電電社でした。

 

 

勝願寺:江戸時代初期に定められた関東における浄土  墓碑(勝願寺境内):左より仙石秀久の墓、信重の

宗の壇林(僧侶の養成機関・学問所)18ヶ寺の1つ。   室の墓、真田信重の墓、真田小松姫の墓

 

稲荷神社:拝殿前に安政4年(1857)桶川宿周辺の  大運寺:弘治3年(1557)超山清越が開山された

紅花商人24名が南蔵院へ寄進されたとされる2基の  曹洞宗の寺。墓地には本陣職を勤めた府川家を

石灯篭が並ぶ。                          はじめとする宿場開設以来の家々の墓石が並び

                                    歴史を偲ばせている。

 

女郎買い地蔵:遊び好きな地蔵さんで夜な夜な女郎買 桶川宿本陣遺構:加賀百万石前田家の宿所とされて

いに出掛けるので、住職が背中にかすがいを打ちこみ いるほか水戸藩主徳川斉昭も利用、また文久元年

鎖で縛ったという。 (大運寺境内)             (1861)には江戸に向かう皇女和宮が宿泊したこと

                                    でもしられています。

 

浄念寺:天文15年(1546)創建。下の寺と呼ばれ鐘は 板石塔婆:鎌倉時代から江戸初期にかけて死者の

桶川宿の「時の鐘」といわれる。                 追善供養や自らの極楽往生を願って建立された。

 

木戸址:警備のためのもので宿場の出入り口に設置

されていた。

 

 

 


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