「歴史街道を歩く会」の会員は、中山道を歩き始めてから宿場町で残すところ「深谷宿から日本橋」までと
なりました。
かねてから計画していた「特別例会」による10月24日から26日までの「中山道・完歩の旅」
に有志・総勢19名が参加いたしました。 貸切バスをフルに活用しての旅でしたので、主要な場所を選択し
なお且つ、時間的な制限もあり、急ぎ足で見て歩くのが精一杯でした。 今回は1日目を掲載させていただき
ました。
概略行程
1日目 岐阜県各務原市(出発)→小牧東IC→本庄児玉IC→深谷宿~桶川宿まで→上尾市宿泊
2日目 上尾宿→氷川神社→大宮宿→浦和宿→蕨宿→板橋宿→豊島区池袋宿泊
3日目 巣鴨・高岩寺→本郷追分→赤門→神田明神→湯島聖堂→日本橋スカイツリー→浅草寺→東京IC
小牧東IC→各務原市(帰着)
深谷宿常夜燈(田所町):前回の特別例会時の最終 国済寺三門(熊谷宿)
散策地点を確認後スタートとなりました。
国済寺本堂:関東管領上杉憲顕は13世紀末、新田氏 忍領石標:「従是南忍領」と彫られたこの石標は忍藩と
をおさえるため、この地庁鼻和に6男の上杉蔵人憲英を 他藩との土地との境界を明らかにするため、藩境の
つかわし館を築かせました。 以後3代にわたりこの地 16ヶ所に立てたものの1つです。(熊谷宿)
に居住しました。
新島の1里塚:宝暦6年(1756)の「道中絵図」には「榎 八坂神社:例大祭で「熊谷うちわ祭」が毎年7月19日
2本づつきづく」とあるが現存する新島の大木は不思議 から23日にかけて開催されます。
なことに「ケヤキ」です。
熊谷宿、こんな所もありました。
中山道跡が、今はデパートの中を通っていました。
熊谷本陣跡:明治17年(1884)の火災、昭和20年 熊谷寺山門:浄土宗連生山熊谷寺(ゆうこく寺)
(1945)の戦災で跡形もなく灰塵に帰した。嘉永3年
(1849)「本陣絵図」の控えによると、全国の本陣と
比べて、規模、構造ともに屈指のものであった。
札の辻跡:高札場とも言われた。高札は掟、禁令等を 高城神社:平安時代延喜5年(905)宮中において
徹底させるため、人目を引くところに掲示された。 延喜式式内社に指定された古い神社である。 現在
現在高札は本陣であった竹井家に14枚残っている。 「えんむすび」「安産」の神として崇敬されている。
鴻神社:明治6年この地並びにちかくにあった3ヶ所の 鴻巣本陣跡:本町4丁目に石碑がありました。
神社を合祀したもので、もとは鴻3社といった。3社とは
氷川社、熊野社、竹の森電電社でした。
勝願寺:江戸時代初期に定められた関東における浄土 墓碑(勝願寺境内):左より仙石秀久の墓、信重の
宗の壇林(僧侶の養成機関・学問所)18ヶ寺の1つ。 室の墓、真田信重の墓、真田小松姫の墓
稲荷神社:拝殿前に安政4年(1857)桶川宿周辺の 大運寺:弘治3年(1557)超山清越が開山された
紅花商人24名が南蔵院へ寄進されたとされる2基の 曹洞宗の寺。墓地には本陣職を勤めた府川家を
石灯篭が並ぶ。 はじめとする宿場開設以来の家々の墓石が並び
歴史を偲ばせている。
女郎買い地蔵:遊び好きな地蔵さんで夜な夜な女郎買 桶川宿本陣遺構:加賀百万石前田家の宿所とされて
いに出掛けるので、住職が背中にかすがいを打ちこみ いるほか水戸藩主徳川斉昭も利用、また文久元年
鎖で縛ったという。 (大運寺境内) (1861)には江戸に向かう皇女和宮が宿泊したこと
でもしられています。
浄念寺:天文15年(1546)創建。下の寺と呼ばれ鐘は 板石塔婆:鎌倉時代から江戸初期にかけて死者の
桶川宿の「時の鐘」といわれる。 追善供養や自らの極楽往生を願って建立された。
木戸址:警備のためのもので宿場の出入り口に設置
されていた。
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