10月27日、「歴史街道を歩く会」の10月の例会で東海道金谷宿~島田宿を歩いてきました。
今回は、何といっても大井川の川会所にかかる「施設」や、また「川越業務」など知るにつけ、そのスケールの
大きさ、そこで働く人足達の生活を支えてきたことなど往時を偲ぶことができました。
もう一つ、東海道とは直接関連が薄いかもしれませんが、近くまで来た関係で幸運にも、木造の橋で世界一長い
「蓬莱橋」も見る機会に恵まれました。 有難うございました。
次の例会では、いったん島田一里塚跡へ立ち寄り、青島一里塚跡周辺から藤枝宿へ向かいます。ホームが岐阜県
ですので、いつも逆コースを歩いていますが申し訳なく思っています。
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概略行程図
JR金谷駅~大井川橋~島田宿~川会所(午前中)
JR金谷宿 定飛脚問屋(三度屋)跡
田町の南側に「朝倉屋何衛門」北側に「黒田屋重衛門」
という定飛脚の問屋がありました。定飛脚とは「三都定
飛脚」ともいい江戸と京・大阪を定期的に往復した民間
の飛脚で月に三度出したところから「三度屋」とも呼ば
れました。またこの飛脚がかぶった笠を「三度笠」と
呼びました。
お七里役所跡 金谷宿本陣跡(柏屋)
徳川御三家の一つ紀州家が重要書類の送信のために
七里ごとに置いた飛脚の継立所(飛脚小屋)のことです。
金谷宿本陣跡(佐塚屋) 金谷宿本陣跡(山田屋)
元禄~正徳(1688~1715)頃には本陣は柏屋・佐塚
屋でしたが、貞享元年(1684)に脇本陣から3番目の
本陣として格上げになった。
西照寺(顕女上人絵像・市指定文化財) 清水川起点・一級河川
顕女上人絵像は安土桃山時代に活躍した浄土真宗 東海道・金谷中町交差点から東へ進んだところで
本願寺12世顕如上人(1,543~1,592)を描いた絵図 三つの川の合流点での表示板を見てビックリ。
で、当山創建時より寺宝として伝えられています。 川には藻が生えて水も汚れが目立っていました。
日本左衛門首塚 加藤家跡
日本左衛門は本名浜島庄兵衛といい歌舞伎の白波 ここに平成16年まで江戸時代に建てられた旧家、加藤
五人男」のモデルになった義賊。追われて京都で自首し 家が残っていました。地元では、しとみ戸などを含め
、延享4年(1747)、根城としていた見付宿(現在の 昔の姿の復元を目指しています。
磐田市)でさらし首になった。 その首を恋人の「小まん」
がひそかに持ち帰り、宅円庵に葬ったといわれる。
金谷宿川越し場跡 仲田源蔵翁碑・水神公園
仲田源蔵翁・経歴
大井川橋
大井川橋は昭和3年に架設された鋼製のトラス橋です。 橋の長さは1,026.4mです。
島田宿 島田市博物館
川越しや島田宿の資料が展示されている。
朝顔の松
浄瑠璃「朝顔日記」では、恋する人を慕って朝顔という名の三味線引きとなって流浪する盲目の娘深雪が
大井川のほとりで、川留めの悲運に泣くが、その時、奇跡的に目が治るくだりがあり、当時江戸で大評判
となった。 このことから地元では大井川畔の巨松を「朝顔の松」となずけた。現在は後継の松が川風に
ゆられている。
川会所
元禄9年(1696)に川越制度が改正されてから、川役人が川越業務を行ってきたところです。現存する建物
は安政3年(1856)に建てられたもので、明治以降数回に及ぶ移転を経て昭和45年(1970)に建立当初
の近い現在地に復元保存されました。
概略行程図
川会所~大善寺~大井神社~島田一里塚跡&蓬莱橋
島田宿大井川川越遺跡略図
大井川を渡る旅人のために元禄9年(1696)年に川越制度ができ、川庄屋がおかれた。 川会所には
この制度に基づき、川越賃銭の決定、渡渉順次の割り振りなど川越業務の管理運営を行った所。
川会所をはじめとした建物は昭和45年島田宿大井川川越遺跡として現在地に復元された。
川越茶屋 札場
川越人足が川札を換金するところで、昔ながらの
位置に保存されています。
吉三郎の墓(関川庵境内) 二番館
八百屋お七の恋人、吉三郎の墓 人足たちの集合場所が一番宿、二番宿とよばれた。
島田市博物館分館 塚本家(上段の間が存在する。)
大善寺 大善寺の梵鐘(中央部部に見える)
説明板
大井神社・島田の帯祭り
大井神社は島田の産土神の神社。元禄元年に始まった、3年に1度、10月中旬の3日間の帯祭りが有名。
島田に嫁いだ女性が氏子になった報告と安産を祈願して大井神社に詣でた後、晴れ着で街中を披露した
のが、やがて持参の帯を大奴に託し披露するようになったのが始まり。
島田宿本陣跡 島田宿本陣跡&からくり人形
定時になると扉を開き、カラクリにより帯踊りをする場面
カラクリによって帯踊りをする。(アップ) 島田一里塚跡
蓬莱橋入口
明治12年(1879)に開拓した牧之原の茶畑へ行く橋として作られた全長897.4m、通行幅2.7mの
木製橋です。平成9年(1997)に世界一長い木造歩道橋としてギネスブックに登録されています。
名前は、明治3年(1870)開拓している幕臣の激励のため牧之原を訪れた静岡藩主、16代徳川家達
からつけられたとされています。
蓬莱橋を対岸から